進化論についてのノート(未定稿) 稲葉振一郎  まずはダニエル・デネット(1996a=2000、1996b=1997)の「心の進化論」、「生成と選択による進化階層」図式から出発することにしよう。 「まず最初に、ダーウィンの進化論にそって自然選択による種の進化が起こった。遺伝子の新しい組み合わせや突然変異というきわめて不規則な過程によって、さまざまな有機体の予備軍が膨大に発生した。有機体は現場でフィールド・テストを受け、もっとも優れた設計をもつものだけが生き残った。これがこの階層の第一層である。そこに属するものをダーウィン型生物Darwinian creatureと呼ぶことにしよう。」デネット1996a=1997、148-9頁  これは非常に簡潔なダーウィン進化論の要約として読むことができるが、あらずもがなの注意をしておこう。「有機体は現場でフィールド・テストを受け、もっとも優れた設計をもつものだけが生き残った。」という比喩の意義と限界の確認である。まずこの「フィールド・テスト」には試験官はいない。「もっとも優れた設計をもつもの」を評価し選抜する主体は存在しないし、「もっとも優れた設計をもつもの」を「もっとも優れた」と評価する規準もまた存在しない。すなわち、有機体がそこに放り出されて生き抜くか滅びるかするところの「フィールド」それ自体から区別されたものとしての規準は存在しない。敢えて言えばこの「フィールド」それ自体が評価の規準であり、試験官でもある。  逆に言えば、我々が何らかの対象に対して行う選抜テストにおいて、テストのフィールドと、テストの成績評価規準と、評価を行う試験官がそれぞれに区別されうる別個の存在である、ということは、我々が単なるダーウィン的生物ではなく、もっと複雑な何かである、ということを意味している。  本論に戻れば、この「フィールド・テスト」での成績評価の規準は、「フィールド」のなかで事後的に生き残るか否か、であり、生き残りへの試練を与える試験官もまた「フィールド」に他ならない。我々が普通に考えるテストにおいては、評価の基準は事前的に定められているが、このダーウィン的「フィールド・テスト」にはそのような事前的な規準は存在しない。同様に、そのような事前的な規準に合わせて生き残る者とそうでない者をふるい分ける特定の何かも存在しない。「評価の規準」「試験官」という「原因」が「もっとも優れた設計をもつもの」の「生き残り」という「結果」を生み出すわけではない。  続けてデネットは進化の第二階層へと話を進める。 「この過程は何百万回もくりかえされ、設計のすぐれた動植物が数多く生まれた。そして、ついに新しい生物のなかから表現型可塑性という性質を持つものが登場した。表現型可塑性とは、個々の生体の設計は誕生時にすべて決められているのではなく、フィールド・テスト中に起こる出来事によって調整される側面があるという性質だ。これらの生物の一部には、表現型が組み込まれた、いとこ関係にあるダーウィン型生物にくらべると、生き残れなかったものもたくさんあったようだ。というのも、それらはせっかく備わっている行動のオプションを選択できなかったからである。しかし、その他のものは幸運にも賢明な行動を偶然に好む「強化因子」を持っており、選択肢のなかから有利な行動を選ぶことができたと考えられる。これらの生物はさまざまな行動を生み出しては一つずつテストして環境に立ち向かい、ようやく役に立つものを見つけた。そして、その行動は環境からプラスまたはマイナスの信号を得たときにだけ役立ち、くりかえすかくりかえさないかは環境によって決まることを選んだ。(中略)このダーウィン型生物の一部は、スキナー型生物Skinnerian creatureと呼ぶことができる。」同上書149-151頁  行動主義心理学のB・F・スキナーからその名を取ったスキナー型生物とは、要するに試行錯誤型学習、スキナーの言うオペラント条件付けによる学習を行う生物であると理解すればよいだろう。狭い意味での、もっともシンプルなダーウィン型生物の個体は、遺伝子によってその形も振る舞いもほぼ一義的に決定されているが、スキナー型生物の個体は状況に応じて多様な形ないし振る舞いをとりうる、ということである。決まり切った行動ではなく多様な行動の選択肢を持ち合わせている、ということである。  しかしここでのポイントはむしろ「強化因子」の存在である。「強化因子」とは具体的には快楽・苦痛の感覚であり、それゆえこのような生物に対しては心理学的・経済学的な効用関数を定義することができる。