2007年度 社会倫理学A 講義メモ 稲葉振一郎(明治学院大学社会学部) *以下の内容についての著作権はすべて稲葉振一郎に属する。  禁無断転載。ダウンロード、プリントアウトは個人的使用目的に限定して許可する。 *講義は以下のメモを土台に行なわれる。実際の講義において適宜補足、寄り道は当然なされる。 ◇前置き1 「邪悪なものによって損なわれるという経験は、私たちにとって日常的な出来事である。しかし、私たちはその経験を必ず「合理化」しようとする。  愛情のない両親にこづき回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、バカで利己的な同級生に虐待されること、欲望と自己愛で充満した異性に収奪されること、愚劣な上司に査定されること、不意に死病に取り憑かれること、……数え上げればきりがない。  だが、そのようなネガティヴな経験を、私たちは必ず「合理化」しようとする。これは私たちを高めるための教化的な「試練」であるとか、私たち自身の過誤に対する「懲罰」であるとか、私たちをさらに高度な人間理解に至らせるための「教訓」であるとか、社会制度の不備の「結果」であるとか言いつくろおうとする。  私たちは自分が受けた傷や損害がまったく「無意味」であるという事実を直視できない。  だから私たちは「システムの欠陥」でも「トラウマ」でも「水子の祟り」でも何でもいいから、自分の身に起きたことは、それなりの因果関係があって生起した「合理的」な出来事であると信じようと望む。  しかし、心を鎮めて考えれば、誰にでも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。」             内田樹「邪悪なものが存在する」『期間限定の思想』66-67頁  さて、これは正しいか?   また正しいにせよ間違っているにせよ、これをひっくり返して、「善なるものが存在する」ということはできるか?   ちなみに、キリスト教正統派の考え方では、「善なるものが存在する」は正しく、「邪悪なものが存在する」は誤っている。そこでは邪悪なものは基本的にネガティヴに、つまり善の不足とか不在とか欠如というかたちで考えられている。  それにしてもわれわれは上の指摘どおり、悪、不幸、苦痛については理由をついもとめてしまう(合理化)。反対に善、幸福については理由をあまり求めない。悪についてはそれを償う善を探してしまうが、反対のことはあまりしない。これはどういうことか?   こうした非対称性にはたしかに理由があるように見える。たとえば非常に乱暴に、善とは(例外ももちろん多いが)一般的に幸福をもたらすもの、悪とは不幸をもたらすものとしてみよう。とすると、幸福を感じるにも不幸を感じるにもまず生きていることが大前提であるのだから、生きているということそれ自体は幸福も不幸でもない自然でも悪でもない(レベルが異なる)、とした方が論理的にはすっきり見通しがよくなるような気がする。しかしわれわれはこの考えをすっと呑みこむわけではない。生きているということ、存在するということそれ自体もまたとりあえず善である、としたくなる人が多いだろう。  つまり道徳という評価の軸においては、ニュートラルなゼロポイント、原点というものが仮にあるとしても、それは善でもなく悪でもない中庸、というのではない、ということだ。道徳的にニュートラルな状態というのは、それ自体が道徳的な尺度でもって善と判定されなければならないようだ。(それにしても、なぜ?)  とすれば、善よりも悪が多く説明を求められる理由はわかる。  しかしだからといって「邪悪なものが存在する」が誤りだとは思えない。つまり、善によって正当化されえない根源的な悪、無意味な(善による意味付けを拒むそれ自体で自律した)悪というものが存在しないとは思えない。  しかしこの問題は倫理学の中心テーマではない。倫理学の中心テーマはまさに「合理化」「理由付け」の方にある。つまり無意味な善(神の恩寵?)を寿ぐのではなく、無意味な悪を嘆くのではなく、何とか悪を善へと関連付けようとする。 ◇前置き2 「「親としての責任」の欠如が問題になっているときに、「親としての責任の欠如」の「責任」を「何か、他のもの」に転嫁してよいのでしょうか。「責任感の欠如」が問題になっているときに、その解決策が「責任感の欠如の責任」は「当事者以外のところにある」という説明から出発してよいのでしょうか。「君が責任感を欠いていることは、きみの責任じゃないんだよ」と言ってあげることは、その人自身にとって、その人を含む集団にとって、そんなによいことなのでしょうか。  私にはそのようには思われません。  やはり、「君は責任感を欠いているが、『責任感を欠いていること』の責任は本人が引き受けるほかないのだ」ときちんと伝えるべきだと私は思います。」        内田樹「幼児虐待の拡大再生産を防ぐために」『おじさん的思考』177頁  ここでの「責任感」と「責任」ということばの使い分けに注意しよう。「責任」は泣こうがわめこうが客観的にそこに存在するもの、であり、「責任感」はこの「責任」の存在に気づいているかどうか、である。だから「責任感」のない者にも「責任」はありうる、というわけだ。  しかし「責任感」とは何か? それと法律的な意味での「責任能力」とはどう違うのか?   そして「責任」とはいったい何か? そもそも「責任を負う」とか、「責任をとる」とかいうのはどういう意味なのか?   この国ではアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットからしばらくしてから「幼児虐待」ブームが本格化した、と言えよう。  『エヴァンゲリオン』において主人公シンジは自罰的な子供で、周囲の大人たちはそれを知ってか知らずか利用して、過大な責任を押し付ける。最初のテレビヴァージョンでのストーリーは、そのプレッシャーにシンジが耐えかね、つぶれかかるが最後に自己の責任と和解し、引き受けて心の平安を得る、というかたちでとりあえずは幕を引く。  その後に作られた劇場版ではしかし、プレッシャーを与える周囲の大人の側の責任がもう少しはっきりと示される。理不尽な暴君である父親自身もまた、愛されずに育ち、子の愛し方を知らず、息子を恐れていたこと、それでもシンジを愛したいと本当は願っていたことが暴露される。つまり「虐待の連鎖」の構図がここにはできている。  言ってみればテレビ版では引きこもりの子供に「おまえそんなざまじゃダメだから、しゃんとしろ」と説教するにとどまっていたのに対し、劇場版では「おまえがそんなざまなのは、おまえが悪いんじゃない、親が悪いんだ」というところまでは到達していた。  しかしながら決定的な一言はそこでは発されていない――「おまえがそんなざまなのはおまえが悪いんじゃなくて、親が悪いんだ。でも親はその責任を取ってくれないんだから、やっぱりおまえが何とかするしかない」、と。  内田の言い方はまだ不正確だと思う。責任感の欠けた子供には、「おまえが悪いんじゃないけど、おまえが何とかするしかない」と言ってあげるべきだろう。とすると「責任」ということばには少なくとも二つの意味があるのだろう。すなわち「おまえが悪い」という意味での責任(これを責任Aとしよう)と「おまえが何とかするしかない」という意味での責任(こちらはB)と。  後者の責任Bとは、いわば無意味に降りかかった理由なき邪悪なものに対する態度の問題である。  「おまえが悪いんじゃないけど、おまえが何とかするしかない」をもう一回見直そう。「おまえが悪いんじゃなくて、誰か他の人が悪い。」となれば、ここで責任Aを負うのは「他の人」であって「おまえ」ではない。そして「おまえ」はここで「他の人」の責任Aに対応する形で権利αを持つ。  しかしながらこの問題の「他の人」が責任Aを全うしてくれないのであれば、「おまえ」の権利αは空手形となる。そして「おまえ」は新たに責任Bを背負い込む。しかしここにはAの場合のαのように、対応する権利βは誰の元にも生じない。この責任Bは対応する権利をもたない一方的、絶対的責任である。  つまり、責任と権利はつねに対応するわけではない。一方的責任というものがこの世にはある。では、一方的、絶対的権利というものはあるのか?  対応する権利を発生させない絶対的責任のほかの例  ハンス・ヨナス『責任という原理』(有信堂)における、現在世代(全体としてまた個人としての)の将来世代(こちらはあくまで全体としての)に対する責任  これは一体何か?  ◇イントロダクション *「倫理ethics」「道徳moral」の学……こんなもの学になるのか?   現になっている!   社会科学における「事実解明的positive分析」と「規範的normative分析」の二分法。後者には価値判断と選択、実践が……つまり道徳が関わらざるを得ない。  倫理学と交錯する諸領域――厚生経済学Welfare Economics、政治理論Political Theory、法哲学Jurisprudence、等。  事実解明的社会科学としての「道徳の社会学」。 *では哲学の一分野としての倫理学固有の主題などあるのか?   「天下国家」を主題とすることが多い規範的社会科学からこぼれ落ちがちな問題―― 「処世訓」  「処世訓」と「倫理」「道徳」の関係――「倫理」とは洗練された「処世訓」か、それとも「処世訓」が素朴な「倫理」なのか? 「洗練された」とか「素朴な」という場合の基準は?   「処世訓」は「倫理」と親和的・両立可能なものも反「倫理」的・矛盾するものも含む。後者の極北としての「利己主義」(本当にそうか?)。  倫理学固有の主題(?)=個人の私的な「処世訓」と全体的・公共的・社会的な「倫理」「道徳」との関係;個と全体の関係 *現代倫理学における、個人主義的アプローチ(基本単位としての個から出発して全体に説き及ぶ)の全体主義的アプローチ(個を全体の部分と見なす)に対する優位  事実解明的分析においては、問題意識に応じて適宜使い分ければいいが、規範的分析においてはそうもいかない。どちらかに軸足をおかねばならない。(なぜか?)  個人主義優位の理由:歴史的教訓(全体主義と社会主義) 「全体」の多様性、恣意性――「全体」とは家族でも、国家でも、企業でも、人類すべてでもありえるし、またそのどれでもない。  それに対して、「個人」の紛れのなさ(本当か?) *哲学的倫理学の固有の主題 (1)「個人」と「社会」、「個」と「全体」の関係 (2)「個人」とは、「人間」とは何か?   人間の定義にあたって、実証科学の知識は判断の素材を提供してくれるだけであって、答えは与えてくれない。 (3)「規範」とはそもそも何か? *決定論と自由意志  今日の自然科学はむしろ決定論的世界観を支持する傾向が強いが、道徳・倫理は自由意志の存在を前提とせざるを得ない。  この問題はヨーロッパでは古くは神の意志・能力と人間の自由の関係の問題として論じられた。  自由意志論は倫理学の本論ではなくむしろその前提問題である。 *人生の価値  今ひとつ倫理学の前提問題を挙げるとすれば、「果たしてこの世は、人生は生きるに値するか?」「生まれてくるということ、ただ生きているということは、それ自体でよいことか、むしろ悪いことか、それともそのどちらでもないか?」である。(「前書き」参照。) *非/反/没道徳的倫理学  倫理学はしかし、それ自体が道徳・倫理の一部、サブシステムであり、道徳・倫理の中に位置して、それを内側から吟味して批判的に再構築していく作業である。そのようなものではない倫理学はありえないのか? →ありうるし、現にある。 (1)ニーチェ的「道徳の系譜学」:道徳の(客観的・実証的)社会学と既存道徳に対する道徳的批判の混合(道徳の自己矛盾・欺瞞を突く)  ニーチェ的問題:道徳の批判はそれ自体別の道徳を構成することになりはしないか? 徹底して道徳の外に出ることは可能か?  (2)メタ倫理学:倫理的推論・判断の固有の論理の解明  20世紀前半の倫理学の主役はむしろこちらであった。