リベラリズムとコミュニタリアニズム(未定稿) 稲葉振一郎 1  「比較不能incomensurableな価値の迷路」とは長谷部恭男の論文集(東京大学出版会)のタイトルであり、新著『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)と併せて著者なりのリベラル・デモクラシー論、近代立憲主義論となっているわけですが、そこにおける現状認識はまさに「我々の生きる社会は「比較不能incomensurableな価値の迷路」である」というもので、それに対する著者の主張は「自由民主主義、近代的立憲主義とは、そのような状況下における、比較不能な価値を背負った者同士の共存の技法である」という訳です。  個人レベルで人々が自らの生において追求する価値は、現代社会においてはあまりも多種多様であり、互いに比較不能です。それゆえ人々を共存させる公共社会の基本枠組は、具体的に人の生を導く実質的な価値(善)ではありえない。複数ある価値(善)のうちでどの価値がもっとも優先されるべきか、についての万人の合意はほとんど得られそうにない。現代の公共社会の基本枠組はもっと抽象的で形式的な「正義」であるしかない。それは生き方を導く具体的、かつ積極的な価値ではなく、そうした価値の追求にあたって人々が服さなければならない、どちらかといえば消極的な制約である。仮にそれにいくぶんかの積極性を認めることができたとしても、それはいわばミニマルな、ほとんど万人が最低限合意できるレベルの価値であり、具体的な生を送るにあたっては、人々はそれを目指すだけでは到底満たされない。しかし我々は、人々の具体的な生のレベルでの充実、価値ある人生の実現という課題を公共的目標とすることは断念し、個人の私生活に委ねなければならない。  近代的立憲主義、リベラル・デモクラシーに対する有力な批判として著者が想定しているのは古典古代的、あるいは近世的共和主義、リパブリカニズムであり、そしておそらくは現代のコミュニタリアニズム、共同体主義でありましょう。彼らの批判によれば、個人の生の充実、生きる価値の実現は、実は私的にはなされえず、他人とのつながりの中で、公共社会という舞台においてこそよくなされうる、というわけです。  長谷部はハンナ・アーレントを俎上にのせ「そんなことは近代社会の条件のもとでは不可能な見果てぬ夢だ」と切って捨てます。しかしアーレント、そしてコミュニタリアンたちの本意も、そこにはないのかもしれない。「「個人の生の充実の舞台としての公共空間」なる理想は、もはやまったく実現可能性のない夢想である」というのはおそらく本当であり、そしてアーレントもコミュニタリアンたちもそれを事実判断としては認めるのではないでしょうか。しかし彼らはもちろん、長谷部のようなリベラルが提言するであろう「個人の生の充実は私生活の課題である」なるテーゼも拒否するでしょう。そしてその理由は単なる「べき」論や好き嫌いの問題を超えて、事実判断として「そんなことは不可能だ」というものになるのではないか。つまりアーレントやコミュニタリアンたちの本意は、答えのないパズル、底なしの懐疑を提出することにこそあったのではないか。  「比較不能な価値の迷路」、マックス・ウェーバー流に言えば「神々の闘い」を近代の宿命として受け入れるリベラリストは、共和主義者、コミュニタリアンに対して実際的、現実的であると自認します。しかし実はコミュニタリアンによるリベラリズム批判は、必ずしも理想主義者による現実主義批判というわけではなかったのではないでしょうか。リベラリストは「伝統的な価値の共有に支えられた公共空間」を単なる理想、というより夢想と見なし、現実的な選択肢としては否定します。しかし他方で、彼らが強調する「もはやバラバラとなり、社会的に共有されないそれぞれ独自の価値を求めて生きる個人」もまたリアルな認識というよりは夢想なのではないか、とコミュニタリアンは疑うのです。  リベラリストは「もはやバラバラとなり、社会的に共有されないそれぞれ独自の価値を求めて生きる個人」というヴィジョンはほどほどに現実的、既にある程度既成事実化していると考えており、かつそれをポジティヴに評価しているわけです。そして彼らはコミュニタリアンのことを、この現状をネガティヴに評価し、できもしない伝統回帰を志向する復古主義者と批判する。しかし実はそうではない。  おそらくコミュニタリアン(そしてより「右」よりの保守主義者、反動的復古主義者さえも)の少なからずは、伝統回帰による公共性の再建ができるなどと本気で思ってはいない。