デネットが示唆しているように、「表現型可塑性」だけあって「強化因子」のない生き物(「前スキナー型生物pre-Skinnerian creature」?)は、「表現型可塑性」の「フィールド」への適応・生存上の潜在的なメリットを十分に活用できない。  ある意味でこの「強化因子」のシステムは、いわば生物個体のレベルでの内部環境、個体である生体に内面化された「フィールド」である。我々が現実に知っているスキナー型生物には神経システムがそなわっていて、行動を制御する多様な情報(デネットの言う「設計」)がそこにストックされている。もっとも単純なダーウィン型生物の「フィールド・テスト」が個体群=繁殖集団を単位としており、個体の生存、生き延びた個体による繁殖、という形を取るのに対して、スキナー型生物個体の神経系という内部フィールドにおいては、テストは状況に対応した適切な行動が快楽を(不適切な行動が苦痛を)呼び起こし、この快楽(と苦痛)によって特定の状況と特定の行動の組み合わせパターンが学習される、つまり心理学でいう「強化」を通じた学習のプロセスとして実現される。  しかしデネットが先の引用箇所で「信号」を送ってくる主体を「強化因子」でも「神経システム」でもなく、つまり生体ではなく、外部の「環境」として記述していること、そして後に見るように、「内部環境」という用語をスキナー型生物より高次の階層に位置する生き物に対してはじめて用いることにもそれなりの理由がある。この「強化因子」の発動自体は、あくまでも、その生体の生存と繁殖にとって有意味な変化をもたらし得るような「現実の」状況−行動の組み合わせによって引き起こされねばならない。その意味でこの「強化因子」は外部環境、現実の「フィールド」の審判を事後的に伝えるインターフェースに過ぎず、未だ十分に「フィールド」から区別された「評価規準」「試験官」とはなりえていない、というわけである。  しかしここでスキナー型生物は、単純なダーウィン型生物にはなかった「主体性」を獲得した、と言えるであろう。強化因子はスキナー型生物をして、快楽を、それをもたらす行動と状況の組み合わせを求め、苦痛を、それをもたらす行動と状況の組み合わせを回避するよう導く。その導く方向は、おおむねそうした生物を「乗り物」とする遺伝子の生存、増幅に間接的、結果的には役に立つだろう。しかし場合によってはそうはならないかもしれない。いずれにせよスキナー型生物個体が直接に目指すのは快楽であって、遺伝子の増幅ではない。  さてデネットの第三階層は以下の通りである。 「スキナーのオペラント的条件付けはよい方法だが、はじめの頃に自分の誤りが原因で生命を落としてしまう可能性がある。しかし、さらにすぐれたシステムでは、予想される行動や活動がすべて「事前選択」され、愚かな行動は「実生活」のなかで危険にさらされる前に排除される。(中略)これら進化の階層の第三層に属する生物をポパー型生物Popperian creatureと呼ぶことができる。かつて哲学者カール・ポパー卿が科学的見地から緻密かつ簡潔に表現したように、この設計改良のおかげで「仮説がかわりに死んでくれる」からである。スキナー型生物の多くが生き残るのは、たんに最初の行動が幸運だからにすぎないが、ポパー型生物の場合は、最初の行動を偶然に頼ることなく、よりすぐれたものにする賢さがあるから生き残るのである。もちろん、賢く生まれたのも偶然であるが、たんに運がいいよりましである。」同上書155-156頁 「ポパー型生物の事前選択は、どのように行なわれるのだろうか。一種の内部環境をつくりあげるフィルターが存在し、その環境のなかで安全にテストができるに違いない」同上書156頁 「ポパー型生物に共通する要素は、いずれにしても(遺伝によっても学習によっても)ポパー型生物が遭遇する世界について正確な情報を貯えていること、そしてその情報が事前選択の効果を発揮できる形をとっているということである。それができなければ、情報の存在理由はなくなってしまう。」同上書158頁  この第三階層、ポパー型生物の水準までくれば、それを「意識」を持った生物と呼ぶことにほとんど議論の余地はないだろう。デネットはここでようやく「内部環境」という表現を用いる。ポイントは事後的な学習を通じた強化と事前的な予想形成(原始的な思考)、シミュレーションの違いである。  ここであらためてスキナー型生物とポパー型の生物との相違について確認しておこう。  まず、前述の通り、スキナー型生物の「強化」を通じたオペラント条件付け学習のメカニズムは、ダーウィン的進化のメカニズムと同型(というより、ドーキンス=デネット的な普遍的ダーウィニズムの観点からすればまさにその一例)である。