自然状態・自然権・国家
ホッブズ、ロック再読

『環』第5号(2001年4月)

稲葉振一郎

 近代的な意味での「国家論」は17世紀、市民革命期イギリスの論者たちのいわゆる「社会契約論」からはじまる、というのが普通の理解である。厳密に歴史学的に言えばこのような理解はもちろん雑駁にすぎる――契約説的国家論は古代や中世に遡れるし、契約説を過度に重視すると国家のもうひとつの面、集権的権力体としての国家の理論の歴史を見落としてしまう――が、それでもこれが通説となっていることにはもちろんそれなりの理由がある。第一に、これらの近代社会契約理論は近代民主主義の正当化のロジックの原型を提供してくれており、それは今なお説得力を持って通用している。そして第二に、これらの理論は「自然状態」の概念をその基礎に置いている。この概念を持つがゆえに、近代社会契約理論は従来の契約的国家論やその他の政治理論とは異なり、近代社会「科学」の出発点として尊崇されているのである。
 これら近代の社会契約理論は「べき」論、規範的な理論であり、客観的な現実の解明を目指す実証科学としての、固有の意味での「社会科学」とは違う、という理解もありうる。しかしもちろん近代社会科学は純然たる没規範科学ではない。第一に近代社会科学は規範的な議論を捨てたのではなく、それを実証分析の基礎の上により堅固に展開することを目指しているだけである。第二に、規範というものが現に存在すること、人々が規範によって判断し行動するということ自体実証分析の対象となるべき事実に他ならない。そのように考えるならば、近代社会契約論はたしかに近代社会科学の原型となっているのである。そして「自然状態」概念を備えた近代社会契約論はことにこの第一の点において、近代社会科学の出発点としての地位を主張しうるのである。ありもしない絵空事としてときに憫笑の対象ともなったこの概念は実は、そのそもそもの出発点から、あくまでも現実の社会のありようを説明するために自覚的に導入された方法的理論装置だったのである。
 論者によってニュアンスの違いはあるが、しかしいずれの場合にも「自然状態」とは論者たちが問題としている現実の社会から、何かを引き去った、何かを取り除いた仮説的状況である。その仮説的状況が純然たるフィクションか、それとも歴史的な実在かはさしあたり二次的である。論者にとって中心的な問題である「何か」、理論家にとって、現実の社会システムが存在し継続するために肝要だと思われる何らかの契機が抜きさられた仮説的状況、それが「自然状態」であり、そのような自然状態と現実の対比においてその「何か」の意義を確かめようとする。それが近代的な社会契約論の要諦である。
 その現実から抜きさられた「何か」とは一体何か? 17、8世紀の社会契約論においてはふつう、今日我々が「国家」と呼ぶものである。そして論者たちのいう「自然状態」とは多くの場合国家を欠いた状況、こう言ってよければ国家なき「社会」である。この点で彼らの議論の骨子はおおむね共通しているように見えるが、しかしそこには少なからぬ違いもある。これらの論者たちが考える「自然状態」はしばしばあまりにも互いに食い違っている。だから当然のことに我々は、彼らの考える国家、政治権力なるもの、抜きさられた何かについての理解、更には引き算の思考実験が施される前の現実社会の総体的な理解そのもののレベルにも、相当の違いがあることを予想しなければならない。
 しかしこのような「近代社会契約説」をいま読むことにどのような意義があるというのか? 過去を知ること、歴史を学ぶこと一般の意義を別にすれば、本稿の立場からは、さしあたり次のように言える。先進国日本にすむ我々は日常的に、たとえば「市場の失敗」について語り、その失敗を補完して市場という機構を下支えする「セーフティーネット」としての社会経済政策について語る。このような語り方において、国家は市場、あるいはその他の日常的な、市民社会的な制度を下支えする、つまりその成立のための前提条件として理解されている。しかし「近代社会契約説」の語りは逆方向を向いている。すなわち、国家が成立するための条件を考えよう、としているのである。「セーフティーネット」を縮小、解除し「小さい政府」を目指す政策思想が、少数の例外を除き、結局政府、国家なるものそれ自体を自明視することは止めず、かえってより強力な国家を求めているように見える今日、このような思考の迂回路をたどることは、「小さな政府」思想の更なる深化にとっても、逆にその批判を目指す立場にとっても有意義なのではないだろうか。
 とは言え本稿では紙幅の制約から、まさに17世紀イギリスの二大巨頭、トマス・ホッブズとジョン・ロックにしかふれることが出来ないことをあらかじめお詫びしておく。

