*形而上学と倫理学  形而上学・存在論と、通常の実証科学との違いは?:近代において支配的な考え方 →科学の問いは突き詰めて言えば「いかに」であって「なぜ」には行き着かない。  その途中では「なぜ」という問いがたくさん発されるが、究極的なところでは「根本法則」のレベルで「なぜ」は止まる。  「なぜエネルギー保存則が成り立つのか」「なぜ重力定数はこの値なのか」といった問いは意味を持たない。  近代科学において支配的な考え方(ある意味では哲学)である実証主義は、認識論的に言えば「反実在論」である。すなわち、「存在そのものを直接に知ることはできない」という立場である。  17世紀、近代哲学・近代科学出立時の巨匠たち、デカルト、ホッブズ、スピノザ、ライプニッツ、ロックといった面々を見てみよう。  デカルトの場合有名な「方法的懐疑」に見られるごとく、認識論優位で反実在論的傾向が強いが、神への信仰に存在論的な基礎を求めているように思われる。  ホッブズ、スピノザ、ライプニッツはいずれもそれぞれ異なった流儀で実在論者であり、かつ存在論的にも迷いが少ないように見える。ホッブズ、スピノザは存在論的には決定論者である。自然法則、遡れば神の意志がすべてを決定している、と考え、人間の自由意志は存在論レベルではいわば「無」である。  ライプニッツ(そしてデカルト)は神の自由意志を信じているように見えるが、スピノザは違う。  ライプニッツは「可能世界」の概念を認める。つまり我々がその中に存在するこの現実世界とは別の世界を全能の神であれば作りえたと考え、神は可能な選択肢の束としての膨大な可能世界の中から、一つだけを選んで創造した、それがこの現実世界である、と考える。  スピノザの場合は神は宇宙とイコールであり、宇宙とは別の存在者ではない。神こそが単一の存在者であり、人間を含めて宇宙の中のすべての物事はその構成要素である。  これに対して18世紀には、より認識論優位で、形而上学(存在論)に消極的な方向に哲学は進んでいくように見える。ヒュームの関心はもっぱら人間と社会にあり、いわゆる自然には、科学的な意味でも形而上学的な意味でもあまり関心を示しているようにみえない。  デカルト、あるいはバークリー僧正と並びヒュームは近代における哲学的懐疑論者の代表として引き合いに出されるし、無神論者とされることが多い。  ヒュームの懐疑(流布した理解)  ・帰納批判(個別事例から一般法則を導き出せない)  ・因果性批判(因果関係そのものを認識できない)  ・事実と価値の峻別(道徳判断は事実判断からは導き出せない)  ヒュームの本旨――客観世界の実在を否定したり、道徳の無根拠性を示そうとしたわけでは必ずしもない。道徳については、その根拠は理性よりも感情にあること、因果関係や法則性についても、それを見出すのは理性(論理的推論)ではなく感情であることを主張するのであり、その客観性を否定するわけではない。  ヒュームによれば理性は感情に先立たれており、人間精神は理性によって統一されたシステムというよりは乱雑な感情・感覚の束である。  しかしながらヒュームが懐疑論者、反実在論者として読まれることも致し方ない。  カントはヒューム的懐疑の挑戦を受けた上で、人間理性の統一性をなお弁証しようとする。しかしカントもまた反実在論者である。客観的世界=「物自体」を人間は直接経験はできない。人間は自らの認識能力の許す限りでしか世界を経験できないし、理解できない。すなわち、「超越論的―経験的」という区別がここで引かれる。経験を可能とする人間の認識能力の形式は、超越論的な水準に属するのである。  「超越論的―経験的」という区別は、ほぼ「アプリオリ―アポステリオリ」と言い換えられるが、より具体的に見てみれば以下のような区別とも重なり合う。  必然―偶然(可能)  分析的―総合的  これら三つの区別は微妙にずれつつも互いに重なる。これらに加えて「確実性ー不確実性」もまた問題とされることがある。  カントの場合には「必然的―偶然(可能)的」と「分析的―総合的」の軸は等値された。