(狭義の)ダーウィン型生物の世界において、生体の設計についての情報を担う媒体である遺伝子は、個体群(その中で繁殖行動を通じて遺伝子を交換し合う生体のグループ)のなかを漂っている。さまざまな遺伝子たちのうちどれが生き延びるか=それを担う個体が生き延び、繁殖してその遺伝子をより多く後世に伝えるか、はその個体群が直面する環境のなかで事後的に決まる。これに対してスキナー型生物の個体において、その行動を決める情報を担う、神経シナプス結合のパターンは、神経システム上に保持されている。どのパターンが強化されて神経システム上に保持され続け、個体の行動を後々まで決めていくか、はその個体が直面する環境のなかで何によって快楽を、何によって苦痛を被るか、によって事後的に決まっていく。  これに対してポパー型生物の場合は事前選択が行える、といって終わりにしてしまってもよいのだが、ここで今少し厳密に「事前」「事後」といった言葉遣いをただしておくことにしよう。  ダーウィン的進化のメカニズムを「自然選択」という言葉で語ったとして、その場合「選択」という行為(「フィールド・テスト」)の主体(「試験官」)は「自然」ということになるが、既に述べたようにそのような実体は存在しない。自然選択された=「フィールド・テスト」に合格した=生き延びた個体(というよりそれを設計した遺伝子)は、「フィールド・テスト」に先立って=事前的に選ばれて、生き延びることが決まったわけではない。またここでドーキンス流に「利己的な遺伝子」という言葉を持ち出したとしても、遺伝子に「自己」=「フィールド・テスト」に先立って存在し、それを切り抜けようとする志向があるわけではない。  スキナー的学習においては、すぐれた、適切な行動(を命じるシナプス結合パターン)もやはり「フィールド・テスト」=実地の学習のプロセスを通じて強化され、残っていくのであり、そうした事後的な学習に先立ってどの行動パターンがすぐれているか評価して成績をつけ、選抜する「試験官」は存在しない。  ところがポパー型生物の場合には、「フィールド・テスト」に先立って内部環境における「予行演習」がなされうる。この「予行演習」、シミュレーションの意義を確認するために、新たな用語法を導入しよう。先に「ある意味でスキナー型生物には内部環境が備わっている」と述べたが、そのような意味での「内部環境」と、デネットの言う意味での、ポパー型生物の水準ではじめて成立する、シミュレータとしての「内部環境」を区別しよう。仮に前者を「インターフェース」、後者を「シミュレータ」と呼ぶ。  インターフェースを通じた行動の制御は「フィールド・テスト」に先立たず、先行する行動の修正という形においてのみなされるという意味で事後的であるのに対して、シミュレータを媒介とした行動の制御は「フィールド・テスト」を先立って、というよりスキップして、最初の行動の時点からはたらきうるという意味において事前的である。それゆえシミュレータはさまざまな行動の選択肢に対する事前の「評価の規準」を適用する「試験官」の位置に立つと言える。つまり、スキナー型生物はせいぜい経験の主体にとどまるのに対して、ポパー型生物は行為の主体である、と言える。  しかし、少なくとももっとも単純なポパー型生物の場合についていえば、このシミュレータ自体に対して更なる「試験官」の役割を果たすシステムは存在しないはずである。よって、シミュレータ自体の作動メカニズムは、少なくともここではダーウィン的な進化のそれか、あるいはそれよりも単純な何らかの物理的メカニズムになる他はない。  第四階層はデネットの序列では最後の、そしてもっとも複雑な段階である。 「ポパー型生物の後継者のなかには、内部環境が、先に構築された外部環境の一部から情報を得ている生物がある。(中略)ダーウィン型生物の一部の部分のさらに一部であるこの種類の生物を、イギリスの心理学者リチャード・グレゴリーが、生物が高度な動き(正確に言うと、グレゴリーの用語では「動的な知性」)をつくりだすときの情報(同じく「潜在的知性」)の役割に関して傑出した理論を打ち出したことに依拠して、グレゴリー型生物Gregorian creatureと呼ぶ。」同上書172頁  ここでデネットが言う「先に構築された外部環境」とは生体の行動によって変形加工された外界の一部であり、更に具体化して言えば「道具」のことである。 「道具の使用は二つの意味で知性のしるしと考えられる。