なぜか?   20世紀前半の分析哲学(論理学・言語分析を主要武器とする)の隆盛の影響もあろうし、一種の相対主義、道徳体系は多様にあり、そのいずれもそれなりの合理性を持つ一方、それらの間での優劣も付けかねる、という問題への対応という意味もあっただろう。 ◇倫理学と倫理(道徳)  自然科学において、対象と科学は別のもの。(生物学は生物じゃない。)  しかし数学では怪しい。  人文社会科学でも怪しい。  一応「社会学」は「社会」とは別のもの。  もちろん社会学という学問自体は人の社会的な営みの一種(=「社会」の一部)ではある。しかしそれをいったら生物現象の一部であり物理現象の一部でもあることになる。  「経済学」「政治学」「法律学」「経営学」などは少し違う。経済学は経済政策を、経営学は企業の意志決定を、政治学は外交戦略や組織設計を、法律学は実際の裁判やその他法実務を支援することをその使命(の少なくとも一部)としている。つまりこれらの学問は社会学よりももっと積極的な意味で「社会」の一部である。社会学は「社会をよくしよう」とは(あまり)思っていないが、そのほかの社会科学は大体そう思っている。  倫理学ではどうか? 倫理学と倫理(道徳)の関係は?  伝統的には倫理学は「実践哲学」として倫理のまさに一部であり、人々が生きるための指針としての常識的な倫理(道徳)を吟味し、改善する役割を担おうとしていた。つまりそれは学問的に洗練された道徳的お説教だった。  しかし19世紀末から20世紀前半に、現実の倫理(道徳)から自ら切り離した倫理学とでも呼ぶべきものが出現した。(前哨戦としてニーチェ『道徳の系譜学』、全く違った方向から分析哲学の「メタ倫理学」。)20世紀半ばまでは、むしろこうした没倫理的倫理学が学問的には主流だった。  20世紀後半に伝統的な「実践哲学」としての倫理学が復権してきた理由の一部は、主として科学技術の発展により従来とは異なるタイプの政策課題が浮上してきたからである。より具体的には、従来の政策課題において(そして従来の社会科学において)「人間とは何か」は改めて考えるまでもない常識的大前提であったが、それが近年崩れてきた。日常的な政策・実践の現場でわざわざ「人間とは何か」を頭を絞って定義しなければならないような状況が出てきたのである。(ex.生命倫理・環境倫理)  というわけで倫理学と現実の倫理との関係は多くの社会科学と同様複雑である。  倫理学には二つのタイプがあり、一つは伝統的な、道徳の一部(司令塔?)としての倫理学、倫理の自己反省としての倫理学、現実の問題解決のための指針を与える、学問的お説教としての倫理学、今日の言葉で言えば「規範倫理学」である。そして今ひとつは、現実の道徳から距離を置いた倫理学、倫理を客観的に突き放して観察する倫理学、広い意味での「メタ倫理学」である。 ◇倫理(道徳)とは何か? *道徳の「理解社会学」  ここで議論する倫理(道徳)モデルとは、単なる学説ではなく、普通の人々が道徳について抱いている理解、道徳についての民間社会学的folk-sociologicalモデルである。 cf.「一次理論」(盛山和夫、佐藤俊樹)、「民間心理学folk psychology」(認知科学)  繰り返すが、メタ倫理学はこうしたモデルの客観的な解析を、規範倫理学はそれに対する働きかけをテーマとする。 *さて、では倫理(道徳)とは何か?  非常におおざっぱにいえば、人々が社会的に共有する価値のことであり、またそうした価値基準にのっとってものごと、特に人の振る舞いを評価し、そしてその価値基準を自分たちの行為の指針とすること、である。  人間は(考えようによってはある程度の知性を有する動物も)価値を抱いて生きる生き物である。「価値」というと堅い言い方になるが、感覚とか欲望のことを考えてみればよい。誰でもふつう快楽を追求し、苦痛を避けようとするだろう。快楽・苦痛という感覚をガイドとし、快いものごとへの欲望に動かされるなら、そこで我々は既にある価値に導かれて生きていることになる。  ただし道徳的価値とは、単なる価値ではなく、特別な価値である。  「規範」とは何か? とりあえず「事実」との関係で考えよう。  事実には逆らえない。どういう意味でかと言うといろいろ面倒だが、とりあえず、自然法則には逆らえない。逆らってはいけない、破ってはいけない、のではなく、単純に事実問題として破れない。これに対して規範は破ることができる。  また規範イコール道徳・倫理ではない。道徳規範以外の規範はいろいろある。論理法則とか数学の規則とか、言語における語法・文法とか。  実際にはこう単純には言い切れない。ある種の論理法則はどうしても捨てられないらしいし、数学の場合も同様らしい。また人間の言語がまったく恣意的なわけではなく、論理法則や数学的規則、そしていくぶんかは生物学的・物理学的制約(自然法則)にも服しているらしい。しかしそれに拘束されない部分も確実にある。  しかし道徳的規範と論理法則・数学的規則・言語的規則との間には決定的な違いもまたあるようだ。つまり、後者に逆らうことには端的に言って意味がないのに対して、前者に逆らうことは充分に可能だ、ということだ。  論理法則や数学的・言語的規則を破ることはもちろん可能だが、そんなことをしても意味がない。しかし道徳規範を破ることは時に充分に意味がある。理解可能だし、ことによっては合理的でさえある。  いかなる意味において理解可能であり、合理的か? 典型的かつ範例的には、その道徳規範を破る主体の自己利益の観点から、である。さてこのように、人をしてときに道徳規範に逆らわしめる理由と力が自己利益から来るのだとしたら、当の道徳規範自体の力、拘束力はどこから繰るのか? それはやはり当然ながら他人たち、他人と自己を含めた社会から来る。他人と折り合いを付け共存したいと思うなら選ばなければならないが、もしそうやって共存せずにすむならどれほど楽か、と思わせてしまうような選択肢を人をして選ばしめる圧力。それが広い意味での道徳規範の力、権力ではないか。しかし、だとしたらそれはより具体的にはどんな「力」なのか?   倫理学は規範の学問であるといわれるが、また価値の学問であるともいわれる。では規範と価値とはどういう関係にあるのか? また道徳的規範が規範のすべてではないように、道徳的価値が価値のすべてというわけでもない。では道徳的価値の特徴はどこにあるのか?   とりあえず割り切った言い方をするなら、規範は能動的な行為に関わり、価値はその結果の受動的な評価に関わる、となるだろう。ところで前回には、道徳規範以外の規範の例として論理法則とか、数学的規則、言語的規則を持ち出した。ではこれらにおいて「価値」を云々することはできるだろうか?   日本語の語感として論理とか数学とか言葉について「価値」を云々するのは変な感じがするが、「意味」というならしっくりするだろう。論理的、数学的、言語的なルールに従わない表現には普通「意味がない」。「価値」とは「意味」の一種だと考えてみてはどうだろうか。  しかし「価値=道徳的意味」というのも変な感じである。先ほど述べたように、非道徳的価値というものがあるように思われるからである。  では価値とは、そして規範とは何か、についてとりあえず道徳を括弧に入れて考えてみよう。  「価値がある」という言葉遣いは、「Aにはこれこれの価値がある」という風に使う。この場合、Aは価値を帰属させられた対象である。しかしここでは何かが省略されている。つまり「AはXにとってこれこれの価値がある」という「Xにとって」が。ここでXとは、ある対象Aにこれこれの価値を帰属させる=これこれと評価する主体である。  このAがものというよりは主体Xのなす行為とか、Xがとる状態とかのことを指すならば、ここで規範を持ち込むことができる。つまりXにとってAすること/Aであることはよいこと/のぞましいこと/そうでなければならないことである、ということになる。対象Aがものである場合にも、XがAを所有したり、利用したりする場合を考慮すればよい。  規範と価値を考える際の出発点となるのは、このような、単一の主体の行為とその成果についてのモデルである。ある主体にとっての価値――欲求とも、欲望とも言い換えられよう――を実現するための行為への要請、指図が規範である、と。  ここで規範と価値はセットのものと考えられているが、本講義の「前置き」を念頭に置くなら、必ずしもつねにセットであるわけではないことに注意しよう。主体にとって、ある価値を実現するためには必ず自ら努力してある行為を行なわなければならないわけではなく、理由なき幸運によってそれが満たされている場合もある。逆に努力が報われないこともある。  大きく言えば、人が生きている、存在しているということ自体が理由なき幸運、神の恩寵としてつねに既に実現しているとも言える。そして生まれた以上は死を運命付けられているということが、理由なき不幸、悪魔の呪いとして既に予定されているとも言える。  では道徳規範、より広く見て社会的規範とはどのようなものか? それは複数の主体が共存する社会における、共存という制約のもとで変容した規範である、ととりあえずは言える。  後者が狭い意味での倫理学の守備範囲であり、前者が倫理学の前提問題、かつての神学の固有のフィールドだった。  主体には二つの側面がある。何事かを能動的になす、行為の主体としての側面と、何事かを受動的に感じ取り、楽しみあるいは苦しむ、経験する主体としての側面と。  人間主体は自発的に行為して世界にはたらきかけ、そして世界からはたらきかけられてそれを体験する存在である。  そして主体にとってある種の体験は何らかの意味において「よく」、また別の種の体験は何らかの意味において「わるい」。主体は「よい」ことを求め、「わるい」ことを避けようとする。これが「価値」の原型である。「価値」とは「価値判断」「評価」の基準・尺度である、ととりあえず言える。  そして行為の層においては、行為はまさにこのような価値に沿って導かれる。すなわち「よい」ことを実現するように、「わるい」ことを実現しないように世界にはたらきかけるように。このような形での行為への導き(命令ないし促し)が「規範」である。 (ところで規範と価値とどちらがより根源的か? あるいは、行為と体験とどちらがより根源的か?)  しかしもちろん、人間にとってよいもの/わるいもののすべてが行為の結果なのではない。また反対に、行為のすべてがよい/わるいわけではない。行為によらない、文字通り天から降ってきた幸運ないし災厄というものがあり、別によい結果もわるい結果ももたらさない、その限りでまったく無意味に見える行為というものもある。  だが人間は、すべての行為と経験を「よい/わるい」の軸で意味付けたがるきらいがあるようだ。 *道徳的(社会的)規範とは何か?   さて固有の意味での道徳的価値・道徳規範とは、このような規範・価値一般のなかの特殊なものである、と考えるとわかりやすい。どのような意味で特殊かと言うと、それはこのような規範と価値に導かれて生きている主体が複数共存するなかではじめて生じてくるタイプの価値なのだ。  主体(人間、と読みかえてもさしあたりはほとんど困らない)が複数存在した場合、先の規範と価値にかかわる構図は少し変容する。ここではある主体にとって「評価」の対象となるものは天から降ってきた幸運・不運を別とすれば、自分の行為の結果と他の主体の行為の結果とになる。つまりここで体験される評価の対象の新たなクラスとして、「他人の行為の自分への影響」というものが浮上してくる。そして当然ながら、自分の行為についても同じことが言える。自分の行為の及ぼす効果の範囲に新たに「他人たち」が登場する。  そのことによって一体何がどう変わるのか?                     