 まず、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』などにおけるいわゆるホッブズ的自然状態についてみてみよう。ここでは「自然権」と「自然法」が真っ向から対立しあっている。すべての個人は自己保存、のみならず自己の欲求、意志のままに自由に振る舞う「自然権」を平等に持つが、その「自然権」に基づいて全員が自由に振る舞うならば、結果的には、相互の利害が衝突しあい、各個人の欲求の充足どころか生存さえも危うくなりうる。それゆえ互いの自由な行動の範囲を限定し合うという「自然法」が理性的な推論によって構想されうるのだが、問題は、全員がこれに進んで合意するための確固たる動機付けがない、ということだ。すなわち、他人がこの「自然法」を受け入れ、その拘束に服しているのを後目に、自分だけはそれを受容せず、好き勝手に振る舞うことによって、個人はきわめて大きな利益を得ることができる。しかしすべての個人がこのように考え、振る舞うならば、結果的には誰も「自然法」を守らないことになってしまう。ゲーム理論で言う「囚人のディレンマ」状況である。そこでホッブズによれば、外側からこの「自然法」への服従を人々に強制する国家というものが必要になるわけだが、自然状態=戦争状態から一体どのようにしてこの国家が成立しうるのか、について実はホッブズの論証は充分に成功しているとは言えない。これについてはあらためて触れる。

 次に、ジョン・ロックが『統治論』で描いている自然状態について見てみよう。ホッブズの場合と異なり、これは戦争状態とイコールではない。各個人の生存と生活の安全保障の水準は割合に高いが、局所的にそれが破れる。こうした局所的な破綻がロックの考える戦争状態である。ここでは「自然権」と「自然法」とは必ずしも対立しあうものではない。ホッブズの言うような国家の成立を待たずして、人々の自衛活動によってある程度「自然法」の下の秩序を確立可能である、とロックは考えている。だからロック的な国家は、ホッブズのそれとは異なり、自然状態においては実現不可能な自然法を実現するものではない。自然法のより確実な実現を保障するためのものである。だからロックの場合、自然状態から社会状態、つまり国家のある状態への移行は、連続的、漸進的である。

 では、ホッブズとロック、「自然状態」の理解をめぐる両者の間の鋭い対立はどこから来るのか。ロックは自然法をとりわけ所有権を基軸にして描いているが、各個人が互いの生命、所有権の安全を、ホッブズ的な国家による外的な強制なしに自発的に保障しあうという仕組みは、彼の考えるところではいかにして実現されているのか。
 自然法の自発的な実現の、ことにホッブズと対比したときのロック固有的な条件は、まずもって自然の広大さ、肥沃さであるように思われる。ホッブズが想定している自然状態で人々の間の利害が対立を起こす最大の原因は、資源の希少性である。典型的には、複数の人々が同じものを欲するような状況である。これに対してロックの想定する世界では、手つかずの未開の大地が広がっている。
 ロック的自然状態では、大地の広大さ肥沃さ、資源の豊富性ゆえに、人々は同じものを取り合う必要がない。他人と同じものをめぐって争う、あるいは他人が占有しているものを実力で強奪するよりも、未開の大地で無主の自然を新たに獲得する方が、安全確実で容易である、という条件がそこには成立している。(こうした条件の限定性についてはロック自身が明言している。)

 また別の観点からも見てみよう。ホッブズとロック、両者の間では自然権、いや権利というものの理解が相当に異なっている。ロックの権利理論はいってみれば所有権モデルである。権利の典型は所有権であり、所有権以外の権利もその応用やその原則に対する例外として理解しうる、という構造である。すなわち、人は自分の権利を一部の例外(今日的な言葉で言えば「基本権」であろう)を除き原則として、放棄したり、他人に信託したり、譲渡したりすることができるし、また他人から信託されたり譲渡されることもできる。また人は、自分自身の身体を自由にする権利など、一部の例外を除いて、自明な権利というものをほとんど持たない。人はほとんどの権利を、誰かに譲られるか、あるいは自分で努力して得るという仕方で獲得しなければならない。
 またロック的世界には、こうした自然権の裏側に、いわば「自然義務」が自動的に貼り付くことになろう。他人の権利の行使を侵害することは不正なことであり、処罰の対象となる。このような不正に対して刑罰を加える権利もまた、自然権である。これを、すべての人は、他人の権利を侵さず尊重する自然義務を課されている、と言っても構わないだろう。このような自然権としての裁判権、刑罰権の行使によって、ロックの自然状態において、自然権は単なる理念ではなく、生きた慣行として実現される。
 ホッブズの自然権論、権利理論は全く異なる。ホッブズによれば、自然状態においては、すべての人が、既にして、すべての物事についての権利を持っている。しかしそのような権利は義務の裏打ちを持たない。誰でもが、他人の権利を侵害し、他人の権利の行使を邪魔する権利を持っている。誰も、他人の権利を尊重する義務を持たない。だから、一見逆説的なことに、裁判と刑罰の権利というものも意味をなさない。
 ホッブズ的世界では、義務とは権利に必然的についてまわるものではない。ロック的世界では、誰かに何事かについての権利があるということはただちに、他の人々はその人のその権利を尊重する義務がある、ということになるが、ホッブズ的世界において、義務は交換というよりは贈与のメカニズムを通じてまずは出現する。つまり、他人の権利の行使を阻害することを自分から一方的に差し控える=他人の権利の行使を妨害する権利を捨てることによって、人はその他人の権利を尊重し、それを侵害しない義務を負うことになるのである。
 大ざっぱに言えば、ホッブズ的自然状態は権利が充満して飽和状態であると同時に、義務の真空状態である。義務は一種の引き算的操作によって出現する。そして当然のことながら、このような義務が多くなることによって、実現可能性においては極端に弱いものであった人々の権利は、その実現性を高め、保証を得ていくわけである。こうやってホッブズ的世界は構造化されていく。これに対してロック的自然状態は飽和してもいないし真空でもない。少なくともその初期局面においては、どのような権利義務関係によってもまったくおかされていない無主の空間が存在しており、人々の間の権利義務関係によって、つまりは社会関係によって構造化されている領域はその一部にすぎない。そして人々の間の権利義務関係は足し算的に増殖し、空白の領域を徐々に、段階的に構造化していくというわけである。

