思想の現在形 自由の条件B ユートピアは葬られたか

『京都新聞』1998年1月7日文化欄

稲葉振一郎

 ユートピアという言葉は、もともと16世紀のイギリス人トマス・モアが書いた本の題名で、その物語中に登場する架空の国の名前です。モアはその虚構の理想国家に照らして同時代の国家、社会の現実を批判し、そこから転じて「ユートピア」という言葉は現実の社会よりも優れた、理想的な社会のことを指すようになりました。
 しかしその後「ユートピア」なる言葉の評判は芳しくありません。ありもしない理想の異世界のイメージを頼りに現状を批判するより、実際に現状を改革していくことこそ大切だ、という考え方が有力になったのです。19世紀以降多大な影響力を持った社会変革思想としての社会主義の中で、更にもっとも有力となり、20世紀にはその思想のもとに数億の人々が暮らす国々を作り上げたマルクス主義は、自分たち以前の社会主義を批判の意味を込めて「ユートピア的」と形容し、それに対して自分たちの立場を「科学的」と称しました。
 これへの対抗思想としての自由主義もまた、ユートピアを復権させるどころではありません。むしろ社会主義こそ「科学」の名を騙るユートピア思想、できもしない理想社会の建設をできると称して人々を欺くものである、と告発したのです。そして20世紀の経験は、保守主義としての自由主義が社会主義に対して勝利した、という風に見えてしまいます。では、やはり社会主義は実現しえないユートピアだったのでしょうか? そして、自由主義の勝利は社会主義のみならず、ユートピアをも葬り去ってしまったのでしょうか? 
 ここで自由主義とは何か、復習してみましょう。人間の自由の意味を、私たちは普通「したいことをすること」である、と考えてきました。しかし「したいこと」と「できること」とは違います。このズレを「できること」の枠を「したいこと」の方に向けて拡大することによって解決しよう、というのが近代思想の主流でした。それは社会思想においては社会主義となりました。自由主義はこれとは反対に、たくさんの人々のそれぞれに異なる「したいことをする」自由を、お互いに迷惑をかけずに「できること」の範囲に制約しよう、という立場です。これと同様の構造が環境問題にもあります。「(開発)したいこと」と「(開発)できること」の間のズレを「できること」の枠を「したいこと」の方に向けて拡大することによって解決しようとするのが旧来の成長主義であり、それを批判して「したいこと」の範囲を地球環境、生態系のバランスを崩さずに「できること」の範囲に制約しよう、というのがエコロジー思想です。
 ここまでの議論を整理しましょう。虚構の理想社会としての「ユートピア」による現実社会への批判をあざ笑い、「できること」の枠を現実に拡大することによって、現実の社会の問題を克服しようとした社会主義、成長主義もまた、醒めた現実主義を標榜する自由主義、エコロジー思想からすれば虚構の理想、「ユートピア」を追うものということになります。しかしここで、モアやその他のユートピア物語の作者たちと社会主義、成長主義の重大な違いを見逃さないようにしましょう。社会主義、成長主義は自らの理想が「ユートピア」、虚構であることに気づかなかったのに対し、ユートピア文学者たちは、初めから自分が虚構を紡いでいることを当然に自覚していたはずです。事実と見まがわれた錯覚ではなく、自覚された虚構としてのユートピアならば、なお現実批判の刃として私たちにとって意味を持つのではないでしょうか? 
 最後にもう一つお話ししましょう。先ほど私は、人間の自由の意味は「したいことをすること」である、として話を進めましたが、本当にそうでしょうか? そもそも人間は、個人としても、人類社会のレベルでも、「したいこと」「できること」について、どれだけきちんとわかっているでしょうか? 社会主義や成長主義の誤りの多く、例えば計画経済が途方もなく困難であることも、炭酸ガスによる温室効果のことも、「わかっちゃいるけどやめられない」ものだったわけではなく、実際に経験するまで「わからなかった」のです。つまり人間の自由とは、ただ単に「できる範囲でしたいことをする」ことではなく「やってみなければわからない」ことについて試行錯誤することなのです。自由主義やエコロジー思想の強みもまた、単に「したいこと」を我慢する禁欲性にあるわけではなく、このような試行錯誤を安全に行う条件について真面目に考えるところにあります。そしてこのように考えるならば、自由主義やエコロジー思想と「ユートピア」とは案外と近しい関係にあるのではないでしょうか。我々が日々の試行錯誤の中で出会う現実の「異世界」こそ、私たちの思いこみを揺るがし批判する本当の「ユートピア」なのかもしれません。

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