(道具の製作はいうにおよばず)道具を道具として認識し、保持するには、知性が必要である。そして、道具は幸運にもそれを手に入れたものに知性を与えるのである。グレゴリーは、すぐれた道具のひとつに彼の言う「心の道具」があると指摘した。すなわち言葉である。」同上書173頁 「グレゴリー型生物が人間なみの知的能力に大きく一歩近づいたのは、他者の経験のおかげである。他者が考案し、改良し、変形させた心の道具を使って、知恵を具体化したのである。そして、次に考えるべきことについて、よりよい考え方を学び、さらに、より深く、限界のない内省力を生み出した。」同上書175-176頁  この第四階層、グレゴリー型生物の典型が人間であり、そしてそうした存在としての人間の行動と、ここで言う「心の道具」、広い意味での文化、コミュニケーションとそれによってブーストされた学習の領域こそが社会科学の固有の対象である、というところで話をドーキンスの言うミームmeme、文化の世界における遺伝子の機能的等価物に移してもよいのだが、しかしそれでは芸がない。  この階層図式では、第四階層のところで一種の反転が生じている。すなわち、第二、第三階層までは生物の心の進化、複雑化は生体の個体レベルに閉じた情報処理能力の向上として理解されていたのに対して、第四階層においては再び個体レベルを超え、個体群(社会?)レベルでの情報処理能力が焦点となっている。第一階層での主役は遺伝子であり、第二、第三階層では神経システム内の情報である。そして第四階層では主として言葉によって担われるミームだ。  この「反転」の意味について考えるために、今度はリチャード・ドーキンスの「延長された表現型」論(ドーキンス1976/1989=1991、1982=1987)を検討の俎上にのせてみよう。  ドーキンスのいわゆる「利己的遺伝子」理論の面白みは、それが伝統的な「種」概念のみならず「個体」概念をも一気に相対化(「種」の場合には事実上解体)してしまうところにある。 「遺伝子が物理的にどの生物の体内に位置するかは問題ではない。その操作の標的は同じ体かもしれないし、別の体かもしれない。自然淘汰は自らの増殖を確実にするように世界を操作する遺伝子を選ぶ。これこそが、私の「延長された表現型の中心定理」と呼ぶものにつながる。すなわち、動物の行動は、それらの遺伝子がその行動をおこなっている当の動物の体の内部にたまたまあってもなくても、その行動の「ための」遺伝子の生存を最大にする傾向を持つ。私は動物の行動という文脈で書いているが、しかしもちろんこの定理は、色、大きさ、形状、そのほかなんにでも応用できる。」ドーキンス1976/1989=1991、405-6頁  この立場からすれば、異種の生物AとBの共生関係において、Bのさまざまな形質は、それが共生関係に寄与する限りにおいて、Aの遺伝子の表現型でもある、ということになる。これは一種異様な立論に見えるが、そもそも多細胞生物の「個体」自体が互いにクローン関係にある細胞たちの共生体であること、更に言えば多細胞生物に限らず生物個体は多数の遺伝子たちの寄り合い所帯の共同の「乗り物」であるとさえ言えることを考えれば、非常に理にかなったものである。  しかし更に言えば、こうしたドーキンスの言う「遺伝子の長い腕」は普通の意味での無生物にもおよぶ。「延長された表現型」のなかには、ドーキンスの持ち出した例で言えば、トビケラの巣やビーバーのダムも含まれるのである。道具の定義のしかたにもよるが、「動物の行動において動員される、その動物個体の身体の一部ではない無生物」を道具と呼ぶならば、道具を用いる動物は人間だけではない。そしてそのような道具を用いる能力は、多く遺伝によるものもあればむしろ学習による場合もある。前者のケースでは、道具は間違いなく「延長された表現型」である。  もうひとつ補助線を引いてみよう。家畜化された動物、栽培化された植物と人間は共生関係にあると言えるだろうか? 「家畜化・栽培化domesticationの行動を直接に規定する遺伝子は存在せず、それらは基本的に文化の所産である。だからこれは厳密に生物学的な意味では共生と呼ぶべきではない。」普通はそう答えられるであろう。しかし家畜化・栽培化行動を指示する遺伝子は人間のなかには存在しないかもしれないが、当の家畜・栽培植物の場合はどうか? それらの生体のなかには、家畜化・栽培化された状況に適合的な形質をデザインした遺伝子が存在するではないか!   もちろん、そのような遺伝形質を選択したのは人間である。