 このように両者の権利理論を対比し、その背後を探っていくこと自体が興趣尽きない課題だが、ここでは紙幅もないためとりいそぎ、このような権利理論との関係で両者の国家論を捉え直すことにしよう。
 ロックの国家論は、まさに先述のごとき足し算の積み重ねとして国家を導き出す。平たく言えば、我々が常識的に考えるような合意によるサークル、結社の設立と本質的に何ら変わらないやり方で国家がつくられる。繰り返すが、そこには連続的飛躍はないから無理もない。ロックの描く国家の統治権力とは、だから、国家設立参加者から委託、信託された権利と、それによって動員できる実力の総体である。それは株式会社における経営権と本質的に変わるものではない。ロック的国家の人民に抵抗権、革命権があるというのは、株式会社では株主が経営者を罷免できるということと全く同様である。
 これに対してホッブズの国家形成論は何とも異様に見える。ホッブズが『リヴァイアサン』で考える国家(コモンウェルスCommonwealth)には二つのタイプがあり、我々がふつうに「社会契約説」として想起するものはそのうちの一つ「設立institutionによるコモンウェルス」の方である。そこにおける人々の間の合意、契約は、誰か(これは必ずしも一人でなくてもよく、また自然人でなくてもよいとホッブズは言う)を除いた全員が、自分の権利を大幅に放棄する、というものである。それによって直ちに彼ら彼女らは、合意に参加しなかった残りの者の権利を侵害しない義務を負う。この残された者のみが、自然状態におけるのと同様の無制約の権利を保持しているわけであるが、残りの全員がかような状況にあるため、この「残された者」の自然権の具体的なありようも、実際には一変する。すなわち、自然状態においては、他人の同様の権利という障害にぶつかるが故に何らその実現の保証のない権利であったその自然権は、まさにその他人の同様の権利という障碍を失って、一気にその実現可能性を増す。かくして、合意から唯一取り残された者の、放棄されず制約されないまま残された自然権が、そのままで統治権力へと変貌する、というより、その意味を変えるのである。
 注意すべきはこの主権者、統治者となった「残された者」は、他の人々、自分を残して合意を取り結んだ人民=社会契約の当事者たちから、何かを授権され、委託されたわけでは決してない、ということだ。「残された者」はただ単に自然権を捨てなかっただけであり、他方の契約参加者たちはただ単に捨てただけである。だからこそホッブズは、コモンウェルス設立に合意した人民には、主権者に逆らう権利はない、と結論した。約束、合意によって互いに拘束しあっているのは、主権者以外の人民たちであり、合意から取り残された者である主権者と、取り残した側である人民との間には何の合意も約束もない。
 ホッブズにおける、国家の設立は実は合意、約束、契約の外で行われるというこの論理、そして評判の悪い国家権力、主権の絶対性、無制約性の主張は、ある意味では納得のいくものである。すなわち、ホッブズ的自然状態とはまさにその約束が不可能な状況なのであり、約束を可能とする条件、すなわち違反者を拘束し約束の履行を強制する力がまず先だって存在していなければならない、と。しかしながらそれでもこの「設立institutionによるコモンウェルス」の議論はわかりにくい。最初の約束、主権者候補のみを排除して行われる、来るべきその主権者への服従の約束を履行させる力はどこから来るのか? そのような力は、どこにもないのではないか? 
 このパズルをホッブズ自身がうまく解いたとは言えないが、『リヴァイアサン』において彼が提出したもうひとつの国家形成のモデル、「獲得acquisitionによるコモンウェルス」はひとつの解答として解釈できる。これは要するに征服者による国家設立のヴィジョンである。この場合、自然状態において実力で他人を圧倒し、服従させる征服者が、征服され服従義務を負った人民に対して、無制約の権力を振るう主権者となる。この場合は「設立」よりもその論理に破綻がないが、ホッブズのそもそもの人間観――自然状態においては、人々の間の力の違いはそれほど対したことはなくおおむね平等である――と衝突しかねないという難点もある。

