98年12月

12月31日

 先月来書きあぐねているやつが腐りかかっているので、いい加減アップしてしまおう。中途半端ですまん。

 先日衝動買いしたPaul Krugman, Development, Geography, and Economic Theory, MIT Pressは面白いエピソードから始まる。友人のアフリカ研究者が、趣味のアフリカ古地図蒐集をもとに「アフリカ大陸についての無知の進化」というテーマで論文を書いたのだそうだ。ヨーロッパ人のアフリカ地図の歴史において、その最初期のものはもちろん不正確であり、とくに内陸部については伝聞を基にしたきわめてラフなものであった。その後実地探査と測量術等の進展によって、地図は正確なものになっていく。しかし逆説的にも、内陸部の空白は一時的にはむしろ拡大したのだ。その理由は、伝聞に基づく情報が根拠を欠くあやふやなものとして排除されたことによる。後に探査の進展によって、かつての伝聞情報がかなり正しかったことを裏付けつつ、地図の空白は埋められていく。
 クルーグマンは同様の「無知の進化」が開発経済学と経済地理学の歴史においても見られる、と指摘する。たとえばその草創期、1940,50年代の開発経済学においてなされていた、経済発展のダイナミズムについての根本的に正しい問題提起は、数理モデルによる定式化が的確になされなかったために、理論経済学、そして経済学全般から無視され、長らく忘れ去られていた。(その後長らく「開発経済学」という統合された学問分野自体が存在しなくなった、というクルーグマンの言い方にはカチンとくる人も多かろうが。)
 こうした開発経済学や経済地理学の遺産の理論的サルヴェージの第一人者たるクルーグマンの本意はしかしながら、モデルにはまりにくい問題を無視しがちな正統派経済学の了見の狭さを論難することにではなく、そうした問題については充分に承知しつつ、それでもなお正統派のやり方を弁護するところにある。
 このような態度を専門家の傲慢なエリート主義と見なすか、それとも堅気の職業人の謙虚と矜持と見なすか、で評価は分かれてくるだろう。私自身は、『クルーグマン教授の経済入門』で「生産性のことはよくわかってない」とあっさり言う彼は「堅気だなあ」と思う。

 何が言いたいのかというと、『クルーグマン教授の経済入門』の原題はThe Age of Diminished Expectation、当初の仮邦題は『期待しない時代』であったわけだが、その本意は「アメリカ経済はそうひどくもなければそうよくもないし、たぶんこれからもそうである確率が高い。どん底の破局やバラ色の未来を予想するイカモノ経済書には注意しよう。」てなところである。で、近年の日本の不況論議においてもこういうセンスは結構大切なのではないか、ということだ。
 その意味で最近岩波新書から出た啓蒙書二つ、野村正実『雇用不安』小野善康『景気と経済政策』もまたなかなかに味わい深いものである。この両著に共通するのは、バブル期の日本礼賛論の舌の根も乾かぬうちに、不況になったら今度は日本経済ダメ論・危機論を振り回す論者たちへの深い軽蔑である。
 もちろん二人の、クルーグマンまで含めれば三人の論客の間の相違には少なからぬものがある。たとえば野村氏と小野氏は現代アメリカ経済がバブル状況に陥っている、と見なしているが、クルーグマンはそこまでは言わず、せいぜいニューエコノミー論(バブル期の日本経済礼賛論のアメリカ版みたいなもの)をくさす程度である。またクルーグマンと小野氏は数理モデルを扱う理論経済学者であるのに対して、野村氏は実証的労働経済学者、それも計量分析ではなく企業・職場の実態調査を本領とする、欧米ではむしろ経営学者か社会学者と分類されるようなタイプの伝統的な労働問題研究者である。
 更に理論的立場について言えば、クルーグマンが不完全競争市場の概念によって不況や失業を分析するいわゆるニューケインジアンであり、野村氏も敢えて言えばそれに近い経済観を持っているのに対して、小野氏は独自のケインズ解釈に基づき、人々の「金持ち願望」――具体的なモノやサービスへの欲望ではない、モノやサービスを購入するための貨幣、あるいはモノであっても実際に消費したり使うためにではなく、もっぱら資産(つまりは貨幣と似たようなもの、バブル期に投機目的で取り引きされた芸術作品とかを考えてみられたい)として扱われるモノへの欲望――が実際に使うためのモノやサービスへの欲望をしのぐ場合には、完全競争市場においても不況・失業が発生する、という、ニューケインジアンとはまた別のタイプの現代ケインズ経済学を展開している。(余談だが、ニューケインジアンの失業理論はケインズ自身のそれよりもケインズが批判したピグーの「摩擦的失業」理論に近いという小野氏の指摘は学説史的にも傾聴に値する。)
 平たく言えば、「経済のよしあしの根っこんとこ」をクルーグマンは生産性と見なし、その決まるメカニズムについてはよくわかっていない、とするのに対して小野氏はそれと同時に貯蓄と投資をつなぐ金融を重視しており、かつそのメカニズムは基本的にかつてケインズが「人気投票」と呼んだような、投資家の将来についての期待、思惑、つまりは「バブル」によって動いている、とする。
 しかし、現状の評価と政策提言に当たってのスピリットは三氏とも意外に似通っている。クルーグマンは「生産性についてはよくわからんから、産業政策や戦略的貿易政策を当てにするな」と言いきり、本来「日本的経営」の容赦ない批判者たる野村氏は「日本的雇用慣行はそう簡単に変わるものではないし、失業の抑制とそれを通じた社会の安定にはそれなりに貢献しているのだから、拙速な改革論はナンセンスだ」と断じ、小野氏は「不況の克服は経済の将来への期待が自然に回復するのを待つしかなく、政策的に簡単にいじれるようなものではない。ケインズ政策の意義は失業者、遊休設備の有効活用に尽き、景気回復をそれに期待してはならない。」と言い放つ。何というか、堅気ではないか。

 あとはこの間の収穫と先物買い。中島梓『タナトスの子供たち 過剰適応の生態学』(筑摩書房)は名著『コミュニケーション不全症候群』(ちくま文庫)の続編にしてジャンル確立者自身によるやおい論。パソ通文体がうっとおしいし、他にもいろいろ問題もあるが力作。ジョージ・レイコフ『比喩によるモラルと政治−米国における保守とリベラル−』(小林良彰訳、木鐸社)は認知言語学の第一人者による政治の認知科学だが、政治哲学にも示唆するところ大。1月に出る予定の阪上孝『近代的統治の誕生』(岩波書店)はアンシャン=レジームから19世紀にかけてのフランスを素材に、フーコーなども踏まえて著者がこの間京大人文研の共同研究などで積み重ねてきた研究の総括。


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