人間にとって都合のいい性質を備えた変種が、人間の手によって生存させられ、繁殖させられたのである。このような品種改良、「人為選択」の対語としてダーウィン的な「自然選択」の概念を理解することができる。「人為選択」の過程においては人間という「評価の規準」「試験官」が比喩でなしに存在している。たとえ遺伝子によって制御されていたとしても、そのような遺伝子が選択され生き延びてきた理由をこのような人間の意図的な介入に帰することができるとすれば、やはりこれを「共生」と呼ぶべきではないのではないか? との疑問がなお可能かもしれない。  しかしそのような疑問には無理があるようにみえる。ここで人間ではなく、家畜・栽培植物(の遺伝子)の観点から物事を見るならば、どのように見えるであろうか? (「利己的な遺伝子」論の要諦はこのような視点の取り方にある。もちろんこれは限定されたアナロジーである。)動植物の側からすれば、自分たちを選び出すのが人間だろうが他の生き物だろうが、あるいは特定の主体には帰することのできないようなプロセスであろうが、選ぶところはない。だとすれば家畜化・栽培化を特殊なタイプの共生と見なしてはいけない理由はなくなるだろう。  とはいえ先の疑問の要諦はもちろん、因果関係にある。通常の自然な共生であれば、それを意図的に作り上げた主体は存在しないのだから、共生関係にあるどちらの生物についても「一方の遺伝子が他方の形態・行動を制御している」と言いうるだろう。しかし農耕牧畜においては、プロセスを意図的に駆動している人間の方のみを「原因」と見なすべきであり、家畜・栽培植物の遺伝子が「原因」として人間の行動を制御しているとは言いえない、と。しかし、本当にそうだろうか? 現実の農業者の行動を見るならば、人間たる農業者は一方的に自分にとって都合のいい家畜・作物を選択してそれをコントロールしているのではなく、自分の扱う家畜・作物の性質によってその行動や生活は大いに制約されてもいるだろう。つまり農耕牧畜という生業様式それ自体が、家畜・栽培植物の「延長された表現型」である、と言っていけない理由はない。ここでもなお関係は相互的である。  しかしもちろん他方で、これら家畜化された動物・栽培化された植物はまぎれもなく文化の所産であり、その意味でミームの「乗り物」でもあるのだ。  ジェーン・ジェイコブズは『経済の本質The Nature of Economies』(2000=2001)のなかで、人間の経済と生物社会、生態系は比喩的にではなく厳密に同一の原理によって動いている、と主張する。その原理は要するに進化の論理(ドーキンスやデネットのそれとは若干ニュアンスが違うが、一種の普遍的ダーウィニズムと呼びうる)であるが、これが単なるアナロジーとか論理的同型性にとどまらず実質的同一性であるとする彼女の議論は、このような家畜化・栽培化を軸にして解釈するとわかりやすい。これによって彼女が語る技術・技能・知識の進化プロセスを、単に生物界の遺伝子的進化のプロセスと論理的に同型というだけではなく、実質的に連続したものとして理解することができる。(このような過程は一部の進化生物学者によって「共進化co-evolution」と呼ばれる。)  ここで新しい用語法を導入しよう。進化生物学ではある形質を発現させる遺伝子パターンを指す「遺伝子型genotype」と、それによって発現する形質=生体の形や行動パターンを指す「表現型phenotype」なる概念対があるが、この「表現型」をあらためて「遺伝子表現型geno-phenotype」と呼び替えることにする。そして文化レベルでのこの概念対の対応物を導入する。すなわち「ミーム型memotype」と「ミーム表現型memo-phenotype」である。(memotypeなる表現はグラント1990でも用いられている。なおグラントの用語法ではここでの"memo-phenotype"に当たる言葉は"sociotype"である。)  遺伝子表現型もミーム表現型も、どちらも生物でも無生物でもありうる。またそのどちらについても「延長された表現型」を語ることができる。  だたし、この場合ミーム表現型が「延長されている・いない」とはどういうことなのか、について一応の話を詰めておかねばならない。遺伝子表現型の場合には「延長された」とは「その行動・形態・等々「のための」遺伝子が、その当の行動をなす・その当の形態を備える・等々の生物個体の内部にない」ということであり、逆に「延長されていない(通常の)」場合には「問題の遺伝子がその生物個体の内部にある」。