むしろそれはひとつのアイロニーとして語られていると考えた方がまだいいでしょう。すなわち、「「個人の生の充実の舞台としての公共空間」なる理想は、もはやまったく実現可能性のない夢想である」のが真実であるのと同様に、「個人の生の充実は私的には実現されえず、公共空間での承認を必要とする」こともまた真実である。となれば「比較可能な価値の迷路」のもとでは、ほとんど誰にとっても充実した良き生を送ることはきわめて困難となる――と。こうした批判はたとえば多文化主義的コミュニタリアンとしてよく引き合いに出されるチャールズ・テイラーの、最近翻訳された『〈ほんもの〉という倫理』(産業図書)などに明解に提示されています。彼はそこで「リベラリズム主導の社会では、個人が自己の生の価値を承認してくれる他者・共同性にめぐり合うことが困難となる、つまりリベラリズムは自己の理想をうまく達成できない、自己反駁的な思想である」と論じているわけですが、だからと言ってそこからストレートに共和主義を論じたり公共性の再建を呼号したりするわけではありません。むしろ彼は、このような批判によってアイロニカルなリベラリズム援護を行っていると言った方がよい。つまり「リベラリズムが自己論駁的にならないためにはどうしたらよいか?」を問うているのだ、と。 2  しかしアイロニーの問題についてはさておいて、いま一度別の語り方をしてみましょう。  「リベラル−コミュニタリアン論争」と一口に言っても、そこで主役となっているのは、リベラル陣営の中ではロールズ、ノージック、ドゥウォーキンら権利論的なタイプの論者であり、コミュニタリアン陣営においてはテイラーなどの多文化主義者でしょう。つまり、現代社会において社会的な価値の多元性、不可共約性が支配していること=「比較不能な価値の迷路」は事実として認め、かつそれを克服・変革できる/すべき対象とは見なさず、受け入れ是認する、つまりこの価値の多様性それ自体は望ましいことだ、と肯定的に評価する、という点において既に同意してしまっている者たちの間での「論争」が、舞台の中心を占めている。そこまでは既に見たとおりです。  では多文化主義的なコミュニタリアンがリベラルな多元論者をどのように批判するのか、を考えてみましょう。多文化主義の文脈から見た場合、批判の最大のポイントは「単に開かれた機会、機会の平等が与えられただけの世界においては、実際には価値の多様性は実現しないだろう」という危惧でしょう。グローバリズム批判の文脈で言う「世界のマクドナルド化」論です。  これはつまり言い換えれば、個人の自由な選択に任せた場合、実は社会の中での価値の多様性は縮小し、衰退するだろう、という予想であるわけです。だから実際にはリベラルな多元主義者と多文化主義コミュニタリアンの間では「事実」認識が微妙に食い違っている、と言わなければならない。そしてこのずれは「評価」のレベルにおけるずれよりもおそらくは大きい。共約不能な諸価値の並立、という現状に対する「評価」は、リベラル、コミュニタリアン共に一応肯定的であるわけです。しかしこの現状が将来どのようになっていくか、という(希望的な期待ではなく)「事実」的、客観的な予想のレベルでは、リベラルの方はおそらくこの並立が続くだろうと予想しているのに対し、コミュニタリアンは、もし適切な手を打たなければ、とりわけ積極的な政治的アクションを起こさなければ、この諸価値の並立状況は崩れていくだろう、と考えているわけです。  言い換えれば、個人の、民間の私的な主体の自由な選択に任せていては、価値の多様性は崩れる、とコミュニタリアンは危惧している。多様な価値を守るためには、この総体としての価値の多様性についてのみならず、それぞれの個別の価値の保持においてさえ、個人レベルを超えた集合的、共同的コミットメントが必要になる、と。この意味でもコミュニタリアンはリベラルに比して、個人の能力の可能性に対して悲観的です。 3  以上を整理しますと、「1」と「2」では「比較不能な価値の迷路」の捉え方が微妙に異なっている。「1」の構図では「公共社会のメンバーである諸個人が共有しうる積極的な公共価値はあるか」が論争の焦点であり、「ない」という方向で答えるのがリベラリスト、「ある」という方向で答えるのがコミュニタリアンないしリパブリカン、という色分けになります。それに対して「2」では、実は「1」の問いに対して既に「ない」という方向での解答がなされたあとでの論争が問題になっています。