世界    世界     自分の行為―世界  |       \  /        \ |        自分          自分       /  \        /  自分の行為     自分の行為                          世界    世界      自分の行為 ―  世界    |       \  /              \ |  自分の行為―自分― 自分の行為        ―自分       /  \              / |  他人の行為    自分の行為―他人―他人の行為  |                         他人の行為 参考:永井均「規範の基礎」永井『〈魂〉に対する態度』勁草書房、所収。 ニーチェ『道徳の系譜学』    平尾透『倫理学の統一理論』ミネルヴァ書房 ◇道徳(社会)規範の本態:余談 *ゲーム理論とは  ゲーム理論とは簡単に言うと、複数の、それぞれに自分なりの価値基準を持ちそれにしたがって行動する主体たちの、お互いの行動を読みあいながらの相互作用を分析するための数学的道具立てである。  この道具立てにはいろいろな解釈があるが、現在有力なのは大別して二つである。ひとつは「先読み型ゲーム理論」とでもいうべきもので、伝統的なゲーム理論はこちらの形をとっていた。要するに、各主体がお互いの手の内を先の先まで読みあう、と想定するのである。これに対して第二の新しい解釈は「進化ゲーム理論」と呼ばれるもので、同じ局面が何回も繰り返され、かつ各主体が以前の局面を記憶してそこから学習して戦略を改善することができる、という試行錯誤のプロセスを想定する。現実の生身の主体(生き物であれロボットであれ)を念頭におく限り、後者の解釈の方が現実への適用可能性が高そうに見えるが、もちろんある程度知的な主体であれば当然、いつもいつも過去の経験から学ぶだけではなく、将来についての予想も行ない、それに基づいて行動することもあるから、前者の解釈もむげに捨てられない。それに、繰り返されない一回きりの状況については、後者の解釈はうまく使えない。  いずれにせよ、そこで各主体は、相手の出方を見ながら、あるいは予想しながら行動する。そしてその場合の「相手の出方」の中にはもちろん、「相手にとっての相手(=自分)の出方についての知識ないし想定」も勘定に入っている。とするとこの読み合いにはどこまで行っても終わりがなく、無限に続いてしまい、結局実際には各主体は何もできない――という結論になってしまうような気もするが、実はそうでもない。  たとえば二人の主体A、Bを考える。AもBも同じ状況を共有しているとすれば、不確実性(間違いとか何とか)を度外視した場合、数学的に表示すれば、Aのとるべき行為はBがとる行為の関数(逆も同様)ということになる。もしAとBが同時にアクションを起こすとすれば、正確にはAのとるべき行為はBがとるであろう行為の関数、というわけだ。 これは未知数が二つの二元連立方程式になる。つまり、A(B)のとるであろう・とるべき行為をa(b)とすると、  a=fA(b)  b=fB(a)  このように未知数が二つの二元連立方程式は、例外的な場合を除けばきちんと解ける、というか解がある。(中学の数学を思い出そう。)しかしこれにさっき言ったような変な解釈を行なってしまうと、  a=fA(fB(fA(fB(…・…))) で「終わりがない、解けない、いやーん!」というパニックに陥ってしまう。  ではどうすればいいのか。実は解があるということと、解が実際に(有限回の、つまり実行可能な手順で)求められる、ということとは別問題だ。たとえば5次以上の方程式には、一般的にその次数の数だけの解がことはわかっているけれど、その解を正確に求める一般的な方法はない。それでも正確な値がわからないその解を近似することはできる。つまり、大体解がこの辺にある、という見当は満足の行く範囲でつけられる。  あるいは収束する無限級数、という奴を考えてみる。たとえば、  1+1/2+1/4+……+1/(2のn乗)+…… を考えてみる。この足し算は延々と無限に続くが、にもかかわらずその答えは無限大ではない。厳密に求められるその答えは2である。(高校の教科書などを見てやってみられたい。)  このように考えると、  a=fA(fB(fA(fB(…・…))) という一見終わりのない悪無限にも、行き着く先、落ち着く先がちゃんとある(場合もある)、というわけだ。  以下では、ゲームによってモデル化された社会的相互作用にこの落ち着く先、均衡があって、しかもその均衡が安定である場合だけを想定する。均衡はゲームをモデル化した方程式系の解によって表される。  この場合問題は、ただ単に解があるかないかだけではなく、落ち着く先に実際にどうやってたどりつくのか、である。要するに、社会的相互作用という対象を数学的にモデル化したとき、そこに均衡解があることを見つけて満足するだけではダメである。ここでモデルを解いているのは相互作用の外側でそれを観察している研究者に他ならない。問題は、実地にその相互作用に参加している当事者が、意識するにせよしないにせよ、その均衡を達成することができるかどうか、である。  現段階でのゲーム理論においては、一定の(見ようによっては充分にゆるい、しかし見ようによっては意外ときつい)仮定を置けば、社会的相互作用の当事者たちが、意識的な推論ないし試行錯誤の結果として、自力でこの均衡に近づいていくことができる、と考えている。その具体的なあり方については、先に説明したように二つの考え方がある。 *先読み型ゲーム理論  これは伝統的な解釈で、複数の合理的な主体たちが、互いに相手の手の内を知り尽くした上で、相手の思考を読みあって自分が実際に打つ手をそれぞれ勝手に決めるならばどのような結果に到達するか、を予測し説明しようとする。ここでなぜさっきちょっとほのめかしたような悪循環が必ずしも起こらないのか、を考えよう。  さっきの考え方が悪無限に行き着くのは、自分の打つ手を決めるためには相手の手についての予想を立てなければならず、しかしその相手の打つだろう手は自分の打つだろう手に依存するだろう……といった推論をするしかない、と考えてしまうからだった。しかし実際にはそんなことはない。AとBのゲームにおいて、Aは自分の手aを決めるためにBの打つだろう手bを(微妙な言い方だが)それ自体として予測する必要はない。  Aが知っておかねばならないことは、bのとりうる範囲、つまりBが打ってくる可能性のある手の一覧であって、その中でBが実際に打ってくるだろう一手をぎりぎり引き絞って予想する必要はない。  もう少し具体的にしよう。aのとりうる値(Aのとりうる手)はa1とa2、bのとりうる値(Bのとりうる手)はb1とb2としよう。Aがまず考えるべきは、もしBがb1と打ってきたら自分はどう応じるべきか、そしてb2と打ってきたときにはどうするべきか、を決めておくことである。つまり相手の出方に応じた適切な手の一覧表を作るのである。  もちろんこれだけでは不足である。しかしAはすでに見たように、自分だけではなくBのとりうる手の一覧も知っており、Bもまたそれを(つまり、AとB双方の手の一覧)を知っていること、そしてBもまた合理的で自分の利益を追求していることを知っている。ついでに言えば、BはAが合理的であることももちろん知っている。こういう風に相互作用についての基本的な情報が共有されていれば、どうなるか?   まず当然ながら、Bの方でもAの出方に対応した打つべき手の一覧表を作る。そしてAもBもともに合理的で、かつ互いの合理性をわきまえているから、AもBもともに自分のだけではなく、相手の戦略一覧表を知っている。ということは、二枚の一覧表を照らし合わせることもできる。二枚の一覧表を照らし合わせるとはつまり、先にわれわれが第三者の観察者としての立場からやったように、AとB両者の行動パターンを方程式化してそれを解く、ということと本質的に変わらない!   さてこれで万々歳か、というとそうとも言えないのが厄介なところだ。もっとも厄介な問題は、実際にこの方程式を解こうと思えば、参加している主体の数、そしてそれぞれが取りうる手の数が増えれば増えるほど、加速度的に式を解いて答えを求める手間が増えていく、ということである。  観察者の立場からすれば、方程式に解があるのかないのか、それが安定かどうか、を知るだけで充分であり、実際にその解をいちいち具体的に求める必要はない。それはゲームを実際にプレーする当事者の仕事だ。だから学者の立場ではいくらでも複雑なモデルを作ることができる。しかし当事者はそうはいかない。ただ単に解があることを確認したところで、それを(不正確にでも)具体的に求められなければ実際に行動を起こせない。  そこでいわば、非現実的ではあるが無理のない幸運なケースを考えてみよう。つまり現実の状態がたまたま均衡にあった、というケースを。均衡解を(a*,b*)とする。この先読み型ゲームの場合には、均衡はまず現実の行動としてではなく、予想として出現する。つまりたまたま  Ea=a*  Eb=b* である、という風に。そうなると  a*=fA(b*)  b*=fB(a*) なのだから  a=fA(Eb)=fA(b*)=a*  b=fB(Ea)=fB(a*)=b* である。つまりこれは「自己実現的予想」となっているのである。AとBによって形成された予想の組がたまたま均衡解となっていれば、自動的にこの均衡状態が実現してしまうようにシステムができている、というわけだ。 *進化ゲーム理論  「進化的ゲーム理論」の解釈では、これは試行錯誤のプロセスの行き着く果てとして考えられる。この場合主体はあまり賢くなくて、予想ということをしない。ただ実際に起こった経験から学んで、次の機会にそれを生かす。そしてその「次の機会」は実際に次々やってくるので、経験は積み重ねられ、実際になされる行為も少しずつ修正されていく、というものだ。  式の形にするとこうだ。  a[t+1]=fA(b[t])  b[t+1]=fB(a[t])  まず、このシステムに解があるとは、ゲームが均衡状態にあるとはどういうことか? それはこんな風に書ける。  a*=fA(b*)  b*=fB(a*)  これをこの「進化ゲーム」のケースに即してさらに説明していくと、ある特別なa[・]の値a*とある特別なb[・]の値b*があって、たまたまある時点tにおいて  a[t]=a*  b[t]=b* がなりたってしまっていたら、その後延々とその状態が続いてしまう、つまり  a[t]=a[t+1]=……=a[t+k]=……(=a*)  b[t]=b[t+1]=……=b[t+k]=……(=b*) となる、ということだ。いったんその状態にはまり込んだら、そこから変化しなくなる、それが均衡状態である。  そしてこの解が安定であるとは、たまたま最初はシステムの状態が均衡になくとも、時間が経過するにつれ(tがどんどん大きくなるにつれ)、どんどん均衡に向けて近づいていく、ということである。つまり  t→∞ ならば a[t]→a*, b[t]→b* というわけである。 *ポイント  道徳規範の特異性、社会規範の拘束力の根拠はどこからくる?  解答候補1:未来から。予想から。他者の出方についての予想から。  解答候補2:過去から。慣習から。伝統から。 *道徳の解明においてゲーム理論を如何に使うか  とりあえず、互いに相手の出方をある程度見越した上でなされる個人間の相互作用がかならずしも悪循環にもダブルコンティンジェントの悪夢にも落ち込まない可能性があることは、ここまでのお話で示せたと思う。  さて、先に説明したゲーム理論における「均衡」概念は専門的には「ナッシュ均衡」と呼ばれる。「ナッシュ均衡」でモデル化されるような社会状態はどのようなものか、もう一度確認しておこう。  それは数学的には「不動点」と呼ばれるような状態である。つまり、何らかの理由でたまたまその状態が実現してしまうなら、そこからもうそれ以上の変化がおきなくなるような状態である。ゲーム理論の想定する社会的相互作用の場合を考えよう。もしいったんその状態が実現してしまえば、相互作用に参加しているどの主体にとっても、そこから動く理由が見つからない――自分ひとりがそこからどう動いても、得をしないか損をしてしまうような、そういう状態である。  