ではミームにとって遺伝子にとっての「乗り物」、生物個体に対応するものは明確に存在するのか?   更にそれに先立って、ミームとはそもそも何なのか、について今少し詰めておかねばならない。論者によってはミームは模倣、コミュニケーションによって伝播する情報そのものと定義されているが、これではミームが遺伝子の正確な対応概念になっているとは言い難い。ドーキンスはG・C・ウィリアムズを援用して遺伝子を「自然淘汰の単位として役立つための長い世代に渡って続きうる染色体の一部」と定義しているが、この定義の精神に従うならば、遺伝子とは情報を担う物質であって情報そのものではない。情報、生体にある行動をとらせたり、ある性質を持たせたりする情報の概念は、遺伝子を考える際にもミームについて考える際にも、更には非ミーム的な個体単位での心的過程(スキナー型、ポパー型生物がおこなうような)を考える際にも用いられねばならない。情報はミームについても遺伝子についてもその上位概念として扱われるべきなのだ。情報そのものをミームと考えるべきではない。  遺伝情報の担い手は遺伝子という物質であり、スキナー的・ポパー的心における情報の担い手はシナプス結合のパターンである。とすれば、文化情報の担い手(=ミーム)は具体的には何か? あまりも多種多様である、としか言いようがないが、とりあえずデネットは言語をとりわけ重視する。  しかしここで本当に重要なことは「活性自己複製子」と「非活性自己複製子」の区別をすることである。(この用語法はデイヴィッド・ドイッチュ(1997=1999)に負うているが、必ずしもその忠実な再現ではない。)我々が知る生物における遺伝子、また神経システムにおけるシナプス結合は活性自己複製子である。大部分の動物の、そして人間の日常的な、身体的接触と口頭での会話を通じたコミュニケーションにおいて取り交わされるもろもろのサインもまた、活性自己複製子である。それらは生物個体が現に生きて活動し行動していることによって存在を保っている。しかしミーム的進化、文化進化の本当に重要な特徴とは、そこでは非活性自己複製子が重要な役割を演じうる、ということである。この場合分水嶺はミームか否か、である以上に、活性か非活性か、である。わかりやすく言えば、言語における話し言葉と書き言葉の相違、芸術表現における一回性の強いパフォーマンスと、永続性の強い造形作品との相違である。  活性自己複製子たる遺伝子は、基本的には、生きている個体の生殖行動を通じてのみ個体から個体へと移動する。同様に活性自己複製子である神経のシナプス結合は、やはり生きて作動している個体の神経システムの上でのみ保持され、反復されうる。活性自己複製子である身振り手振りや話し言葉は、実際の行動として個体から個体へと情報を伝達する。しかし絵や文字を用いる人間は、実際の行動としてのサインのみならず、行動の痕跡である物化されたサイン(文字や造形芸術)をも媒介として、他の個体へと情報を伝達する。(ミームについてのもっともまとまった著作であるスーザン・ブラックモア(1999=2000)における「指示のコピー」と「産物のコピー」の区別をも参照のこと。)こうした物化された記号が「非活性自己複製子」の典型例である。  遺伝子やシナプス結合においては「活性−非活性」の区別はほとんど意味をなさない。そもそもダーウィン的進化やスキナー的学習、ポパー的推論の過程のなかには、非活性自己複製子を見いだすこと自体きわめて困難である。(ダーウィン的進化においてはウィルスが比較的それに近いか? あるいは地質学的時間を生き延びて発芽する種子?)しかしミームにおいては「活性ミーム」と「非活性ミーム」の区別がきわめて重要となる。現在我々が知る非活性自己複製子のほとんどは非活性ミームである。  物化=パッケージ化された文字(あるいは画像)情報であれば非活性ミームかと言えば必ずしもそうではない。たとえば活動中の団体の成文規則などは、それが空文化されず実効的な規範として拘束力を持っている限りにおいてのみ、活性ミームであろう。これに対して明文化されない慣行、「生ける法」はもっぱら活性ミームとしてのみ存在している。むしろ「非活性化しうるミーム」と「非活性化しえないミーム」の区別について語るべきなのかもしれない。  ミームはしかし、別の角度から見れば、スキナー的・ポパー的自己複製子(=脳神経システムを走る情報伝達ユニット)よりもダーウィン的自己複製子=遺伝子の方により似通っているとも言える。すなわち、どちらも生物個体の体内から離れて、ある個体から別の個体へと移動し伝達される。  