そこではコミュニタリアンの力点は「公共価値」から「他者からの承認」に移っています。  すなわち「公共社会のメンバー全員が共有できる積極的価値などない」ということが事実であったとしても、それがイコール「個人の生の充実の舞台としての公共空間などない」ということに直結するわけではない。つまり「個人の生の充実」の条件としての、個人の生の尊厳を「承認」する主体としての「他者」が「公共社会」全体でなければならないわけではなく、またその「承認」の場にしても「公共空間」全域でなければならないわけではない。つまり「承認する他者」とは、公共社会そのものでなくてもよいばかりか、この同じ公共社会の中に生きる市民・国民であるという点を除いては、何ら無関係の、赤の他人でなければならないわけでもなく、同好の士や同郷人であってもかまわない。そして「承認の場」にしても、そうした仲間の集まるローカルな場所であっても、一向に構わない――ややシニカルな言い方をすれば、多文化主義的なコミュニタリアンというのはここまで戦線を「後退」させているわけです。  コミュニタリアンがここまで後退するならば、リベラルからの反撃も当然食らいます。端的なのは『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社)のロバート・ノージックです。ここで注目すべきは彼の最小国家論ではなく、メタ・ユートピア論の方です。(もちろん彼は両者が結果的には一致する、と述べているわけですが、概念の上では両者は区別できます。)彼によれば個人の権利、とりわけ自由な行動の権利を尊重し擁護するリベラルな国家は、当然ながら個人が徒党を組んで共同体を作ることも、それが参加者の自発的な合意に支えられている限りで容認します。リベラリズムは個人主義を容認するだけであって、強制はしません。それが厳密に自発的なものである限り、ローカルな共同体を作ることは完全に自由です。「他者からの承認」を欲する個人は、こうした価値を共有し、志を同じくする仲間と作り上げる共同体を「承認の場」として利用すればよい、ということになります。  こうした反撃に対して、多文化主義的コミュニタリアンはどう応じるのでしょうか? ノージック的なメタ共同体社会は、共同体同士の自由競争になるため、優勝劣敗になってしまう恐れがあり、結果的に価値の画一化がおきる、というのが先の「マクドナルド化」論です。この議論自体をどう評価すべきでしょうか? この議論は基本的にはオーソドックスな経済学の市場経済の理論のアナロジーとして構成されていますから、本来営利的なビジネスを念頭において作られた元の理論が、このようなメタ共同体論にどの程度うまく転用可能か、という点でいろいろ議論の余地があるでしょう。ここでは、大まかにはこのアナロジーが有効だ、と仮定します。  こう考えてみると「マクドナルド化」論は「競争的市場はいずれ寡占、独占に行き着く危険が高い。同様にメタ共同体間の競争も、いずれは勝者による独占に行き着き、敗北した共同体、他の選択肢は捨て去られ、忘れられてしまうのではないか」という危惧の上に成り立っていることがわかります。さて、市場的競争のアナロジーが有効だとしての話ですが、こうした危惧は無根拠ではないですが、やや大げさとも言えます。まず、競争的市場は必ず寡占、独占に導くというわけではない、ということ。寡占・独占になりやすい市場や産業と、そうではないものとがあります。また寡占・独占状態に陥ったからといって、そのことをもって直ちに「市場が失敗して、人々の自由を守れなくなり、独占者による搾取を防げなくなった」と結論するのも早計です。ある市場が一時的に独占状態になったからといって、将来的にもそうであり続けるかどうかはわからないからです。新規参入の挑戦者があらわれるかもしれないからです。この新規参入の可能性がちゃんと残されているのであれば、独占それ自体は必ずしも不正とも、またそのもたらす結果も不幸ともいえません。この場合「人々が独占体を選びつづけているのは、他に選択肢がないから仕方なくそう追い込まれているから」とは言いがたいからです。  「他に選択肢がないから」という言い方は誤解を招きそうだから言い直しましょう。「本当は他に選択肢があるのに、その選択肢が独占者によって不当な仕方で排除され、隠されている」のであれば、それは不正であり不幸なことでしょう。