97年11月

11月29日(30日修正)

 ダニエル・デネット『心はどこにあるのか』(土屋俊訳、草思社)は一線の研究者が書き下ろす科学啓蒙書シリーズ「サイエンス・マスターズ」の1冊であり、わかりやすい好著が揃っている。さて本書はさしづめ認知科学編の1冊、といったところになるのかも知れないが、著者デネットは哲学者である。もっとも脳・神経科学、動物行動学、人工知能などの実証科学者たちと共同研究を重ねてきたという点で、日本の「哲学者」のイメージとはずいぶん違うが。(どうも日本で「書斎を出た行動派の哲学者」というとろくなイメージにならないが、これは余談。)ちなみに訳者土屋俊氏も、認知科学、人工知能、言語学のフィールドで実証研究に携わっているという点でデネットに似たスタイルの(日本ではまだ数少ないタイプの)哲学者である。
 認知科学は古い言葉で言えば「学際領域」であって、心理学、計算機科学、ロボット工学、言語学、生物学、そして哲学等の様々な領域を出自とする研究者たちが挑んでいる。現代の英米哲学、いわゆる分析哲学の重心はかつての科学哲学、言語哲学から心の哲学へと移動してきているのだが、もちろんこれは認知科学の発展と連動している。デネットはまさにその中心人物として研究動向をリードしてきた存在であることはあとがきで土屋氏が解説するとおりであり、既に翻訳されている論文集『「志向姿勢」の哲学』(若島正・河田学訳、白揚社)を眺めてもわかる。
 ということでまさに打ってつけの人材が書いた啓蒙書、というわけだが、これ、科学啓蒙書というより、やっぱり、哲学書なんだな。土屋氏は前半2章がことにテクニカルな意味において哲学的でしんどいことに注意を喚起し、第3章から読み始めてはという提案をなさっているが、実のところ後半も、こっちのほうがわかりやすいというだけのことで、ほんとうのところは哲学的だ。心とはどのようなシステムであるのか、についてのデネットなりの理論がわかりやすく解説されているのだが、それはやっぱり普通の意味での(自然科学流の)実証科学のモデルではない。その理論が実証研究のツールとして使えないわけではなく、その逆に大変有用なアイディアなのだが、それでもこのアイディアは、実証研究から帰納的にフィードバックされたものというよりは、固有の意味での(「志向性」という古典的なテーマについての)哲学的な思弁の産物であることに注意すべきだ。つまり本書は認知科学の入門書と言うよりは、心の哲学の入門書である。
 それにしてもこの間ずいぶんと心の哲学の重要文献が翻訳されている。反AI論の論客であり、デネットの論敵だが最近旗色の悪いジョン・サール『志向性 心の哲学』(坂本百大監訳、誠信書房)とか、サールとは別方向からのデネットの論敵、ニューラルネットワーク論者のポール・チャーチランド『認知哲学 脳科学から心の哲学へ』(信原幸弘・宮島昭二訳、産業図書)とか。後者はwebでもあちこちで絶賛されている。更にジェリー・フォーダー、アーネスト・ルポア『意味の全体論 ホーリズム、そのお買い物ガイド』(柴田正良訳、産業図書)は一応意味論、言語哲学が主題だが、その射程は間接的に心の哲学にまで延びており、デネットとチャーチランドを激しく批判している。ことにフォーダーはデネットの志向システム論、チャーチランドのニューラルネットワーク論といったホーリズムの対極に立つ原子論的、還元主義的立場から自分なりの心の哲学と認知科学を構想しているそうだ。

