98年11月

11月12日

 メルボルンに到着してから4ヶ月以上がすぎた。この間学問的にはほとんど何も生産しないで過ごしている。7月はほぼまるまる家探しでつぶれ、その後も、同居人の妹が来てくれているにかかわらず、子守に追われる日々であった。彼女は炊事の過半を引き受けてくれていたものの、同居人は昼は週3回、午後だけ近所のAdult Multicultural Education Servicesの英語教室に通い、夜は眠りの浅い子供を寝かしつけるのに精一杯で、昼間の子守の過半はこちらの負担となる。(それでもたぶん俺が一番楽をしているのだ! すまん。)いきおいものを読めても書く暇はない。語学学校に行く暇などもちろんなく、週1回大学の和文英訳の講義に出、更に週2回自宅でルーマニア人のPh.D candidateに会話や作文の個人指導を受けているだけだ。しかもすでに大学は夏休みに入ってしまった。
 同居人の妹は来週には日本に帰ってしまう。そのあとのことを思うととにかく不安である。とりあえず、ベビーシッター候補を見つけたほか、いよいよ娘を保育所に預ける算段を整えているが、それで勉強する時間的、体力的余裕がどれくらい捻出できるのか。浮いた時間のあらかたは結局また家事にとられてしまうのではないか。金はないわけではないがいくらでもあるというわけではないのだ。
 もちろん面白いこともたくさんある。この土地を我々は基本的に気に入っている。しかし、今ここに書く余裕はない。ときたまここやよその掲示板に書いてるから、興味のある方はそちらを当たってください。

 さて、たまには経済書談義でもしましょうか。
 以前予告した『期待しない時代』はついにポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』山形浩生訳、メディアワークス)として刊行された。山形氏苦心の訳業であり、詳細な訳注も含めてまさに画期的な読みやすさで「きほんのき」(小林カツ代)が完璧に押さえられた「経済学入門」ならぬ「経済入門」である。これに(読みやすさは格段に落ちるとはいえそれでもまあまあの)『経済政策を売り歩く人々』(伊藤隆敏監訳、日本経済新聞社)を「経済学入門」として付け足せば教養の経済テキストとしてもう完璧である。
 個人的に印象深かったのは、「経済にとって最も重要なのは生産性、所得分配、失業、であって他のことは大体どうでもよい、しかしこの三つは経済政策で簡単にどうにかできるような代物ではないから、それに比べれてみれば実は副次的なことにすぎないインフレとか規制緩和とか財政赤字といったものばかりが経済政策の主要なテーマとなっている。」と臆面もなく言い切るところであった。
 生産性のメカニズムは実のところ経済学にとっては解明の対象と言うよりは議論の前提である、という印象はかつて労働問題を学んできた私自身がかねてから抱いていたものである。
 たとえばこのことは、現代マクロ経済学の主潮流となった内生的成長理論には明確に当てはまる。内生的成長理論はかつての経済成長の理論モデルでは外生変数、モデルを作る際に前提として与えられていた技術進歩、生産性上昇を、モデルの中で決定されてくる内生変数として取り扱うところにポイントがあるわけだが、それにしたって、やれ、規模の経済がはたらいて(要するに、たくさん作れば作るほど単価が安くなって)だとか、人的資本の蓄積によって(仕事に慣れたり訓練を受けたりして労働者の練度が上がって)とか、知識資本の蓄積によって(新技術の開発がうまくいって)とか、いった常識の範囲に属することを、きちんと数理モデルにできるようになった、というだけのことだ。数理モデルにできるということの意義はもちろん存外に大きいが、過大評価も慎まなければいけない。
 重要なのは、それがその名前が素人に与えかねない印象ほどには、技術進歩、生産性上昇の具体的メカニズムを十分に理論化した、とは決して言えないということである。教育訓練投資や研究開発投資が生産性の向上をもたらすメカニズムについての数理的な記述をそれは与える。しかし実は肝心なことはほとんど何も解明されていない。いくらの金をかけた投資が、ではなく、具体的に、その金を使ってどのような研究開発とか教育訓練とか組織設計とかをすれば生産性が上がったり新製品ができたりするのか、についてはそのモデルはほとんど何も語らないのだ。
 他方現代ミクロ経済学の組織理論においても、企業組織の「組織」としての側面、どうすれば情報が効率的に処理されるかとか、どうすればメンバーの動機付けがうまくいくか、といった議論が中心で、その「企業」としての側面、どうやって新しい事業を興してそれを成功させるか、という問題についてはほとんど寄与するところがない。というよりそもそもそれが通常の意味での経済学が理想とするような「科学」の対象となるのかどうかさえさだかではない。
 この意味での「企業」の研究は今なお経営学の領分である(このあたり高橋伸夫『経営の再生』有斐閣、など参考になるかもしれない)わけだが、それは結局のところ事例研究となるしかなく、更に言えば、訳の分からない説教となることを避けようとすれば歴史学になるしかないように私には思われる。実際経営戦略論の父たるアルフレッド・チャンドラーは経営史学者であるし(『経営組織』実業之日本社、『経営者の時代』東洋経済新報社、『スケール・アンド・スコープ』有斐閣。なお経営史学の教科書としては個人的には大河内暁男『経営史講義』東京大学出版会、がおすすめ。)、大立て者マイケル・ポーター『国の競争優位』(ダイヤモンド社)ではかなり歴史的アプローチに接近してはいないか? 
 クルーグマンは本書では内生的成長理論について特に何も言っていないが、生産性についての経済学者のおしゃべり一般を「宴会の雑談に毛の生えたような」「しろうと社会学の爆発」と片付けている。こう言われてカッとなる経済学者は多いだろうし、それ以上に経営学者、産業社会学者は頭にくるに違いない。生産性のメカニズムこそは、マルクス経済学、(旧)制度学派経済学残党(具体的にはフランスのレギュラシオニストやアメリカのラディカルズ)、そして経営戦略論、生産管理論、労働過程論のまさに中心課題であるのだから。しかしながら「しろうと社会学」ならぬ「くろうと社会学」による生産性研究においてもなお、「生産性が上がった場合にはこのようなことが起きている」とは言えても「こうすれば生産性が上がる」とはとても言えないのが現状ではないか。
 本書については、ことにその政策論についていろいろ言わなければならないことがあるのだが、それはまた小野善康『景気と経済政策』(岩波新書)との比較もふまえた上でまた今度。


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