ずいぶん前に本館でも紹介したジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理 統治の倫理』(香西泰訳、日本経済新聞社)であるが、非常によい本なので改めてお勧めする。今回本を書きながら改めて自由主義の根本問題のひとつはケインズの言う「政府のなすべきことagendaとなすべきではないことnon-agendaの区別」だなあと思った(この点でも『クルーグマン教授の経済入門』とか小野善康『景気と経済政策』なんかは実によい本だと思う)のだが、今回はなんというか憲法的問題に足を取られすぎて、政策レベルの議論がほとんどまともにできなかった。さてジェイコブズのこの原著Jane Jacobs, Systems of Survival, Vintage BooksはMonashの図書館ではBusiness Ethicsの棚に並んでいたりするのだが、まさにそういう職場や地域での日常的な実務のレベルから天下国家のレベルまでをきちんと見通し、豊富な実例を挙げて「agendaとnon-agendaの区別」について平易な語り口で論じていく。 更に重要なことは、本書では「市場の倫理」と「統治の倫理」のそれぞれがきちんと固有の体系としてポジティヴに論じられていることだ。この辺昨今の経済学者に任せると、ともすれば統治は、ただ単に市場の失敗の尻拭い役とか市場の縁の下の力持ちとかいう風に片付けられて、それ自体の固有の論理をもって描かれないことが多い。そんなことだから「市場の失敗」と「政府の失敗」の重なる部分の病理にはまともなメスが入れらず、「結局市場にまかせた方がまだまし」とかいう思考停止に陥るのだ。それに対してジェイコブズは「市場」と「統治」の双方についてその固有のロジックを読みとり、それぞれにできることできないことは何か、を論じていく。もちろんまだまだ荒削りな議論だが、非常に刺激的だ。
最近はMonashの古書店で買ったJon Elster, An Introduction to Karl Marx, Cambridge U. P.とかPeter Singer, Marx, Oxford U. P.などを読んでいる。つまり何というか分析的マルクス主義の入門みたいなことをしているのだ。エルスターの本は大著Making Sense of Marx, Cambridge U. P.の学部生向け縮約版といった趣であり、彼が編集しているKarl Marx: A Reader, Cambridge U. P.と合わせて学部レベルの教科書としてもってこいである。シンガーの本は既に翻訳が出ている彼の『ヘーゲル入門』(嶋崎隆訳、青木書店)と同じく、日本でも何点かバラバラに、出版社も別々に翻訳されている入門小冊子Past Mastersの1冊である。普通シンガーは分析的マルクス主義者とは見なされないが、前書きでエルスターの大著に先んじた分析的マルクス主義のモニュメント、Gerald Cohen, Karl Marx's Theory of History, Oxford U. P.からの影響を明言しており、かなりその精神に近い基調で書かれている。(シンガーは自分では左翼というかラディカルのつもりらしい。私にとっては、どっちとも言えないところが彼の魅力なのだが。)
分析的マルクス主義についてはサーヴェイ的なものを除けば今まで日本語で読めるものはほとんどなかった、というか今もない。以前紹介したエルスターの『社会科学の道具箱』(海野道郎訳、ハーベスト社)はあまりそういう色彩を前面に押し出していないし、あとはジョン・ローマー(Roemerは「レーマー」と発音するとの説あり。どなたか知ってる人教えてくれ)『これからの社会主義』(伊藤誠訳、青木書店)くらいか。俺自身もなんか「今更Marxismなんて看板掲げて未練がましい」てな偏見があったり、それに以前は割とスラッフィアンとかポストケインジアンに親近感を覚えていたため、新古典派やゲーム理論を方法的には受容する(と聞いていた)彼らにはちょっと距離を置きたかったというのもあり、哲学サイドでの分析的伝統にも疎かったりもして、敬遠していた。しかし秘教化したポストケインジアン(新古典派になんぼ欠陥が多くても秘教化の害からは少なくともポストケインジアンよりは免れている)への同情も、新古典派やゲーム理論や分析哲学へのアレルギーも冷めてきたところでいざAn Introduction to Karl Marxを手にとって読んでみるとこれがまあ実に面白いのですよ。1986年の本なんだが、何で翻訳されなかったんだろう。シンガーのもいいです。どちらにも上に書いたような「未練がましさ」なんか毛ほどもない。というか「ポスト・マルクス主義」を名乗る連中の方がよほど未練がましい。こういうこと書いてしまった私としては諸手をあげて賛成というか、頭を垂れて教えを請いたいことばかりです。
たとえばエルネスト・ラクラウ&シャンタル・ムフ『ポスト・マルクス主義と政治』(山崎カヲル他訳、大村書店)って決して悪い本じゃない。でも実際に読んでみると、ひたすらひたすらヘゲモニー論の観点からするマルクス主義の自己批判ばっかりやって、グラムシが問題としていたはずのブルジョワジーのヘゲモニーとの直接対決を全然やってないのね。結局それも党派的内閉の一種なんじゃないかな。エルスターには全然そういうところないです。マルクスの遺産鑑定を非常に自由に、とらわれない姿勢でやって、使えるところは拾い、使えないものは捨てる。たとえば冷徹な分析と願望思考のミックスの中から、注意深く前者の契機だけをサルベージする。その上で現代社会の批判とあるべき社会の構想のための道具として生かしていく。考えてみればそんなの当たり前なんだよね。
どちらもソ連崩壊前の本ということもあって決して新しくはないがまだ読むにたえる本です。時間があれば私が翻訳したくらいだけど、私は自分の本の翻訳で手一杯なんだよね……。
とか書いたあとでうちに帰るとamazonからThe Best of Edmond Hamilton, Doubledayが届いていた。ハミルトンについてはこっちを見てくれい。