 つい最近古本屋で不覚にもまだ読み通していなかった萩尾望都『ポーの一族』(小学館)を古いコミックス版で全巻入手したが、ついでに大体全部立ち読みしていたが終わりの方をいまいちさだかに記憶していない長谷川裕一『マップス』(学研)を揃えた。
 『ポーの一族』は今更紹介するまでもないし、まだ読み終えていないから書くべきこともないが、『マップス』はどちらかというとオタク系のマイナーな月刊コミック誌『NORA』に連載されていたので、意外と普通の人には知られていないのではないか。事実上この雑誌の看板だったのだが。そもそも長谷川裕一という描き手が、いわゆるメジャー誌にはあまり書いていないし、『飛べ! イサミ』(NHK出版)はメジャーといえばメジャーだがNHKのテレビアニメのコミカライゼーション(原作ではない)であり、その上児童マンガであるし、どちらかというとマイナーな存在であろう。
 だが改めて確認してみると、86年から94年にかけて、延々と描き続けられた本作は結構すぐれた、意義深い作品である。(マンガのみならず小説の世界まで含めた上でなお)日本を代表するスペース・オペラ、宇宙冒険活劇と呼ぶにふさわしい痛快娯楽作であるのみならず、明らかに宮崎駿『風の谷のナウシカ』の同伴者であり、相通ずるテーマに取り組んでいる。
 本作は見かけの上ではかなり軟派であり、絵柄はロリコン美少女アニメ風であるしヌードは乱発されるし、他愛のない三文ラブコメ的エピソードにあふれ、まさに「宇宙怪物と半裸の美女」がひしめく悪い意味でのスペース・オペラの要件をしっかり満たしている。女性キャラの描き方や、異星人世界にまで性的ステレオタイプが反復されている点などはフェミニスト批評の立場から批判されてよいし、異星人の感性や思考、社会のあり方に全く「異質さ」が感じられないあたりは、現代SFとして落第である。だが主人公の地球出身の少年ゲンとその相棒、宇宙船の頭脳ユニットでもある女性型合成人間リプミラとの関係の描き方は、手塚治虫がこだわってきたピグマリオン・コンプレックス問題への平凡だが真摯な取り組みとして好感が持てる。
 更にストーリーの骨格に据えられた、あまたの宇宙の生成と消滅を超え、それらの記録をとり続ける超存在を巡る宇宙大戦争には、スペース・オペラとともに80年代のサイバーパンク(ことにグレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』(ハヤカワ文庫)あたり)の影響がうまく消化されていて、この点ではきちんと「現代SF」していると言える。同時にこの「宇宙の記憶」を巡る闘争は、『ナウシカ』における「墓所」を巡る闘争と明らかな対応関係にある。(詳しくは実際に読まれたし。)主人公が敵の仕掛けた罠としての「伝説の勇者」の役を演じつつその枠を超えていくあたりも同様だ。
 結論的には、『マップス』より『ナウシカ』の方が総体としてすぐれた作品である、と評価せざるをえない。現在思いつくその理由は、第一に、『ナウシカ』の方が作品世界を我々のこの現実世界と地続きのものとして描き、作品テーマを我々自身の問題として突きつけることに成功しているからであり、第二に、異質な他者の問題にまれにみる誠実さと巧みさで取り組んでいるからである。影響関係においても、ほぼもっぱら『ナウシカ』の方が『マップス』に影響を与えてきた、と解釈して差し支えないだろう。だがそれでも本作は固有の価値を主張し、読まれるに足るものである。ことに物語のエピローグにおいて、「勇者伝説」を否定するために姿を消すゲンとリプミラは、ナウシカとある意味で対極の道を歩みつつ、少なくともその最後の一瞬では、ナウシカに匹敵する輝きを放っている。ゲンとリプミラの歩みのオプティミズム、それに対するナウシカの深い諦念。この点で好き嫌いは分かれるかも知れないが。

11月25日

 このところ組織の経済理論でいくつか基本文献が出そろってきた。
 まず藤本隆宏『生産システムの進化論 トヨタ自動車にみる組織能力と創発プロセス』(有斐閣)は製造業の競争力問題については当代一流の研究者である著者の最初の単独著作であるが、案の定よく売れているようだ。著者はR&D・生産管理研究の立場からする産業の競争力研究の草分けたる故ウィリアム・アバナシーW・アバナシー+K・クラーク+A・カントロウ『インダストリアル ルネサンス――脱成熟化時代へ』(望月嘉幸監訳、日本興業銀行産業調査部訳、TBSブリタニカ))の弟子にあたり、キム・B・クラークとの共著『実証研究 製品開発力 日米欧自動車メーカー20社の詳細調査』(田村明比古訳、ダイヤモンド社)や吉川弘之監修・JCIP編『メイド・イン・ジャパン 日本製造業変革への指針』(ダイヤモンド社)からのスピンアウトである武石彰氏との共著『自動車産業21世紀へのシナリオ 成長型システムからバランス型システムへの転換』(生産性出版)でも既にその筋ではおなじみであるが、今回はまさに日本製造業の「強さ」の本丸とみなされるトヨタ自動車のインテンシヴな事例研究を行っている。企業の進化についての社会システム論的考察にも紙幅が割かれている。まあ実は私は本書はまだ買ってもいないのだが、学界動向とか著者の書かれたいくつかの論文(大変ためになる)から推測する限りでは、今後しばらく「定番」の地位を占めそうな本である。
 それからいよいよ出たポール・ミルグロム+ジョン・ロバーツ『組織の経済学』(奥野正寛・伊藤秀史・今井晴雄・西村理・八木甫訳、NTT出版)についても一言しておかねばならないだろう。単に組織の経済理論、経済学的経営学の学部レベルの教科書としてのみならず、現代ミクロ経済学の基本書として広く読まれている著作である。良きにつけ悪しきにつけ今後はこの本が企業組織、産業組織、雇用、金融、経済政策、経済体制等、経済システム一般について研究し議論する際のベースラインを提供することになるだろう。とにかくアメリカの大学教科書の例に漏れず大部な辞書のような本だが、よくもまあそれを全訳してそこそこの価格にして市場に出したものだ。そこんところにまず感心する。たぶん、元は取れるだろう。ただいま私も一所懸命呼んでいるところだ。ところどころミクロの基礎がそこそこわかっていないとわからない箇所もあるが、熱心な学部生にちょうどよいレベルだと思う。

