*20世紀前半の哲学  ・哲学と科学を峻別した上で、哲学の任務を科学の基礎付け、足場固めとする   ――新カント派(ドイツ)、論理実証主義(オーストリア→アメリカ合衆国)  ・伝統的形而上学・倫理学との決別  ・ある意味でのカント主義 *論理実証主義のプログラム  ・科学理論を命題のネットワークと考える   分析的命題と総合的命題の区別(ある意味でのカントの継承)   分析的真理(論理、文法など言語の中で決まってしまう)   総合的真理(世界の中での現実の経験を通じて検証するしかない)  「経験的に真な命題を論理的に正当な手順で組み合わせていけば、   正しい科学理論になる」という発想  ・この立場からすると形而上学(存在論)は端的に無意味  (「意味がある」とは「真か偽か判別できる」ということ)   倫理学は主観の表明でしかない *英米メタ倫理学  ・論理実証主義に代表される哲学の動向を踏まえ、   道徳的言明の言語・論理分析に集中する  ・道徳的言明を真偽の問える命題とは考えない立場が主流に   道徳的発言は「感情の表明」である(情動主義)   道徳的発言は「行為の指図」である(指令主義)  ・「道徳的事実」という発想はしばらくのあいだ禁じ手に *20世紀後半の哲学    ・哲学と科学の峻別の消滅 *論理実証主義の退潮  ・「分析的命題と総合的命題の峻別は不可能である」(クワイン)  ・「経験科学を経験に先立ち、経験とは別のレベルでチェックする   特別な場としての哲学」というイメージの拒否  ・「翻訳の不確定性」(クワイン)    「一つの言明の正しい(受入可能な)翻訳は複数とおりありうる」   →「一つの現実を正しく説明する理論も複数とおりありうる」のか?   科学は多元化し(クーン以降の「新科学哲学」)、   同時に哲学との連続線上に(クワインの「認識論の自然化」)  ・形而上学の復興  「(現実とは別の)可能性」について真面目に考えないと科学はできない   ex. 「因果関係」とは何か?   「出来事Aがつねに出来事Bに先立っている」からといって、   「出来事Aが出来事Bの原因である」といってよいのか?    ありうる疑問(難癖):   「AとBのあいだの見かけの関係はただの偶然ではない」    とどうすれば確かめられる?     そもそも「因果関係」を適切に定義できるのか?     人間に観察できるのは、あくまでも    「AとBとが続いて起きる」という系列だけであって、    「AとBとのあいだの因果関係」そのものは観察できないではないか!    (このあたりヒューム的難癖)     解決の糸口(「因果関係」のちゃんとした定義の可能性)     →ようやく20世紀末に目処がつく    「AがBの原因になっている」と言いうるためには、    「Aが起きた後で必ずBが起きる」だけではなく、少なくとも    「もしもAが起きなければ、Bは決して起きなかったろう」と言えなければ!    しかし「もしも」という非現実的な可能性について語ってよいのか?     語りたくなければ語らなくてもよいが、    そのときは因果関係について語ることをあきらめねばならない!    →因果関係について語るためには、    「現実には起きなかったけれども、起きたかもしれなかったこと」     について考え、語らねばらない。 *倫理学の新動向  ・実践哲学・規範倫理学の復権  ・「道徳的事実」という考え方