これに更に「安定性」という条件が付け加われば、社会状態がたとえ他のところにあっても、時間が経つうちに段々とこの「均衡」状態に近づいていくことになる。この「安定性」の概念は「進化ゲーム理論」において特に重要な役割を演じる。  また「先読み型ゲーム理論」の場合には、前回書いたように、この「均衡」は「自己実現的予言」になっていることにも注意しよう。  しかし、注意しておかねばならないのは、このナッシュ均衡それ自体には何ら規範的、価値的な意味合いはない、ということだ。  では、ゲーム理論の道具立ては道徳を論じるときどのような使いでがあるのか?  *社会契約論  (近代的)社会契約論の意義  社会的なルール・道徳・慣習・制度等々を個人間の合意・協同・約束に還元して説明する。実証的にも(社会や約束によって作られた)規範的にも(法は約束だから守らなければいけない)個人主義的社会理論のプロトタイプをなしている。  もちろん多くの欠点がある。  ヒュームによる批判:  実証的には、社会契約によって作られた国家の方が少ないであろう。では規範理論としては生き延びうるか?  (1)先行世代による契約がいかにして後続世代を拘束できるのか?  (2)所詮は教養と財産ある人士にしか適用できない……政治エリートではない一般庶民はが国家に服従しなければならない理由が付けられない。  (1)へのロックへの解答:人は遺産と共に、遺産を保護するための法と国家への服従義務をも相続する。 (2)の射程:普通選挙制と大衆民主主義が確立した今日の先進国では通用しない議論か?   道徳を約束によって説明するのは循環論法か? 必ずしもそうではない。約束を守るという道徳は約束によっては基礎付けられないというだけのことだ。  ホッブズの議論の構図:自然状態においても人々は自然法を発見し構想できる。しかしそれを実効あらしめることが容易にはできない。「囚人のディレンマ」 *社会契約説を読む理由  社会契約論は規範的にも実証的にも個人主義的社会理論のプロトタイプである、ということについて再確認しよう。  例えばホッブズが国家を「人工身体」「人工人間」と呼ぶように、また我々自身も日常的に集団や団体、組織を「法人」として扱うように、ひとつのまとまりとしての社会はしばしば擬人化して扱われる。このような場合、道徳・倫理や法は社会の意志・意図に擬することができる。つまりここで我々は道徳・倫理について論じる際に、個人の意志・意図・欲望・希望を論じるのと同じ論理を適用できることになる。  もちろんこのような擬人法的社会理論は社会契約論に限られているわけではない(例:社会の意志=君主の意志であるような独裁制の理論)が、社会契約論には大きな特徴がある。つまり、社会の意志は社会の構成員たちの間の合意(の所産)である、ということだ。  つまり、合意とはそもそも何か、という大問題(合意とは意図を集めて足し合わせたようなものか、それとも共通部分をくくりだしたものか、そもそも合意は意図の一種と言えるものなのか、等々)をとりあえず脇に置いておけば、社会契約論は、道徳・倫理、慣習、法、社会的慣習、公益、要するに社会的なもの、を個人の意図から導き出す/に分解することができるわけである。  こう考えるなら、個人の意志と道徳・倫理との間には、単にアナロジー(論理的に同じ構造がある、という想定)が成り立つ、というだけではなく、実質的に連続した関係(前者が後者の素材、構成単位になっている)がある、ということになる。  これをゲーム理論の用語で言い換えれば、道徳規範を一種のナッシュ均衡として解釈することもできる、ということである。しかし注意すべきは、あくまでも「一種の」に過ぎないということだ。それも一体どのような「一種のナッシュ均衡」なのか、容易にはわからない。  なぜなら、ゲーム理論的な考察を素直に展開するなら、道徳規範の実現がナッシュ均衡になるとは、とりあえずは信じがたいからだ。 *ゲーム理論によるホッブズ的戦争状態のモデル(稲葉『リベラリズムの存在証明』より抜粋)  ゲーム理論における「囚人のディレンマ」モデルを簡単に例示する。  ゲームのプレイヤー、AとBが存在する。二人はそれぞれ、c、dという二つの行為の選択肢を有している。相互行為の結果、二人の得るであろう利益は、仮に以下のごとき数字で表される。cを協力、dを裏切りと解釈すると理解しやすい。 ・Aの得る利益 Bがcを選択した場合、cを行えば3         Bがcを選択した場合、dを行えば4         Bがdを選択した場合、cを行えば1         Bがdを選択した場合、dを行えば2 ・Bの得る利益 Bがcを選択した場合、cを行えば3         Bがcを選択した場合、dを行えば4         Bがdを選択した場合、cを行えば1         Bがdを選択した場合、dを行えば2  表にすれば以下の通り。()内左側がA、右側がBの得る利益を表す数字。               B            c     d      c   (3,3) (1,4)    A      d   (4,1) (2,2)  Bの選択を所与とした場合、Aはどのように振る舞えば自分の利益を最大にできるだろうか? Bがcを選択した場合は、4>3でdである。Bがdを選択した場合は、2>1でdである。Aについても同様の推論が成り立つ。ゆえに、ありうべき結果=ナッシュ均衡は、両者ともにdを選び、得られる利益はともに2である、ということになる。  ホッブズ的自然状態はこの枠組みでは、cが「自然法に自発的に従う」、dが「自然法を無視して自由に振る舞う」という風に解釈できる。ありうべき結果(ナッシュ均衡)は全員がd=「自然法を無視して自由に振る舞う」である。  すなわち、誰も道徳規範に従わない、というのが自然な結果であるかのように見えてしまう!   この難問をどうクリアするか?  *繰り返し「囚人のディレンマ」ゲーム  無限回繰り返し「囚人のディレンマ」ゲームについて例示する。先の、二人の主体AとB、行為の選択肢cとdの設例を踏襲する。  繰り返しゲームにおいては、1回ごとの利益ではなく、全てのゲームの利益の総計ないし平均を問題とする。しかし、無限回の場合、そのままでは利益の集計が困難となるため、以下のごとき設定を行う。つまり、各主体は将来のゲームから得られる利益について、現在の立場から評価を行う。具体的には、将来得られる利益は、現在得られる同値の利益よりも、主観的に低く見積もられる。例えば、現在の100万円と1年後の100万円は、現在の時点から見れば等価値ではなく、1年後の100万円の方が現時点の自分にとっては価値が低い、というわけである。その理由としては例えば将来の不確実性等々、さまざまなものが考えられる。「利子」なるものの根拠もここに求められることが多い。つまり、現在の100万円を消費することを我慢して1年間他人に貸すことは、利子という報酬によってはじめて引き合うものとなる、というわけである。  ここで登場するのが「割引率」なる概念である。それは「利子」の概念を前提とすれば直観的には「1/1+(利子率)」という数字で表現できる。  A、Bともに同じ、かつ全ての時点にわたって一定の割引率に従って将来の利益を評価する、としよう。ここでAの利益の総計の現在価値なるものを計算すると、以下の通りである。 「Aの利益の総計の現在価値」=「第1回目のゲームにおいてAが得る利益」+「第2回目のゲームにおいてAが得る利益」×「割引率」+「第3回目のゲームにおいてAが得る利益」×「割引率」の2乗+……+「第n回目のゲームにおいてAが得る利益」×「割引率」の(n−1)乗+……  設定から、各回においてAが得る利益は回を重ねても無限に増大するようなことはないため、この式の項はnが大きくなるにつれ次第に0に近づいていき、その総計は有限の値となる。もちろんBについても全く同様である。  ここで典型的な4つの長期的戦略を定義し、それらからなる無限回繰り返し「囚人のディレンマ」ゲームを考える。4つの戦略は以下の通り。 ・全面協力  相手の出方にかかわらずつねにc ・全面裏切り 相手の出方にかかわらずつねにd ・トリガー  第1回目はc。以後相手がcである限りにおいて次回自分もc。ただし相手が一度でもdと出た場合、次回以降ずっとd。 ・しっぺ返し 第1回目はc。以後、前回の相手の出方を次回においてまねる。つまり任意の第n回目において相手がc(d)ならば第n+1回目において自分もc(d)。  このゲームを標準型表示すると、以下の通り。割引率をΔとする。上段がA、下段がBの利益。                        B          全面協力   全面裏切り    トリガー   しっぺ返し   全面協力   3/(1-Δ)    1/(1-Δ)    3/(1-Δ)    3/(1-Δ)          3/(1-Δ)    4/(1-Δ)    3/(1-Δ)    3/(1-Δ) A 全面裏切り  4/(1-Δ) 2/(1-Δ) 4+2Δ/(1-Δ) 4+2Δ/(1-Δ)          1/(1-Δ) 2/(1-Δ) 1+2Δ/(1-Δ) 1+2Δ/(1-Δ)   トリガー   3/(1-Δ) 1+2Δ/(1-Δ) 3/(1-Δ) 3/(1-Δ)          3/(1-Δ) 4+2Δ/(1-Δ) 3/(1-Δ) 3/(1-Δ)   しっぺ返し  3/(1-Δ) 1+2Δ/(1-Δ) 3/(1-Δ) 3/(1-Δ)          3/(1-Δ) 4+2Δ/(1-Δ) 3/(1-Δ) 3/(1-Δ)  ここで、全面裏切り・対・全面裏切り、はつねにナッシュ均衡であるが、ここで割引率Δが0.5以上ならばトリガー・対・トリガー、しっぺ返し・対・しっぺ返しもまたナッシュ均衡であり、かつ全面裏切り同士のナッシュ均衡においてよりも高い利益が保証される。一般に、割引率が十分に大きければ、双方全面裏切りよりましな結果を双方に対してもたらす別のナッシュ均衡が存在する。  またここでの設例ではトリガーとしっぺ返しの違いがあまり明確とはならないが、しっぺ返しの方がミスに強いことは直感的に了解されるだろう。 ◇倫理(道徳)の規則・法律モデル(1)  今日の先進国で支配的なモデル(人々が「道徳とはこういうものだ」と漠然と抱いている理解)の中でたぶんもっとも有力なものは、道徳を主に義務として、規則・ルールのシステムとして理解するものだろう。  規則とは何か? と言うのがまだ大問題だが、とりあえず一種の命令、それも誰に対してもその拘束力を発揮するような(そしてその命令の主体も誰でもあり得る、というか誰でもない、というか社会全体であるような)特殊な命令のこと、ととりあえずしておこう。 (この考え方は現代の哲学者R・M・ヘアのいわゆる指令主義、さかのぼればイマニュエル・カントの「定言命法」に行き着く。)  もちろんこれだけではおさまらない。一見したところその意味するところが自明であるような規則はむしろ例外で、具体的な個々別々のケースに合わせてその規則をどう適用したらよいか、解釈の余地がある方が普通である。だから道徳はルールの単なる束だけではなく、このルールの束を適切に運用する道徳的判断力からもなっている、とせねばならない。  しかしこのモデルは要するに、法律モデルである。法律は単なる文書化されたルールの束ではなく、それを運用するプロフェッショナル集団、そしてその裁定を行う裁判所システムをあわせた複雑なシステムである。このモデルは道徳を法律のようなもの、それどころか法律と連続したものとして――法律を高度に洗練された道徳として、あるいは道徳を原始的な法として理解しているとさえ言える。  その考え方にも一理はある。道徳と法律は無縁ではあり得ないし、幾分かは連続し、幾分かは重なり合っている。しかしたとえその違いが質的なものと言うより程度問題であるとしても、やはり「違い」はあるだろう。  法律にはいくつかの種類があるが、まずおおざっぱに実体法と手続法という区分がある。