 あらためてまとめるならば、ロックの考える自然状態とは、彼自身も明言しているが、純粋な理論的フィクションではなく、現実に存在する国家の外の社会である。具体的に彼が挙げているのはアメリカ原住民社会や国際社会であるが、今日的な意味での「市民社会civil society」と言い換えても問題はない。ロックの考える国家とはこうした市民社会のなかのローカルな団体であり、市民社会を基礎付けるものではない。自然状態=市民社会は国家に先行して、自然法を自生的秩序として既に生み出している。国家は、あくまでも局地的に、既に存在する自然法の実現を支援するのであって、それを生み出すのでも基礎付けるのでもない。このようなロックの国家論は、国家権力の正当性を弁じる規範理論としての側面と同時に、現実の国家形成のメカニズムを論じる実証理論としての側面を持っている、というべきであろう。
 ホッブズの場合はこれに対して、非常にわかりにくい。『リヴァイアサン』を「社会契約説」の書物として読むならば、彼の言う「自然状態」とは純然たる理論的フィクションであると考えた方がいい。つまり、もし国家が存在しなければ社会がそこに落ち込んでしまうような、仮想の恐るべき可能性として。そのような状況がもし現実に成立していれば、人々は自然法をあくまでも美しい理想、フィクションとして思い描くことはでき、更にはそれへの合意をも構想できるが、しかしそれを現実のものに転じることはできないだろう、と。そして、そのような恐るべき戦争状態に比べれば、国家権力の絶対性はむしろ望ましいものであるのだ、と。「設立によるコモンウェルス」論はこのような議論として読むとわかりやすい。つまりそれは、純粋な規範理論なのだ、と。
 しかし「獲得によるコモンウェルス」論は、必ずしもそのように読まれる必要はない。それはロックの議論のように、国家形成についての実証理論モデルとしても解釈できる。というより、それを規範理論として読むことの方が逆に難しい。
 更に言えば、ホッブズの自然状態論を純粋な規範理論として読んだとしても、その難解さは少しも減るわけではない。国家なき自然状態がかくも危険でおぞましいものなら、どれほど不快な国家でさえもそれよりはまし、というところに、その主張は落ち着くのか? だとしたら「自然権」なるものは「権利」と呼ぶに値しない、単なる空語ということにならないだろうか。しかしホッブズの本意はそこにあるというわけでもないらしい。むしろ彼は本気で、国家は自然権の実現のための単なる手段であり、その役に立たない国家に意味はない、と考えてもいたようだ。では一体、彼の言う「自然権」「自然状態」とは本当のところ一体、何であるのか? そしてそれを究明することに、今日どのような意味があるのか? 
 誤解を恐れずに言えば、ロックは今日比較的「無害」な思想家であるように見える。彼の理論は現代の我々の常識を逆なでせず、いわゆる「民主主義」の健全な構築と再構築を助ける基本素材となってくれるものである。それに対してホッブズはある種の「危険」を今なおはらんでいる。しかしその危険は単純なものではない。彼の「権利」概念は充分に明晰なものではないが、現在の我々の「権利」観の根底に触れる――しかもたとえばロックの射程からは外れてしまう――何かを確実に捉えている。たとえばロックの権利論では、基本権、譲ることのできない権利、なるものを把握することが難しい。ロック的権利観では権利の典型は所有権である。これに対してホッブズの場合は、およそ権利とはすべて(少なくとも、所有物を譲るのと同じ意味においては)譲りようがない(ホッブズが「権利を譲る」と言う場合は、むしろただ単に権利を放棄しているだけである)ものである。しかしそこから、どのような国家論が展開しうるのだろうか? ホッブズが描く「リヴァイアサン」は奇妙な存在である。一見それはとても強い――絶対の主権者を中心においている。しかしその主権者の絶対権力は、服従する臣民の純然たる一方的「贈与」に基づいた、とても不安定なものでもある。
 しかしもし我々が、ホッブズの可能性を最大限汲み尽くそうと思うならば、この奇妙な両面性に安んじているわけにはいかないことは確かなのだ。