97年9月

9月28日

 金子勝『市場と制度の政治経済学』(東京大学出版会)には正直言ってがっかりした。とは言え、ここではつまらない本は取り上げない。この本もつまらなくはない。優れた研究者が優れた議論を展開している。私の不満は主に、版元に対して向けられている。
 この版元の本がしばしば高すぎることについては、既に苦言を呈しておいた。で、今回のこの本であるが、一見したところそれほど高くはない。だが実際には本書もこの版元の価格政策のあおりを食らったことは、一読してみれば瞭然である。薄い。ページ数が少ない。内容に比べていくら何でも紙幅がなさ過ぎる。ミクロな所有権制度、企業組織からマクロな国家の統治構造、更に国際通貨制度までを一貫したパースペクティヴの下に論じようという気宇壮大な書物にしてはページが足りない! 最低この倍の厚さが必要だよ。
 おそらく著者は本書を教科書などに採用して、学生など一般の人に広く読まれるにふさわしい値段にしようとしたのだ。ところが版元に、「その値段ではこの厚さにしかできない」とか何とか言われたのだ。それでこの結果になってしまったに違いない。しかしこれじゃ裏目も裏目、帯に短したすきに長し。記述は簡潔すぎてかえってわかりにくくなったし、細部の議論が省略されたから専門家には食い足りなくなったし……と中途半端な本になってしまった。
 さて、内容の紹介に移ろう。著者はもともと財政学、制度史的な財政社会学の研究者で、近代イギリス財政史の研究からそのキャリアをスタートさせた。院生から助手の時代には、「自由主義段階」の「安価な政府」の鋭利な分析で注目された。それは、折しも「自由貿易帝国主義論」など、19世紀についての見直しの気運が高まる中、「安価な政府」のスローガンの陰に隠れた、インド植民地に支えられての軍事財政の拡大や、地方行財政システムの充実という事実を抉りだして、イギリス近代国家像の再編を迫るものであった。しかし著者の興味はイギリス一国にとどまることはなかった。財政の実証分析を糸口に、制度としての近代国家、近代経済社会の総体に迫る「制度の政治経済学」を樹立しようというのが著者の野心であった。そして著者のその後の研究は戦後日本の消費社会論、サッチャー政権下のイギリスと円高不況下の日本の地方行財政の実態分析、さらには「構造調整」下の開発途上国財政へと広がっていく。
 そして本書は氏のこれまでの研究の理論的な総決算ということになる。主たる論敵として、現時点での新古典派主流経済学の到達点とも言うべきゲーム理論的な比較制度分析を選び(明示的に論及されている喧嘩相手は青木昌彦・奥野正寛編著『経済システムの比較制度分析』(東京大学出版会)だが、池田信夫『情報通信革命と日本企業』(NTT出版)の方が見通しがよいと思う。ポール・ミルグロム/ジョン・ロバーツ『組織の経済学』(奥野正寛/伊藤秀史他訳、NTT出版)もじきに出るな。)、企業、産業組織を分析の焦点として合理的主体のプレイするゲームの結果として制度を解釈するその論法に、宇野弘蔵カール・ポランニー的な視角から、労働、資本、土地という本源的生産要素の商品化の困難、市場化の限界とその解決の工夫(著者の言葉で言えば「セイフティ・ネット」)として制度を定義するという理論的戦略を対置している。この枠組みはとりわけ国際比較の際に威力を発揮する、と著者は主張しているが、それを実行してみせている第6章は確かに面白くてわかりやすい。「生産要素市場のセイフティ・ネットをその入り口に置くか出口に置くか」という視角は啓発的である。
 ともすれば読者を消化不良にさせがちではあるが全体としては示唆に富む本書はしかしながら、新古典派の破産を示したものにはなっていないと私は考える。ミクロ的な経済主体のありようは常に既にマクロ的、制度的な脈絡に先行されているのであり、ミクロ的な主体行動から制度やマクロ経済を説明するのは本末転倒である、と著者が主張したいのであれば、新古典派の立場に立つ多くの論者にその批判は当てはまるにしても、新古典派の理論枠組みそれ自体にはその批判は届いていないのではないか。進化論的な観点からすれば、制度についての新古典派的な「説明」は機能主義的なものであり、必ずしも、と言うより基本的にはその歴史的、因果的形成の説明ではない。合理的主体のプレイするゲームの均衡として制度を記述することは、主体たちの意図的な選択(明示的な合意)の所産として制度を解釈することとイコールではない。主体に先行してたまたま成立してしまった制度(のみならず自然環境をも含めて考えてもいい、つまりは主体がおかれた脈絡一般)が、主体によって受容され続ける、主体がそれに適応し続けるメカニズムをゲームは示しているのであって、ゲームは制度(ならびにその他の環境)の形成メカニズムを示す必要はない。「複数均衡」「経路依存性」といった類のコンセプトはそうした問題への気付きを示している。
 本源的生産要素の市場化の限界にしても、ニュー・ケインジアンの労働市場分析やクルーグマンらの都市の自己組織化理論などはそれへの取り組みと解釈することができよう。それらはまさにある限界の下に位置づけられた主体の行動を分析しているからである。
 また規範的なメッセージとして新古典派的な個人的自由主義を批判し、人間の共同的側面を重視しよう、という主張が見え隠れするところにも違和感を覚える。問題は共同性の再建ではなく、新古典派的なやり口、主流派の自由主義によって切り捨てられる弱者を個人として発見し、その自立や救済の道を探ることであろう、と私は考える。
 あとできれば著者には、近代イギリス財政史のモノグラフを改めて1冊にまとめていただきたいものである。本書の短い1、2章でそれをまとめられるのは悲しい。余裕のある人は巻末の文献表を見て、図書館で探して読んでみよう。