ここで改めて「乗り物vehicle」という言葉遣いに注意を喚起しておきたい。「乗り物」の比喩(というより科学的概念だが)は「そこに乗る・そこから降りる」と言いうる場合にこそ真価を発揮する。降りられない乗り物は既に乗り物ではない。こう考えるならば、たとえばミトコンドリアにとって細胞は「乗り物」ではない。ミトコンドリアは既に真核細胞の不可分の一部である。では遺伝子にとって生体は「乗り物」と言えるか? 有性生殖を行う生物においては、遺伝子は生殖を通じて生体外に出ていく以上、そこでの遺伝子と生物個体との関係に「乗り物」の概念を適用してよいことになろう。そして言うまでもなくミームと個体との関係についても同じことが当てはまる。ミームは「乗り物」から降りられるのだ。ただしミームは非活性化することによって、遺伝子よりもはるかに長い時間と空間を移動することができる。  この点について少し考えてみよう。活性ミームとは具体的な行動や生体活動によってしか存在しえないものであるから、活性ミームの担い手、「乗り物」はおおむね生物個体――人間やその他後天的に学習した情報をコミュニケーションによって伝達し合う動物である、ということになる。せいぜい広がってコミュニケーションの文脈を共有する個体の集団、までだろう。(遺伝子の「乗り物」が個体からせいぜい血縁関係にある個体グループまでであるのに対応して。)この場合「延長されていないミーム表現型」とはコミュニケーションによって学習されたそれらの生体の行動ということになる。  これに対して「延長されたミーム表現型」は生物である家畜・栽培植物と、無生物である広い意味での道具、人工物である。ところが道具のなかには、生物学的な生殖器官・細胞に対応するがごとく、あるいは発話という行為のように、その機能をひたすらコミュニケーションに特化させた特異なタイプのものがある。すなわち、広い意味での文字であり、それに付随してできあがった書記のためのさまざまな道具である。あるいはこれらを「コミュニケーション・メディア」と呼んでもよかろう。そして非活性ミームとはつまり文字言語、エクリチュール、メディアに刻み込まれた有意味な記号の連鎖のことである、と言ってよい。ミームはこのような形で、具体的な生体から切り離されても、その情報を失わずにある程度保存することができ、時間と空間において隔たったところにいる他者にもその情報を伝達することができる。  更に少し視点を変えてみれば、実はおよそ道具、人工物一般は多少なりとも上の意味でのコミュニケーション・メディア的な性質を備えている。すなわち、我々は未知の機械を試運転したり分解したりしてその機能や設計思想、作動原理を推測することができる。メディアではない道具、機械からもそこに(設計建造者の意図するしないにかかわらず)込められた思想、意味、文脈を読みとることができる。デネットの言葉を借りれば、これは「人工物解釈学artifact hermeneuticsあるいはリバース・エンジニアリング」と形容できる。ビーバーのダムやトビケラの巣と人工物との違いは、それに「リバース・エンジニアリング」を適用してもとの自己複製子を再生しうるかどうか、にある。この違いは実は「延長」されていようがいまいが「遺伝子表現型」と「ミーム表現型」とを全般的に分かつものであるが、ことに無生物である「延長された表現型」の場合にこそ際立つ。人工物、あるいは直接的にはコミュニケーションのためではない行為までもが、適切な解釈によってミームの担い手として機能しうる。  遺跡、遺構から過去の未知の技術を復元することはある程度可能である。化石や死体から過去の生物についての情報を得ることはもちろん可能であり、その保存状況や今後の生命科学の発展次第ではその過去の生物を再生することも可能となるかもしれない。しかし、死体とセックスして繁殖することはできない。またビーバーやトビケラは、他の個体の巣作りを参考にして(=学習して)巣作りのやり方を変えることはないだろう。  簡単に図式化してみる。   自己複製子    「乗り物」         延長された表現型                         生物      無生物    遺伝子   生物個体(血縁集団)    共生生物    原始的道具    ミーム    人間個体(集団)    家畜・栽培植物  道具・機械  さてここで、デネットの第四階層、グレゴリー型生物の概念に立ち戻ろう。我々が知る典型的なグレゴリー型生物は言うまでもなく人間である。