「アプリオリ―アポステリオリ」の軸はこれと少しずれ、数学が「アプリオリ(かつ必然的)かつ総合的」な領域とされる。  「分析的真理」とは論理法則や「独身者は結婚していない」などの言語の水準だけで決まる真理であり、総合的真理とは現実世界での経験によって確証される真理である。  このように、形而上学・存在論のレベルに対する厳しい断念の上にヒューム、カントの認識論は成立しているのだが、倫理学もまたそうである。道徳の根拠は客観的世界の側には存在していない。客観的世界の理性的な認識それ自体が、そもそも重大な限界と共にしかありえない。それゆえ道徳の根拠は別にところに置かれる。ヒュームの場合には感情の交流、つまり共感に道徳の根拠は見出される。そしてカントの場合には道徳は理性による立法の産物、つまり理性的に構築されるもの、とされる。  ヒュームもカントも、のちの20世紀人とは異なり、道徳を客観的かつ普遍的なものだと考えている。しかしヒュームは道徳の根拠を理性に求めないため、またカント(そしておそらくヒュームも)通常の意味での客観的な世界(カント的に言えば「物自体」の水準)に道徳をおかず、それを人間理性の構築物とみなすため、ともに認識論的にも倫理学的にも主観主義者だと理解される嫌いがあった。  かくして、ヒューム、そしてとりわけカントを継承するかたちで進んだ後期近代哲学において、形而上学は衰退し、倫理学は主観化する。  より正確に言えば、存在論としての形而上学は実証科学にその役目を下げ渡す。となると形而上学の場所は、ちょうど認識論の任務が科学批判、メタ科学であるのに対応して、認識論の批判、メタ認識論とでも言うべきところに落ち着く。  後に、20世紀前半の論理実証主義者たちは、数学もまた論理と同じく分析的な水準とみなす。ここでは完全に「アプリオリ―アポステリオリ」「分析的―総合的」「必然的―偶然(可能)的」が一致する。カント的な構図がより単純化される。カント的な理性に、言語―論理が全面的にとってかわる。  更に論理実証主義者たちは、分析的真理=アプリオリな真理の根拠を「規約」、つまり約束事に求める。たとえば「独身者は結婚していない」という命題が真であることの根拠はもっぱら、「独身者」「結婚」といった言葉の意味や主語述語、否定といった文法上の規則にのみある、とされる。となればこの命題の真偽は現実世界の経験のレベルには全く依存していない。更にこうした言葉の意味や文法は基本的には「規約」、ヒューム的な意味でのコンベンション、つまり慣習である。このレベルでは真理は「約束」によってほぼ自動的に保証される。他方総合的真理は、客観世界との事実的対応によって経験的に確かめられる。  このような作業で彼らは何をしたかったのか? 言語論的転回以降の彼らは、普遍的かつ公共的な思考(と議論)は、公共的な言語のレベルにおいてのみなされる、と考えた。そして言語の普遍性、公共性は、第一に総合的レベルにおいては客観的実在の世界との対応によって、第二に分析的レベルにおいては「規約」に支えられる、と考えた。このようにして彼らは普遍的言語(理性)の基礎付けをしようとした。  ただしそこで主役はあくまでも分析的真理のレベルである。何となれば、事実に関する具体的な知識である総合的真理は、実証科学の領分である。つまり、実証科学の批判を主務とする哲学の領分は、分析的真理と、分析的思考と総合的思考の役割分担の仕切りにある。  即ち、知識の体系化は主として哲学の任務である。総合的命題はローカルな、断片的な事実の報告であり、それを体系的知識にまとめあげるのは論理操作なのである。論理実証主義は実証科学を尊重しているようでいて、実は意外と軽視している。すなわち実証科学は道徳のように主観的とは言わないまでも、断片的でローカルな知識とされてしまっているのだ。  このような時代において道徳哲学がどう生き延びるのか? ひとつはカント的なアプローチの継承である。論理実証主義は上に見たようにカントの偏った継承であるが、彼らが無視したところにカントの今ひとつの継承の可能性があった。