手続法というのは民事訴訟法とか刑事訴訟法とか、裁判その他法的な手続をさだめたもので、普通の社会のルールに関わるものではない。社会のルール、つまり実体法の中にも、憲法とか行政法(いわゆる公法)、つまり国家と市民社会の関係と、国家自体の組織のあり方を定めたルールと、市民社会そのもののルール、普通の人びとの社会生活を律するルールを定めたもの、つまり民法と刑法(その他関連する法律、商法、労働法、少年法等々)とがある。  そして道徳と比較されるべき法律といえばまさにこの市民社会のルールとしての民法、刑法だが、それを念頭に置いてみると道徳の法律モデルの限界もまた明らかになってくる。 民法や刑法の条文の多くは、「禁止」のかたちをとる。しかし道徳はその限りではない。  道徳を命令と理解したとしても(この考え方自体も検討の余地有りだが)、いくつかのタイプの命令を区別できる。まず、「しなきゃいけない」「しちゃいけない」という強制・拘束の形を取るか、せいぜい「したほうがいい」「しないほうがいい」といった奨励・説得の形を取るか、という区別が考えられる。そして今度は「××しろ」「××したほうがいい」という肯定の形を取るか、「しちゃいけない」「しないほうがいい」という否定の形を取るか、である。まとめると、以下の4つのタイプ; 1 積極的強制「しなきゃいけない」 2 積極的奨励「したほうがいい」 3 否定的強制(禁止)「してはいけない」 4 否定的奨励「しないほうがいい が見て取れる。これら4つがまんべんなく、というわけではないにせよ、普通我々が「道徳」と理解するものをことばにしてみるなら、この4つのタイプのものが一通り出てくるだろう。陳腐な言い換えをするなら、1「よいことをしろ」、2「よいことをしよう」、3「悪いことをするな」、4「悪いことをしないほうがいい」となる。  しかし法律の場合は大いに異なる。民法や刑法は、3、禁止を基本としている。(ちなみに公法は1と3が中心であるように思われる。)これはなぜか? もちろんそれには理由がある。しかしその理由を考慮に入れずに道徳を法律モデルで考えると、重大な見落としをしてしまうことは明らかだろう。 ◇道徳の目的論モデル(1) 功利主義  規則・法律モデルが唯一の道徳モデルではない。むしろ近代以前に支配的であったのは、道徳をルールに即してではなく、有徳の人に即して理解するモデルである。 ex.中国の「人治主義」  それがなんであるか、を論じる前に、絡め手からいく。  いわば道徳の目的論モデル、とでも言うべきものを紹介する。  とりあえず「人間は目的を持ち、それを実現しようとする存在である」と前提する。ある人にとって、その人の目的、その実現はとりあえず「よい」ことであり、その実現に際して役に立つ物事もその限りで「よい」ことである。(逆に目的の実現に邪魔になったり、本来役に立つはずなのにあまり役に立たない物事がその限りで「よくない」「わるい」ことである。)  この理解では、道徳的な意味での「よい」「善」もまたこのようなモデルで理解できる、とする。大雑把に言って、社会にとって「よい」ことが道徳的な「善」だというわけだ。ただしこの場合、複数の人の集合体である社会そのものの「目的」というものを想定しなければならない。ここに大きな難点がある。  たとえばもし神様がいれば、そして人々の社会の外側から、個人の目的を超え、それに優先する上位の別の目的を提示してくれて、それぞれの個人の目的の達成はそれに奉仕するもの、と定義してくれれば、議論はうまくまとまる。たとえばヨーロッパ古代から中世の道徳哲学はそのようなものだった。人間を含む世界は神の創造と導きのもとにある。すべての被造物には神が設定した目的がある。人間とその社会も然り。  しかしそのような神様ないしそれの代わりをする何かがないところではどうしたらよいか? たくさんの個人の目的から、いかにして社会全体の共通のひとつの目的を導き出すのか?   カント的な法律モデルの倫理学と並び、近代倫理学のいまひとつの主流たる功利主義Utilitarianismは、神の退位後の目的論倫理学を目指したものであった。人間は幸福を目指す存在である、との前提のもと、社会にとっての善はその構成員たる人々の幸福を最大にすること、となされた。ここでの難問は、いかにして個々人の幸福を集計して社会全体の幸福を導き出すか? であった。  まずそもそも、異なる個人間の幸福は比較可能か? 比較可能だとしても、足し合わせることはできるか? 足し合わせたとして、その結果が個人たちの集まりとしての社会にとっての幸福だといえるか? といった一連の疑問が次々に浮上する。  たとえ異なる個人の間で幸福の比較と足し合わせが可能であったとしても、以下のようなパズルが生じる。 例1)一人ひとりはあまり幸福でないが人口の多い社会における幸福の総量が、一人ひとりはかなり幸福だが人口の少ない社会における幸福の総量を上回ったとする。どっちがよい社会か? 前者、というのはあまりにも我々の直観に反する。  この難点を回避するため、「総量」ではなく「平均」を指標にしたとしても、 例2)「平均」幸福量は同じだがそのばらつきの度合が違う社会同士を比較してみる。多くの人はばらつきの少ない、つまり平等度が高い社会の方を「よい」と判断するだろう。しかしその根拠は?   この種の批判は早い時期からたくさん出されたが、厳密な論理的分析のメスが入るようになったのは20世紀後半の数理経済学の発達、とりわけノーベル賞受賞者K・J・アロウの「一般不可能性定理」の証明以降である。「一般不可能性定理」によれば、それぞれに異なる価値基準を持つ複数の個人からなる社会において、全員の合意を問題なくえられるような共通の価値基準を導き出すことは普通はできない、と結論される。  このように目的論的倫理学の困難を見ていくと、実はあの欠点だらけの法律モデルの倫理学が、目的論の困難を回避するために作られたようにも見えてくる。 ◇義務論と功利主義の共通点 *法律モデルの逆襲  法律モデルの倫理学、別名義務論型倫理学は、ある意味功利主義、そして目的論的倫理学全般への批判として読むこともできる。  個人に無条件に優越する倫理的価値の主体(国家でも、神でも)の存在を、つまりは個人の目標をそこに包摂してしまえる大文字の「目標」の存在を天下りに前提しない限り、目的論的倫理学は困難に陥る。各個人の目的と価値の多様性とその相互独立性を許す限り、全員の価値の実現を両立させるような全体社会的価値基準は一般的に作れない。  義務論的倫理学は実は、この困難をうまく避けている。おおざっぱにいえば、全員一致の合意の不可能なることを見越して、可能な範囲での最低限の合意を取り付けること、そしてそれを法と道徳の主軸とすること、が目指される。 *近代個人主義・ヒューマニズム  かように対立しあう義務論的倫理学と目的論的倫理学だが、ことはそれだけではない。  とりあえず近代の功利主義倫理学についてみるならば、それはカント的な義務論とその基本的な構えのレベルで共通性を持っている。  第一に、どちらも「個人主義」的である。より具体的にいえば、自分の目的を合理的に追求する主体としての個人の存在を前提条件としている。  第二に、あくまでも「行為」に照準する。義務論は行為そのものないしその前提条件に、功利主義は行為の引き起こす結果にという違いはあるが。すなわち、「行為者」そのものの性質をとわない。つまり、問われるのはあくまで(その意図か、振る舞いそれ自体か、その帰結かという焦点の違いはあれ)「行為」の善し悪しであり、「行為者」の善し悪しは問われない。「よい・わるい行為」は問題になるが「よい・わるい人」は問題にならない。  徳倫理学と呼ばれるアプローチは、それに対して、行為の主体そのもの、人の性質、能力に照準する。(功利主義以前の、古代中世の伝統的目的論は、同時にこの「徳」のレベルをも視野に収めるものであった。 義務論、功利主義ともに結局は自由主義的個人主義というか、近代ヒューマニズムの枠内にある。道徳的な評価の対象になるのは人の「行為」とか「目的」とか「状態(幸不幸)」であって、「人」そのものではない。「人」の「性質」(人間性、等)とかあるいは「存在」(「生きていること・生まれてきたこと」と「そもそも生まれてこなかったこと・存在しないこと」とを比較できるか?)とかは評価の対象にならない。  それは義務論、功利主義(を含めた主流派の近代倫理学)が「人」を尊重しないというわけではない。その逆である。近代ヒューマニズムにとっては、「人」の尊さは比較を絶する絶対的なものである。「人」の存在は道徳的評価が可能となるための前提をなしているのであり、それ自体は道徳的評価の対象にはならない。 ◇道徳の目的論モデル(2) 徳倫理学 *徳倫理学の理由(1):共同体主義  しかし日常的な道徳的言語行為において我々は、ごく普通に「いい人」「悪い人」という風に「人」の性質、そして「人格」自体を道徳的評価の対象としている。これは何を意味するか? 考えられる可能性として; 1.理論的に洗練された近代倫理学は素朴で無反省な日常道徳を批判して、「人格」を道徳的に評価するなどという蛮習を廃するよう提言している。 2.「人格」が道徳的評価の対象になっていることにはそれなりの理由があるが、近代倫理学はそれをなお十分に解明しきれていない。  前者の考え方も面白いが、ここでは後者の可能性を真面目に取ることにする。  まず、既に近代の目的論倫理たる功利主義の困難の理由を「個人に無条件に優越する倫理的価値の主体(国家でも、神でも)の不在」に求めたが、もしもそのようなものの存在を想定するならば、そのような主体は人間の生まるごと、「人格」を道徳的に評価する尺度となる。例えば中世キリスト教倫理はそのようなものであった。個人に対して、その存在に先行し、より上位の道徳的価値を備えたものとしてのコミュニティ、国家、教会、人類社会といった共同体を対比する考え方。今日こうした思考を復権させようとする立場がいわゆる共同体主義Communitarianismであり、この立場からは当然「人」の性質としての「徳」は道徳的評価の対象となる。  この立場からするならば、義務論にせよ功利主義にせよ、近代の倫理(学)、近代ヒューマニズムは、かつてあったトータルな道徳の断片的な残骸に過ぎないということになる。しかし当然近代の立場からは、かつての全体性の回復=偉大な伝統への回帰などそもそも可能なのか、が疑問に付される。 *徳倫理学の理由(2)  しかし徳倫理学への動きは、それとは別方向からも起こっている。  たとえばアロウの仕事を継承しつつ、途上国貧困問題の実証分析や現代倫理学をも踏まえて独自の展開を行ったノーベル経済学受賞者アマルティア・センの「潜在能力アプローチ」について考えてみる。  現代(規範)倫理学・政治哲学の復興の立役者は『正義論』のジョン・ロールズであるが、彼の理論は義務論的な平等主義の構想である。人々の間に基本的な(結果としての利益・幸福ではなく)権利の平等な保障を行う社会を「正義にかなう」とする。  しかしロールズは権利の保障の具体的な枠組みとして、一連の社会的な基本財を最低限万人に供給する、というアイディアを提示する。不平等問題は基本的に財産の不平等問題として考えられている。つまり人に内在的な「性質」、気質、体質、能力の類もまた特殊な「財産」として考えられている。このような考え方にはそれなりの理由がある。「性質」をあたかも取り外し可能なもののごとく扱うことによって、個人の間の差異を無化して、平等な存在とみなすことが容易になる。(このような人間観の「薄さ」はもちろん、共同体主義の批判するところである。)  しかしこのように人の属性、とりわけ経済的な富の生産につながる能力を「財産」として捉えつくすことには細かく見ていけば無理があることをセンは指摘する。そして「財産」とは異なるものとしての「能力」という水準があることを認めた上で、権利の平等の保障のためのターゲットとしては「財産」よりこの「能力」を重視することをセンは主張する。  