金子勝『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書)
稲葉振一郎
『論座』(朝日新聞社)2000年1月号


 マルクス経済学出自の論客としては実に久々の大物である金子勝氏の八面六臂の活躍によって、「セーフティーネット」なる用語はすっかり人口に膾炙した。しかしながらその内実はいまだ十分に理解されているとは言い難い。本書は同時期に出た姉妹編『反グローバリズム』『市場』(ともに岩波書店)とともに、金子氏がこの言葉で一体何を語らんとしているかを教えてくれる。
 金子氏のいうセーフティーネットとは、市場の円滑な作動を支える制度的な枠組み、具体的には労働市場にとっての雇用保険や社会保障、金融市場における預金保険機構や中央銀行制度のことであるが、それだけであれば特に目新しい話ではない。昨今の緊縮財政・規制緩和路線においても、そのような意味でのセーフティーネットの必要性は否定されていない。
 しかしながら緊縮財政・規制緩和路線、あるいは「市場原理主義」にとってセーフティーネットはいわば必要悪である。つまり、経済効率の観点からすれば市場の自由なはたらきに全てを任せ、それを制約する制度や政策はない方がよい。にもかかわらず実際には、市場原理の徹底が行われえないのは以下のような理由による。すなわち市場における競争は敗者を生む。敗者が単なる企業であれば倒産すればすむが、生身の人間であればそうはいかない。倒産した企業に雇われていた労働者やその他その企業によって生活を支えられていた生身の人間に、企業とともに競争の敗者として市場からの撤退を求めることはできない。現代社会においてそれは「死ね」と言うに等しいからだ。経済的に効率の悪い個人に対しても生存権が確立している現代社会の市場経済は、その生存権によってたがをはめられている、と。
 このように捉えられた「セーフティーネット」とは、市場からの脱落者を救うものであり、そこで問題とされているのは市場自体のセーフティーではない。セーフティーネットがなくては困るのは市場から脱落しかねない経済的弱者、であって、経済的強者や市場という仕組みそのものはセーフティーネットがなくても困らない、というよりセーフティーネットはかえって負担、足かせになる。更にこのような観点からすればセーフティーネットはそれにつけ込む不正、救済機能をだまし取るモラルハザードの温床でもある。
 だが金子氏によれば「セーフティーネット」とはそのようなものではない。社会保障制度にせよ金融政策にせよ、「市場原理主義」が考えるように市場の効率性を犠牲にして市場からの脱落者をすくい上げるのではなく、まさに市場からの脱落者を救うことによって市場の効率的なはたらきを保障する、市場そのものを支えるネットなのである。たとえば「市場原理主義」にとってセーフティーネットは、競争圧力を緩和することによって企業の技術革新、新事業へのチャレンジへの意欲を削ぐものであるのに対して、金子氏によれば、まさにセーフティーネットの存在によって多少の失敗でも許容されるがゆえに、企業は大胆な革新への試みに乗り出すことができるのだ。
 このような金子氏の主張は傾聴に値するし、その観点からする政策提言もまた迫力に富むが、弱点もある。ことに「市場原理主義」との対決において理論的な急所はセーフティーネットとモラルハザードの関係をどう捉えるか、であるが、氏の議論は「市場原理主義」の、あるいは主流派経済学のモラルハザード論を十分には批判し得ていない。どのような前提をおけば主流派のセーフティーネット論が妥当なものとなるのか、それに対して金子氏の意味でのセーフティーネット論が妥当するのはいかなる想定の下でか、そして現実の経済においてはどちらの想定がよりリアルなのか、が十分には明らかではない。
 曲がりなりにもシンプルでわかりやすい「市場原理主義」の理論に対して、実は金子氏は積極的な代替理論を提示していない。肝心の所で氏が提示する説明は「サーカスの綱渡り」とか「臓器移植」といった直観的には分かりやすいが理論モデルとは到底言えない比喩の域にとどまっている。
 これに対して例えば小野善康氏は、金子氏の言う「市場原理主義」、主流派経済学を「供給側の経済学」と名付け、それに対して独自のケインズ解釈に基づく「需要側の経済学」の立場から、どのような場合に「市場原理主義」の市場観が適切で、どのような場合に不適切か、を丁寧に腑分けしている(『景気と経済政策』岩波新書、ほか)。金子氏に欠けているのは小野氏が行っているような明快な理論的腑分けである。私見では小野氏の議論は容易に金子氏の意味でのセーフティーネット論へ読み替えが可能であり、いかなる場合にケインズ政策は市場の規律を歪ませるモラルハザードを生み、いかなる場合に積極的な挑戦をかき立てる金子氏の意味でのセーフティーネットとなるのか、を明らかにしてくれるものである。金子セーフティーネット論は、例えばこのような議論に学び、明晰判明な理論的基礎をもったものに鍛え直される必要があるだろう。

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