さてこのグレゴリー型生物は遺伝子の「乗り物」であると同時に、第二の体外自己複製子、ミームの「乗り物」でもある。  しかし同時に言うまでもなく、これらのグレゴリー型生物は同時にスキナー型・ポパー型の生物でもある。スキナー型生物は表現型可塑性を備えている、つまりその形態と特に行動のレベルにおいて大幅な自由度をもっている。そして同時に「強化因子」、つまり自分自身の快苦の規準、「試験官」を備えている。更にポパー型までくれば、原始的な意識を備えた存在といってよい。すなわち、これらの生き物は遺伝子の「乗り物」として進化してきたが、その中で、おおむね遺伝子の自己複製・生存に貢献しはするが、場合によってはそれと乖離しうる……遺伝子の生存(=繁殖)を犠牲にしてでも、個体の快楽や生存を志向して生きることもありうる「主体性」を作り上げてきた。  このような事情はグレゴリー型生物個体とミームとの関係についても当てはまる。グレゴリー型生物の主体性、人格personはまさしくミームによってつくられたミームの「乗り物」(ブラックモアの言う「ミーム複合体meme complex」)であり、そのようなものとしてミームの自己複製におおむね貢献しうるが、そこに乖離や葛藤の余地がないわけではない。グレゴリー型生物の個体は遺伝子についてと同様、ミームの保存・複製・普及を犠牲にしてでも、自分自身の快楽・利益のために生きることができる。(この点につきドーキンスやデネットはかなり正しく把握しているが、「自由意志」の存在を否定するブラックモアは勇み足を犯している。)  ドーキンスの描く歴史像によれば、自己複製子としての遺伝子の存在はその「乗り物」としての複雑な生物体のそれに先行する。遺伝子のダーウィン的な進化プロセスが、生物を生み出したのであって、逆ではない。(これが事実に即して本当に正しいかどうかについては、ここでは判断を保留する。)これに対して、ミームとその「乗り物」の順序関係は複雑である。ミームの進化プロセスは、少なくともかつての遺伝子が生物体を生み出したようにしてミーム複合体としての人格、人間の心を生み出したのではないのかもしれない。  むしろこう考えるべきである。すなわち、言語、そしてミームの成立以前にすでに心というものは存在しており、ミームはむしろこれら心ある生物(スキナー型・ポパー型生物)たちの進化の所産である。そしてミームは自らの専用の「乗り物」を一から新しく作るのではなく、既存のこれらの生物の心システムを「乗り物」として援用しそれを改造していった。こうしたプロセス(共進化)の結果できあがったのがグレゴリー型生物である、と。たとえば神経人類学者テレンス・ディーコン(1997=1999)が描く言語、文化とヒトの生体、とりわけ脳の共進化のシナリオは、このようなものである。大きくて複雑な脳が言語を可能にした、というよりも、言語の成立が大きくて複雑な脳の進化を促した、というのである。 (あるいは、そもそも遺伝子と生物個体との関係自体、そのようなものだった可能性も絶無ではなかろう。すなわち、生物個体の存在が先行し、その後に遺伝子のシステムができあがった、という。)  ミームの出現以前には存在しなかったと言う意味でミーム専用、ミーム御用達の「乗り物」としてはむしろ我々は当面「団体」を考えるべきであろう。この「団体」の存在の意味については、後論する。  まとめるならば、ミームが心を作ったのではない。ミームはヒトに心ができた後からやってきて、心に寄生するようになり、ヒトの心を、更に脳を、ヒトの生体全体を作り変えていったのだ。ではどこからやってきたのか? おそらくは、「延長された表現型」としての道具、人工物からだ。言うなればミームは、リバース・エンジニアリングによってこの世に出現したのである。 文献 スーザン・ブラックモア(1999=2000)『ミーム・マシーンとしての私』草思社 ドーキンス(1976/1989=1991)『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店      (1982=1987)『延長された表現型』紀伊国屋書店 テレンス・ディーコン(1997=1999)『ヒトはいかにして人となったか』新曜社 ダニエル・デネット(1996a=2000)『ダーウィンの危険な思想』青土社          (1996b=1997)『心はどこにあるのか』草思社 デイヴィッド・ドイッチュ(1997=1999)『世界の究極理論は存在するか』朝日新聞社 ジェーン・ジェイコブズ(2000=2001)『経済の本質』日本経済新聞社 (2004年6月)