この考え方は共同体主義とはまったく逆に、近代的な個人主義の圏内に踏みとどまりつつ、しかもなお人の「性質」を道徳的対象として扱うことを目指している。いまだ「人格」総体の扱いはそこではなお明らかではないが……。 ◇現代倫理学のジャーナリスティックな見取り図  ここまで紹介した限りでは;  近代以降の倫理学・道徳哲学(規範倫理学)は、道徳の法律モデル(その代表が義務論)と目的論(その代表が功利主義)との二大潮流に分かれている。  しかしこの両者は近代個人主義を前提としており、個人の行為とその結果を道徳的評価の対象とし、個人の性質・存在そのもの(「人間性」「人格」)は評価の対象としない。  それに対して、個人の道徳的性質、「徳」を道徳の根幹におく道徳理解は近代以前にはむしろ主流であり、近年主に「共同体主義」の形をとりつつ復権してきている。  しかし「功利主義」「義務論」が一枚岩陣営というわけではない。それぞれの陣営(?)は方法論とか、人間存在のとらえ方においてかなり共通してはいるが、結論というか目標というか目指す社会の構想においては、相当に異なることも多い。たとえば功利主義者は19世紀においては進歩的な社会改良主義者であったが、20世紀にはそうでもない。  ところで、20世紀後半における規範倫理学・政治哲学復興にあたってもっとも力があったのはジョン・ロールズの『正義論』であり、これはメタ倫理学全盛の時代へのプロテストであると同時に、英米においては哲学的のみならず世論的にも主流となった功利主義(経済学はいまだに広い意味での功利主義のもとにあるといえよう)に対して権利論(≒義務論)を復権させようという試みであった。  さてロールズのかような挑発に対して、功利主義からの反論はもちろんあった。しかしその後のロールズ正義論をめぐる論争の焦点は功利主義との対決よりもむしろ、その福祉国家的リベラリズムに対する、保守的自由主義、最小国家的リバタリアニズム(その代表者ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』)との対決にあったといえる。そして狭義の倫理学というより、政治哲学の土俵において論争は盛り上がった。そこでの主題は乱暴に言えば「大きな政府(福祉国家)・対・小さな政府」であり、折からの「福祉国家の危機」、先進国の不況と財政危機と新自由主義の台頭もあいまって、活発な議論が繰り広げられた。しかしそれらの論争は、たとえばノージックもロールズも、その目指す政治的目標においては真っ向から対立しつつも、用いる理論装置、前提となっている人間観においてはかなり親近性がある――端的に言えば、どちらも義務論=権利本位的・自然権理論をもちいている――ことに見られるように、必ずしも哲学的にみて面白いレベルで行なわれたわけではない。  これに対して功利主義が復権してきたのは、生命・環境倫理などの、細かい政策決定をめぐるいわゆる「応用倫理」の領域においてであった。そこでの論争の焦点は「人間とは何か」といった、哲学的懐疑のレベルにおいてより深いものであったため、人間理解の根本において対立しあう義務論と功利主義の対決がストレートに行なわれやすかったのではないか。(ピーター・シンガー、デレク・パーフィット等。)  たとえば義務論(権利論)の道具立てでは「動物の権利・幸福」や「(いまだ存在していない)将来世代の権利・幸福」について議論しにくい。義務論においては、道徳的な評価・配慮の対象となる(人や政府がその権利を尊重する義務を負う)相手は、自ら自己の存在価値と権利を主張してくるものでなければならない。権利は定義上、他人に押し付けられるものではない。(押し付けられれば、それは権利ではない。)功利主義にはこのような弱点はない。功利主義には幸福の押し付けをためらう理由はない。 ◇付録 *ロールズ『正義論』 「さて、われわれは社会的協同に参加する人々が、基本的諸権利と諸義務を割り当て、社会的便益の分割を規定する諸原理を、一緒に、一つの共同行為として選択する、と想像してみなければならない。人々はその中で、お互いに対する要求をどのように規制しなければならないか、また何が彼らの社会の基礎となる憲章でなければならないか、を決定しなければならない。それぞれの個人が、彼にとっての善を構成するもの、すなわち、彼にとってそれを追求するのが合理的であるような諸目的の体系を、合理的な省察によって決定しなければならないのと同様に、個人たちからなるグループはまず、そして何よりも、彼らの間で何が正しく何が不正であるのか、を決定しなければならない。この平等な自由の仮説的状況において合理的な人々がなすであろう選択が、とりあえずこの選択問題が解を持つと想定してのことであるが、正義の諸原理を規定する。  公正としての正義においては平等の原初状態が、伝統的な社会契約理論における自然状態に対応する。もちろん原初状態は歴史的に実在した物事の状態として、いわんや文化の原始的な状態として考えられているわけではない。それは正義のある一つの概念化に到るように特徴づけられた、純粋に仮説的な状況として理解されている。この状況の本質的な特徴の一つは、誰も社会における彼の場所、彼の階級的位置ないしは社会的地位を知らないし、また誰も自然的資産や能力の分配における彼の運不運、彼の知性、強さ、といったものについて知らない、ということである。私は更に、当の人々は自分たちの善についての理解も、自分たちの特有の心理的性質についても知らない、とまで仮定しよう。正義の諸原理は無知のヴェールの背後で選択される。このことは、諸原理を選択するに際して、誰も、自然な偶然による帰結や社会的状況上の偶発性によって、利益も不利益も被ることはない、ということを保証する。全員が同じような状況におかれ、誰も諸原理を自分の特有の条件にとって都合のいいようにデザインすることはできないのだから、正義の諸原理は公正な合意ないし取引の所産である。なぜなら、原初状態、すべての人々の、お互いに対する関係の対称性という条件のもとでは、この初期状況は道徳的人格としての、すなわち、固有の目的を、更に私の仮定によれば、正義の感覚をも備えた合理的存在としての個人たちの間で公正であるのだから。いわば、原初状態とは適切な初期の「維持さるべき現状status quo」なのであり、それゆえそこにおいて達成された根本的合意は公正なのである。このことが、「公正としての正義」という名称のゆえんを説明する。すなわちそれは、正義の諸原理はそれ自体公正な初期状況のもとで、それへと合意される、というアイディアを担っている。この名称は、正義の概念と構成の概念とが等しいということを意味しはしない。それは、「メタファーとしての詩」という章句が、詩の概念とメタファーの概念が等しい、ということを意味しないのと同様である。」(Rawls, A Theory of Justice, Harvard University Press, 1971, sec.3, pp.12-13.) 「原初状態のアイディアは、そこにおいてはいかなる合意された原則も正しくなるような公正な手続を設定するためのものである。その目標は純粋に手続的な正義の観念を理論の基礎として利用することである。どうにかして我々は、人々を争わせ、社会的、そして自然的条件を己の利益になるように利用し尽くそうとし向ける特定の偶発性の効果を無化しなければならない。さて、そのために私は、当の人々は無知のヴェールの背後におかれる、と仮定する。彼らはありうべき様ざまな可能性が、己の特定のケースに対してどのような影響を及ぼすかを知らないし、また諸原理をただ一般的な考慮という基盤からのみ評価するよう義務づけられている。  すなわち、当の人々はある種の特定の事実を知らない、と仮定される。何よりも、誰も社会の中での自分の位置、自分の階級的位置ないし社会的地位を知らない。誰も自然的資産と能力、知性や強さ、といったものの分配における己の運不運を知らない。更に、誰も自分の善についての理解、自分の生についての特定の合理的なプラン、あるいは自分がリスク回避性向とか楽観主義的あるいは悲観主義的傾向といった自分の心理的な特徴さえも知らない。これに加えて、私は当の人々は彼ら自身の社会の固有の状況さえも知らない、と仮定する。すなわち、彼らはその経済的ないし政治的状況、あるいはそれが達成することのできた文明と文化の水準さえも知らない。原初状態における人々は、自分たちがどの世代に属するのかについても何の情報も持たない。こうした、知識に関する広範な制約は、一面では、社会正義の問題は、世代内でと同様世代間においても、例えば適切な資本貯蓄率とか、天然資源と自然環境の保全といった問題として発生する、という理由ゆえに適切なものである。更には、少なくとも理論的には、理に適った優生政策という問題もある。原初状態のアイディアを突き詰めるならば、これらのケースにおいてもまた、当の人々は彼らがおかれている偶発的条件について知っていてはならない。彼らは自分たちがどの世代に属していようとそれと共に生きる用意のあるような帰結をもたらす諸原理を選択しなければならない。」(ibd., sec.24, pp.139-137.)  このような理論装置から出発して、ロールズはこの「原初状態」のもとで公正な手続的正義にしたがった合意の結果として導き出されるであろう「正義の二原理」を提示する。すなわち、 「第一:各人は、他人の同様の自由と両立しうる限りで最大限に包括的な基本的自由への平等な権利を有するべきである。 第二:社会的、ならびに経済的不平等は、(a)すべての人の利益となることが理に適った形で期待され、かつ(b)すべての人に対して開かれた地位と職務に付随するように設定されるべきである。」(ibd.,sec.11, p.60.)  更に修正された形では、 「第一原理  各人は、すべての人にとっての同様の自由のシステムと両立しうる限りで最大限に包括的な、平等な基本的自由のトータルなシステムへの平等な権利を有するべきである。  第二原理  社会的、ならびに経済的不平等は、次のように設定されるべきである。すなわち、  (a)正当な貯蓄原則と整合的な限りで、もっとも恵まれない人々の最大限の利益に貢献する。  (b)公正な機会の平等のもとで、すべての人に対して開かれた地位と職務に付随する。」(ibd., sec.46, p.302.)  ロールズの第二原理(格差原理)が、ベヴァリッジ・プランにあるようなナショナル・ミニマム論ではないことに注意せよ。  万人に「ナショナル・ミニマム」を保証するような国家においては、生活水準において最低の人のその生活水準が、もし仮に「ナショナル・ミニマム」を上回っているようであれば、政府は何もする必要がない。それがな「ナショナル・ミニマム」を下回っている場合に限り、介入が必要となる.  ロールズの格差原理の場合には大まかに言って発想が逆である。とにかく最も恵まれない人々の利益を最大にしよう、というのである。もちろんそのための資源(財源)はより恵まれた人々の稼ぎ・財産から(税金などを徴収することによって)持ってこなければいけない。そして、恵まれた人々にあまり重い負担(高い税率など)をかけてしまうと、恵まれた人々がやる気を無くしてしまうので逆効果である。だからこの逆転が起きてしまう手前で、恵まれない人々の生活改善はやめなければならない。しかしその手前に来るまでは、どんどん再分配をやるべし、というわけである。これはとんでもなくラディカルな提案であることに注意せねばならない。  ロールズの理論の弱点は、第一に「「原初状態」の想定はどの程度もっともらしいか?」であり、第二に「仮に「原初状態」論を受け入れたところで、それが正義の二原理に――とりわけ第二原理にストレートに結びつくか?」であろう。 *ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』  拙稿「メタ・ユートピアの構図」(http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/nozick~1.htm)を参照。 *ピーター・シンガー『実践の倫理』 (補充予定) *デレク・パーフィット『理由と人格』 (補充予定) *アラスデア・マッキンタイアー『美徳なき時代』 ・近代的道徳の隘路 「[18・19世紀西欧における道徳の正当化の企て[プロジェクト]]の失敗の理由は、一方で道徳の規則と教えについて彼らが共通に考えていることと、他方で人間本性について考えていることの共通部分――相違点のほうがずっと広範であるにもかかわらず――との間に根絶し難い不一致があることである。」『美徳なき時代』篠崎栄訳、みすず書房、65頁下 「この[アリストテレス『ニコマコス倫理学』に由来する]枠組においては、〈偶然そうであるところの人間本性(未教化の状態における人間本性)〉は、初めは倫理の教えと一致・調和しておらず、実践的な理性と経験からの教示によって〈自らのテロス〔目的〕を実現したならば可能となる人間本性〉へと形を変える[トランスフォーム]必要がある。」66頁上 「プロテスタントとカトリック双方の神学を世俗が拒絶したこと、アリストテレス主義を科学と哲学の世界が拒絶したこと、この両者の結果が合わさって、〈自らのテロスを実現したならば可能となる人間〉といった観念は一切除去されてしまった。[中略]そこに残されるのは、その関係がまったく不明瞭になった残る二つの要素から構成されたある道徳枠組となる。一方の要素は、ある種の道徳内容、つまり目的論的文脈を奪い取られた一そろいの命令であり、他方の要素は、〈あるがままの未教化の人間本性〉についてのある種の見解である。」68頁下 「こうして理解された道徳の命令に対しては、このように理解された人間本性は不服従への強い傾向をもつようになりがちである。」69頁上 「諸徳は実際今や、アリストテレス的枠組においてと違って、規則や法の役割・機能とは区別され対照されるべき役割と機能をもつものとしてではなく、道徳の諸規則への服従をまさに必要な性向であると考えられるようになる。」284頁下 ・徳の倫理 「私たちが「腕時計」と「農夫」という二つの概念を定義するのは、腕時計と農夫が果たすことを特徴的に期待されている目的あるいは機能についてである」「腕時計という概念はよい腕時計という概念から独立には定義されえない」72頁下 「「何々」が機能概念によって特定される事項をさしている場合に、適切な基準が満たされていることを主張する前提から「これはよい何々である」と主張する結論へと移行する論証があるとすれば、それはどれも、事実的前提から評価的結論へ移行する妥当な論証ということになる。」72頁下〜73頁上 「古典的・アリストテレス的な伝統内部での道徳論証――そのギリシア的形態のであれ中世の形態のであれ――は、少なくとも一つの主要な機能概念を含んでいる。すなわち、本質的なあり方(an essential nature)そして本質的な目的(purpose)あるいは機能を有するものとして理解された人間(man)という概念である。[中略]つまり古典的伝統の内部では、「腕時計」と「農夫」が「よい腕時計」と「よい農夫」に対するように、「人間」は「善い人間」に対しているのである。」73頁上〜下 「この伝統の内部では、道徳的・評価的言明は、まさしく他の全ての事実言明と同じ仕方で、真または偽と呼ばれうるのである。しかし、人間の本質的な目的や機能の観念が道徳からいったん消失すると、道徳判断を事実言明として取り扱うことは首肯できないと思われ始めるのである。」74頁下 「諸徳は、特定の仕方で行為するだけではなく、特定の仕方で感じる性向でもある。」183頁下 「教養ある道徳行為者は、有徳な仕方で判断し行為するとき、自らが何をしているのかをもちろんしっていなければならない。こうして彼は、有徳なことを、それが有徳であるがゆえに行うのである。この事実こそが、徳の行使を、徳ではなくむしろ徳の幻影(simulacra)にすぎないある種の特質から区別するのである。」183頁下 ・英雄社会の徳 「英雄社会における諸徳についての説明は、その社会構造での脈絡からそれらの徳を分離したならば、決して十分なものとはなりえないのである。[中略]そもそも、一揃いの社会的絆しかないのである。それと区別されたものとしての道徳はまだ存在していない。」151頁上〜下 「英雄社会には通常、外側からその社会に入ってくるどんなよそ者にもあてがわれうる明確に規定された地位が用意されていた。ギリシア語においては「異国の」(alien)に対応する言葉と「客人」(guest)に対応する言葉は同じ言葉である。よそ者は、制限つきではあっても明確に規定された厚遇をもって迎えられるはずである。」151頁下〜152頁上 「英雄社会の中心的主題としてもう一つ、死が[内部の者とよそ者]両者を差別なく待ち受けているということがある。」152頁上 「それゆえ、なすべきことをなす人は自己の運命と死に向かって着実に進んでいく。最後に控えているのは、敗北であって勝利ではない。そして、このことを理解することがそれ自体一つの徳なのである。[中略]それはたしかに、人間の生というものが一つの確定した、ある種の物語[ストーリー]の形をもつということである。」152頁下〜153頁上 「『イーリアス』を書いた詩人が理解し、その登場人物たちが理解していない点は、勝利もまた敗北の一形態かもしれぬということである。」157頁上 「ニーチェが描くことは、貴族的な自己主張〔我意を押し通すこと〕であるが、それに対してホメロスとサガが示すことは、ある役割に固有でそれが要求する主張形態なのである。」158頁下〜159頁上 ・古典古代の徳 「ホメロスの叙事詩あるいはアイスランド、アイルランドのサガによって描かれたような英雄社会は存在したかもしれないし、しなかったかもしれない。しかし、それらが存在していたという信念は、古典社会とキリスト教社会にとっては決定的に大事であった。というのも、それらの社会は、英雄社会の抗争から興ってきたものとして自己を理解し、自らの立脚点を部分的にはその勃興に基づいて定義していたからである。[中略]英雄文学は、これら後代の諸社会の道徳的教典の中心的部分となり、それらの社会の主要な道徳的特長の多くが生じたのは、これらの教典を現実の実践に関連づけることに含まれる諸困難からなのであった。」181頁上〜下 「ホメロス的人間にとっては、彼自身の共同体の構造に具体化された、訴えが向けられる基準の外部には、何も基準が存在しえない。それに対してアテナイの人間にとっては、事態はもっと複雑である。諸徳について彼が理解するということは、彼が自分の共同体の生活を疑問視し、あれこれの実践や政策が正しいかどうか問うことのできる基準を実際に手に入れることである。にもかかわらず彼は、諸徳についての自分の理解をもっているのは、その共同体の一員であることが自分にそのような理解を与えているからに他ならない、ということも認めているのだ。」163頁下〜164頁上 ・近代的道徳の先駆としてのストア主義 「意志と法を強調する形での道徳生活のこの内面化は、新約聖書のいくつかの章句のみならずストア哲学にまで遡る考え方である。」206頁上 「アリストテレス的見解とは異なってストア派の見解では、アレテー〔徳〕は本質的に単数表現で語られ、個人がアレテーを所有するかどうかは〈全てか無か〉の事柄なのである。」206頁下 「正しいことをなすことは、快楽や幸福、身体的健康を、あるいは世俗的なものであれ実際他のいかなるものであれ成功を、必ずしも産み出すわけではない。ただし、これらのうちのどれも正真正銘の善ではない。これらが善となるのは、正しく形成された意志をもつ行為者が正しい行為をなす際の助けになるという条件においてのみである。そうした〔正しく行為しようとする〕意志のみが無条件に善いのだ。それゆえストア哲学はテロス〔目的〕という観念を一切放棄したのである。」206頁下 「自然的正義に関するアリストテレスの短い言及について論じる中で私が示唆したのは、ある共同体が、そこに共通の仕事をもたらす共有された善に方向づけられたものとして、そこでの生活を見なしている場合、その共同体は、諸徳と法の両者に基づいてそこでの道徳生活を明確に表明する必要があるだろうということだった。この示唆はおそらく、ストア哲学において起こったことを解く手がかりとなる。というのは、そうした形態の共同体が消滅したとすると、諸徳と法の間のいかなる理解可能な関係も消滅するだろうからであり、まさにそうした消滅こそ、政治的生活の唯一の形態としての都市国家がまずマケドニア王国に、後にはローマ帝国に交替していったその事態に含まれていたのであった。そのようなときには、正真正銘の共有された共通善は存在しないだろう。そして善はもっぱら個人にとっての善となるだろう。そしていかなる私的な善の追求も、こうした環境においてはしばしばそして必然的に他者にとっての善と衝突しがちになるので、道徳法の要請と食い違いをきたすことになるだろう。それゆえ、もし私が法を固守するならば、私的な自己を抑圧することが必要となろう。法の目的は法を超えた何らかの善の達成ではありえない。というのは、いまやそうした善は存在しないように見えるからである。  そして、以上の論が正しいならば、ストア哲学は、一つの特殊なタイプの社会的・道徳的展開、すなわち近代のいくつかの様相を驚くべき仕方で先取りしているタイプの展開に対する応答であるといえる。」207頁下〜208頁上 ・カトリック社会の徳 「しばしばキリスト教と異教の諸要素は、様々な程度の妥協と緊張の中で共存していたが、それは、ホメロス的諸価値が前五世紀の都市国家の諸価値と共存していたのと同様である。」203頁下 「キリスト教は、性格の欠陥ないし悪徳という概念のみならず、神法に対する違反すなわち罪という概念をも要求する。個人の性格はいかなる所与の時においても徳と悪徳の混合物であるだろうし、そしてこれら徳と悪徳という性向は、一定の方向に動くべく意志を先取りするだろうが、しかしこれら徳と悪徳からの促しに同意するかしないかは、常に意志に委ねられているのである。」206頁上 「カトリック教徒にとっては更にどこが違ってくるかと言えば、それは、この世のどんな共同体に属していようとも、私は、自分もその中である役割をもっている、天上的な永遠の共同体――地上においては教会によって象徴される共同体――の成員としてもまたみなされるという点である。もちろん私は、これらの形態の共同体のいずれからも追放されたり、離脱したり、あるいは他の仕方で共同体内での自分の地位を失ったりすることがある。それは、私が追放者、よそ者、放浪者になりうるということだ。そして、これらもまた、古代・中世の共同体の中では認知されていた、人に割り当てられる社会的役割なのである。しかし私が人間にとっての善を求める必要があるのは、常に秩序ある共同体の一部としてであり、そしてこの意味の共同体においては、孤独な隠遁者や人里離れた山腹の羊飼いも、都市の住民たちと同様に共同体の成員なのである。」211頁上〜下 「諸徳の道徳と法の道徳との関係を理解しようとする過程で私が先に示唆したのは、その関係を理解可能なものにするために補われる必要のある文脈とは、共通善を達成するという皆が参加する事業によって構成された形態の共同体がもつ文脈である、ということであった。そうした共同体はこの事業のために、その善を達成するのに助けとなる一揃いの性格特性――諸徳――と、そうした形態の共同体にとって必要な諸関係を破る一揃いの行為――共同体のほうによって起訴されるべき諸々の犯罪――との両者を認知する必要がある。後者に対するふさわしい応答は刑罰であり、そして実際人間社会は、そのような行為に対して一般的には刑罰で応答してきたのである。しかし聖書の文化では、アリストテレスの文化とは対照的に、選択可能なもう一つの応答が有効なものになった。すなわち、赦し(forgiveness)という応答である。  [中略]赦しの実践は裁判の実践を前提とするが、両者の間には次の決定的な違いがある。すなわち、裁判はその特徴として、共同体全体を代表する非人称的な権威である裁判官によって執行されるが、これに対して赦しは被害者の側からのみ差し出すことができるのである。