11月18日

 絵所秀紀『開発の政治経済学』(日本評論社)は雑誌『経済セミナー』の連載を改めてまとめたものであり、氏の91年の教科書『開発経済学――形成と展開』(法政大学出版局)をフォローアップする書物である。開発経済学の教科書は日本語でもいくつかあり、定評のあるところでは渡辺利夫『開発経済学 経済学と現代アジア』(第2版)(日本評論社)とか 速水佑次郎『開発経済学 諸国民の富と貧困』(創文社)、絵所氏と学問的スタンスが似ているが、もう少しオーソドックスな書き方をしたものとして原洋之介『開発経済論』(岩波書店)があるが、これらに比べて氏の2冊の特徴は学説史を主題とするところにある。それはトピックスや分析手法を体系的に紹介していくのではなく、開発経済学という実践的な政策科学の歴史を、現実の開発政策の歴史との相互作用の中で「アイディアの発展史」として描き出していく。
 前著は開発経済学における構造主義、積極的介入論の衰退と新古典派の興隆、市場指向の高まりを、「「インドモデル」から「韓国モデル」への転換」というわかりやすいフレーズで押さえ、IMF・世界銀行公認の理論としての新古典派開発経済学の覇権への、政治経済学的立場からの疑義、とりわけアマルティア・センの潜在能力アプローチへの共感の表明をもって締めくくられていた。それに対して本書では、前著以降の歴史的展開が踏まえられているだけではなく、ページ数も増えたせいか前著と重複する主題についてもよりつっこんだ議論がなされている。とりわけノーベル賞受賞者T・W・シュルツを主に取り上げつつ、「新古典派開発経済学」が単なる「新古典派経済学」ではないことを説得的に論じるあたりは大変に興味深い。
 しかしやはり本書のキャッチフレーズがあるとすれば、まさに題名通り「開発の政治経済学の興隆」といったところであろう。前著ではまだ予感、期待にとどまるところが大きかった開発経済学の政治経済学化が、今や力強いうねりとなっていることを、本書は説得的に示してくれる。本書で指摘されているとおり、93年の有名な世界銀行『東アジアの奇跡 経済成長と政府の役割』(白鳥正喜監訳、東洋経済新報社)などはIMFや世銀の立場、あるいは新古典派開発経済学自体が、従来の構造調整政策を見直し、政治経済学的アプローチへと転換していっていることを示しているし、情報の経済学やゲーム理論に基づく新制度派のアプローチが影響力を強めていることも、『東アジアの奇跡』やそれへの批判的応答である青木昌彦・KIM.HYUNG-KI・奥野正寛編『東アジアの経済発展と政府の役割 比較制度分析アプローチ』(白鳥正喜監訳、日本経済新聞社)などを見ても瞭然である。またセンの潜在能力アプローチは、UNDP(国連開発計画)のキーコンセプト「人間開発」のバックボーンを提供している。(90年以降毎年発行されているUNDP『人間開発報告書』(日本語版、古今書院)を参照のこと。)
 ただ、まさに絵所氏が本書で指摘しているとおり、その着地点はなお明らかではない。広義の功利主義から抜けることはなく、その点でまさに「経済学」である新制度派と、新たな倫理学をも切り開きつつあるセンのアプローチは基本的なところですれ違っているし、また「経済学」の一分野としての開発経済学と、「開発研究」の一環としての開発経済学、という二通りのありようの間の緊張関係については、原氏も先月紹介した『アジア・ダイナミズム』(NTT出版)の後書きで語っているとおりだ。その辺の未来の不分明さをも含めて、開発経済学の現状を素人にわかりやすく教えてくれる好著である。ただ前著に比べて論点が盛りだくさんであり、数式も少しあるので経済学の素養が全くない人にはちょっとつらいかも知れない。経済学のど素人にはむしろ前著をすすめる。どっちにせよ、アジアNIEsのバブル崩壊も感慨深い今日、成長よりもむしろ貧困にこだわる、インド経済の専門家のお話に耳を傾けるのも悪くない。


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