 長尾龍一『憲法問題入門』(ちくま新書)は一見シニカルだが真っ当な長尾節炸裂の日本憲法入門。戦後憲法学とも、右翼的改憲論とも関係ないところで生きてきた著者の面目躍如。

9月15日

 お待たせしました。
 9月のトップはやはり、立岩真也『私的所有論』(勁草書房)である。とりあえず上っ面の紹介。知らない人は題名に騙されるかもしれない。普通なら「自己決定論」と名付けられてもよさそうな本だ。実際、扱われているトピックは、いわゆる「生命倫理学」の領域にかかわるものであるし、内容的にも、例えば森村進『財産権の理論』(弘文堂)が試みているように、「私的所有」を根本概念とした社会理論を立てるわけではなく、むしろその相対化が目指されている。だが、「自己決定論」ではなく『私的所有論』とこの本が名付けらた理由も何となくはわかるのだ。まず、このような題名を付けることには、「決定」と「所有」は切り離せない問題であること、への注意喚起の効果がある。第二に、より重要なことは、著者は「私的所有」と同様に「自己決定」をも相対化しようとしている、と言うことだ。
 結論から言おう。例えば森村氏が試みているような、「私的所有」の根底に更に「自己所有」(そして「自己決定」)を見出し、それを我々の現にある道徳の合理的根拠と解釈し、更にそこから規範的社会構想を紡ぎだしていく試みがある。このような立場への批判は従来、人間の生の共同性を強調する立場から行われていた。しかし立岩氏はこの立場をとらない。個人には他からは不可侵である(べき)部分があることを、「自己所有」の概念によってではなく、(適当に言い換えれば)「他者の不可侵性」(てとこか)の概念によって説明しようとする。
 乱暴に言えば、所有権の直覚的な根拠は、「俺が作ったから俺のものだ、だから尊重しろ」というよりは、「他人様のものにはうっかりさわらん方がいいよな、その人にとっては何がどの程度大事かこっちにはわかんないもんな、だから俺のものも尊重してくれ」といった感じなのである。これは意外と面白い捉え方であり、少なくとも「自己所有」と同程度には我々の直観とも整合すると私は思う。問題はこの立場からの体系的な社会理論構築がまだほとんどなされていないことである。立岩氏の本書がその(少なくとも日本では、ひょっとしたら世界的にも)最初の挑戦と言えるのではないか。
 で、この本はかなり体系的に書かれているし、決して短くはない。それゆえ読むのはくたびれるかもしれない。だが、いたずらにわかりにくいことを書いているわけではない。論旨を追うためには多少の忍耐力と時間がいるだけのことだ。あるいは、註と文献リスト、本文中のクロス・リファレンスが充実しているので、生真面目に全部を読む必要はとりあえずはない。むしろ座右に置いて、気になったらパラパラめくったり、文献を探したり、という風に辞書代わりに使う、という手も考えられる。とにかく、生命倫理、そして自己決定権の問題については、今後は本書が(日本語圏では)必須の基本文献となるであろうことは間違いない。
 最後に、氏も書かれているとおり、リンクした立岩氏のページは本書と組み合わせて使われたし。註、文献の拡充を中心に、本書のフォローアップがそこでなされている。


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