赦しにおいて発揮されている徳は愛である。」213頁上〜下 「愛がその目録に含まれたことで、〈人間にとっての善〉という概念は根源的な仕方で変えられたのである。というのは、その善が達成される場である共同体は、和解の共同体(commnity of reconciliation)でなければならないからである。」213頁下 「「諸徳についての特定の関係はどれも、人生のもつ物語的(諸)構造についての何らかの特定の観念に結びついている」と一般化しよう。中世盛期の枠組においては、物語の中心的類型は探究(quest)や旅(journey)の物語である。人間は本質的に途上に(in via)ある。彼が求めている目的とは、もし獲得されたならば、その時点までの彼の人生における間違いのすべてを贖うことができるような何かである。」214頁上 「アリストテレスの立場では、一方で善い人になり損ねていること(failure to be good)と他方で積極的な悪(positive evil)を区別することはきわめて困難である。[中略]悪のもつこの次元は、聖アウグスティヌスがアリストテレスのしなかった仕方で直面せざるをえなかったものであった。アウグスティヌスは、全ての悪を欠如として理解した点で新プラトン主義の伝統に従ったが、それでも人間本性のもつ悪を、意志が悪に与える同意の中に見ている。」214頁下〜215頁上 「アリストテレスが、人間の善そのものつまりエウダイモニア〔幸福〕を達成する可能性は外的な不運によって挫かれることがあると考える[中略]。〔これに対して〕中世的視野の中で重きをなすのは、〈そうした諸特徴があるからといって人間の善そのものから締め出されるような人は誰もいない〉との信念だけではなく、〈私たちさえ悪の共犯者にならなければ、起こりうるいかなる悪もまた、私たちを締め出すにはおよばない〉との信念でもあるのだ。」215頁下 「そこでこのような中世の見解では、諸徳とは人々に自分たちの歴史となる旅の途上で諸々の悪を生き抜く力を与えるような諸性質ということになる。」216頁上 ・徳・物語・歴史 「外的な善と呼んだものに特徴的なことは、それが達成されたときには常にある個人の財産、所有物になることである。さらに、その特徴的なあり方は、誰かがそれをより多く持てば、それだけ他の人々の持ち分が少なくなることである。[中略]内的な諸善とは、実際、卓越しようとする競争の結果であるが、その諸善に特徴的なことは、それらの達成がその実践に参加する共同体の全体にとっての善であるという点である。」234頁上 「諸徳は、外的な善と内的な善に対しては異なる関係に立っている。諸徳の所有――その見せかけや幻影だけというのではなく――は、後者を達成するのに必要であるが、しかし、諸徳を所有することで外的な善の達成を完全に妨げられることも十分ありうる。」240頁下 「功利主義というものが実践にとっての内的な善と外的な善との区別に適合しない」243頁下 「伝統が認知している徳の中には、人生の全体に言及するのでなければまったく特定できない少なくとも一つの徳――全一性[インテグリティ]あるいは志操堅固[コンスタンシイ]という徳――が存在する」248頁下 「〈理解可能な行為〉という概念は端的な〈行為〉という概念より根本的な概念だ」(256頁上) 「一つの行為とは、ある可能的あるいは現実的な歴史、または複数のそうした歴史の中での一契機(moment)なのである。〈歴史〉という観念は〈行為〉のそれと同じくらい根本的な観念であって、それぞれが他方を要請している。」262頁上 「ちょうど歴史が諸行為の連続ではなく、〈行為〉という概念は、ある目的のために歴史から抽象された、現実的ないし可能的歴史における〈契機〉(moment)という概念であるように、歴史の中の登場人物[キャラクターズ]たちも人格[パーソン]の集合ではなく、〔逆に〕〈人格〉という概念が、歴史から抽象された、〔もともとは〕〈登場人物〉という概念なのである。」266頁下 「人間の生の統一性は、物語的な探求(narrative quest)の統一性である。」268頁下 ◇倫理学の認識論的・存在論的前提(1) 道徳の主体・対象としての人間  功利主義者はパターナリズムを認める。すなわち、ある人の利益・幸福について、本人以上によく知ることが可能である、と考え、本人よりよくその人の幸福を実現できると考える。その上で、その人の幸福のためには、本人の意志に反してでもその人の生活に介入することもできる、と考える。  もちろん以上すべては「原理的には」であって、実際には多くの場合、ある人の利益・幸福について世界中で一番よく知っているのは当の本人であろうから、こうした介入は多くの場合望ましくはない、と功利主義者も認める。しかし例外ケースにおいてはその限りではない。そしてこうした例外ケースは(たとえば医療の現場において)実はそれほど例外的でもない。  権利論者はそうは考えない。権利論者にとっては、基本的に権利は幸福に優先する道徳的価値を有する。  さてこのような違いは、より深い世界観の上での違いに結びついているのか、いないのか?  唐突だが、ゾンビについて考えてみる。ここでいうゾンビとは、外側から、他者から見て見て全く通常の人間と区別が付かない――物理的に人間と全く同様の身体を備え、それが普通に動き、普通に人間と会話し、泣き、笑い、気持ちよがったり苦しんだりしてみせるし、肉体的な意味での内側ではそうした振る舞いにふさわしい血流や神経パルスの作動をみせる――のに、しかし実はその精神的な意味での内側、内面には何もない、というか内面自体がない。何も感じない、そもそも意識(魂)がない、そういう存在である。(デイヴィッド・チャーマーズ『意識する心』(白楊社)の用語法による。)  ゾンビなるものが本当に存在しているかどうかはさだかではない。しかしそのようなものが存在すると想定してみることには、何の問題もない――論理的に矛盾しないし、既知のいかなる自然法則とも衝突しない。しかしながら、私たちのほとんどは、ゾンビなるものがもしいるとしたらそれを不気味な怪物だと思うであろうし、ゾンビとゾンビならぬ本物の人間との間には、決定的な違いが実際にあると思うだろう。  さて、そのような違いがあると考えることとは、ゾンビには欠けている何者か――意識、ないし魂?――が多くの人間にはある、というかこの世界には意識という現象が現実に存在している、と考えることに他ならない。このような、意識というものについての存在論的コミットメントは、多くの人間がごく普通に行っていることである。デカルトの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」のもっとも素直な解釈は、ある人にとって、自分の意識こそ、もっともその存在について疑いの余地がない、「疑う」ということ自体までもがその存在を前提することなしには不可能な、そうした特別な対象である、ということだ。  しかしながら同時に、他人の意識こそは、この世のありとあらゆる事物の中でももっとも不可解な現象のひとつであることもたしかだ。われわれがゾンビについて想像をめぐらしてみることが可能であるとは、つまりそういうことである。もちろんわれわれは常日頃、普通に生きて動いてしゃべっている他人に意識があることを疑ってみたりはしない。しかしながらこの「他人の意識」は自分の意識とはまったく異なり、それそのものを直接に知覚することができない、具体的には他人の感じている痛みを想像することはできてもそれ自体を自分でも痛む――感じることはできない。他人の意識は他人の振る舞いから逆算してその存在を推定するしかない、そういう存在だ。  こういうゾンビについての懐疑はとりあえず人間同士の日常的な関係においては持ち出さないほうが吉だろうし、その必要もあるまい。しかしたとえば人工知能製作の現場においてはどうか? 非常によくできた自律型のロボットがあるとする。そいつは大体の局面で、外側からの人間の指令に頼ることなく、自分で情報を集め、状況について理解し、自分が行なうべきことを決めて実行することができる。さてこのロボットは「心」を持っているといえるだろうか? ある意味ではその答えは「イエス」だ。もし仮に「心」を、「それを備えていれば外側からの制御によらず自立して動くことができるような情報処理システム」とでも定義するならば。このような意味での「心」なら人間を含めたほとんどの動物は(そしてゾンビも!)持っている。しかしもし「心」を「意識」を備えた「魂」のようなものと考えたらどうか? 問題となっているのがロボットであれ、動物であれ、話はとたんに複雑になる。  功利主義とは、人間が道徳的な配慮の対象となる理由を能動的に行為する能力にではなく、感じ、楽しみ、苦しむ能力、受動的に経験する能力に求める。それは言い換えると、功利主義にとっては「意識」の存在こそが道徳的配慮の理由である、ということだ。それに対して義務論は道徳的配慮の理由を主体的行為者性に求める。それは言ってみれば、「ゾンビも持っているような心」である。  では義務論は「意識」を問題にしないのか? 実は話はそう単純でもなさそうだ。功利主義においては「意識」はある意味では重んじられていると言えるが、また別の意味では甘く見られているとも言える。つまり、功利主義的立場に徹して道徳的実践を行うからには、何に意識があり、何にないかを、その対象の振る舞いから類推するのではなしに客観的に判定しうる、という立場をとらねばならないように見える。逆に義務論は、意識の存在は行為から逆算して類推するしかない、という意識問題の困難さを一応真面目にとっているようだ。 ◇倫理学の認識論的・存在論的前提(2) あらためて倫理・道徳とは何か?  *道徳と法・政治の関係  素朴に考えると、法とか政治は道徳から分化して出てきたものであるかのように思われる。しかし本当にそうか?   このような分化のストーリーが正しかったとしても、疑問は差し挟みうる。  たとえば、法や政治と道徳が分化する以前の何物か、を「道徳」と呼ばねばならない理由は何か? なぜそれを「政治」と呼んではいけないのか? *倫理・道徳の「あて先」  これまでは要するに「倫理・道徳とは指図だ」というくくりの上で議論が展開されていた。「ではどのような性質の、いかなる機能を果たす指図であるのか?」という問いへの答えは出せなかったが、とにかく「指図」だ、と。そのなかには法律のような「否定的拘束(禁止)」もあるし、狭い意味での道徳(善行のすすめ)の典型である「積極的奨励」もある。また特定の結果の実現に向けた目的的なものもあれば、そうでないものもある。だが全体として道徳とは、広い意味での指図(ルール的なものもあれば、レシピ的なものもある)である、との理解の上にたって、10月の講義での話はなされていた。その辺については別に疑問に付されなかった。問われたのは「で、どういう指図なんだ?」であった。「どういう指図か」について結論は出なかったが、「倫理・道徳は指図ではない」という話にはならなかった(と思う)。  さて今度は、別の問題を立てたい。倫理・道徳は「指図だ」としよう。では、それは誰に宛てられた指図なのか? これが今回の主題である。  常識的には、倫理・道徳という指図の宛先は「人間」ないし「人間の集まりとしての社会」である。では「人間」とは何か? 人間の定義、世界の中にあるいろいろなものの中から「人間」と呼べるものをくくりだし、そうではないものをはじき出すには、いったいどうすればよいのか?  もし仮に「人間とは何か」を定義し、それにしたがって具体的に何が人間で何がそうではないかを区別するという仕事が、倫理・道徳の仕事(「人間」に「指図」する)の前にすでに別の何かによってなされているんだったら特に問題はない。しかしそうではなかったとしたら?   現代において「応用倫理(学)」という領域が急速に発展した理由の一つは、ここにある。 *ニーチェの真の(?)主題 フェティッシュとしての道徳 (補充予定)