しかし本当に「他に選択肢がない」ならば、現状は可能な限りの最善ということになりますから、不満を言っても仕方がないわけです。  しかしもちろん、寡占・独占に問題がないわけではありません。このような状況のもとでは実際に新規参入が難しくなることが多いでしょう。また独占状態が短期間しか続かず、ほどなく新規参入者が登場して競争状態が回復されたとしてみましょう。それでも、その短期間の独占状態の継続の間に、競争に負けて排除されてしまった共同体、そこで試されていた理念やアイディアは忘れ去られ、失われてしまうかもしれない。そうした喪失による損失が、将来における新たな別のアイディアの出現によって償われるかどうかはわかりません。失われたアイディアは失われたまま、二度と戻ることなく、あるいは再発明されることなく終わるかもしれない。そのような意味での損失はたしかに無視できないでしょう。  以上の議論が成り立つなら、「自由放任」には問題があるにせよ、メタユートピア実験社会、メタ共同体競争社会という枠組自体を否定しきることはできない、と結論することが妥当でしょう。もちろん「自由放任」ではなく共同体間の適切な競争状態を維持するための政治的介入とはどのようなものか、という論点が残っています。独占禁止立法からのアナロジーは比較的容易でしょうが、ケインズ政策に対応するものはあるか? 共同体間競争が椅子とりゲーム、つまり生存をかけた戦争にならないためには、どうしたらいのか? 等々。 4  しかしその辺はさておきましょう。ここで本当に問題としたいのは、3に考察したような意味でのメタユートピア社会が一応うまく行ったとして、そこに果たして問題はないのか、ということなのです。  既に我々はノージック的なメタユートピアの部分的な実現を実際に見ているのではないでしょうか? たとえばクリシャン・クマールは、初期社会主義者や新宗教などがいろいろな実験コミュニティをつくった19世紀のアメリカ合衆国の経験は、そのようなものだったのではないか、と示唆しています。(Krishan Kumar, Utopia and anti-utopia in modern times, Blackwell, 1987.)しかしぼくが具体例として特に念頭においているのは、WWWによって商業化され大衆的普及を見たインターネットの世界です。  WWW以降の大衆化したインターネットはサブカルチャー、同人活動に飛躍的な変化をもたらしました。以前は同好の士を見つけることが一苦労であったようなマイナーな趣味嗜好であっても、容易に仲間を見つけて一緒に楽しむことができるようになりました。しかしこのことは同時に、異なる趣味嗜好の持ち主同士が出会い、交流するチャンスを減らす方向にはたらいているのではないか――ぼくはそういう気がしてなりません。もちろんこれは何らかの仕方できちんと実証していくべきではありましょうが、かつては、特にマイナーなサブカルチャーの愛好者は、同好の士との交際よりも、身近な、趣味を共有しない人々との付き合いに時間と労力を割かねばなりませんでした。現在ではネットを介して同好の士と知り合うことが容易になり、そうした仲間との交際に割く時間と労力が増えたはずです。そうなると、時間も労力も生身の人間のことですから、有限です。当然、トレードオフ関係が生じて、身近な他人との付き合いが薄くなってしまうことはいたし方ありません。その上同好の士との付き合いの方が容易で、少なくとも短期的には楽しいでしょうから、ますますこの傾向は加速していくでしょう。  つまり結局のところぼくが危惧しているのは、メタユートピア的枠組をバカ正直に実行に移すと、実際にそこに出来上がるのは、多種多様なコミュニティ実験同士が相互に競争し合う、というよりも、多様ではあるかもしれないがそれぞれに閉鎖的なコミュニティたちが、没交渉に棲み分けする、宮台真司の言い方を借りれば「オタクの島宇宙」社会なのではないか、ということです(宮台真司『制服少女たちの選択』講談社)。いまのところこうした傾向が突出しているのは主に余暇、レジャー、消費生活の領域においてのことですが、労働の領域にこうした傾向が侵入してくる可能性、あるいは、より一層もっともらしい可能性ですが、人の生活における労働の意義の低下によって、このような傾向が社会生活、公共空間全体に対して持つ意味はかなり大きくなってくるのではないでしょうか。  「マクドナルド化」論者が危惧しているのは、実はこのような状況の到来なのではないでしょうか。つまり、社会の中に現実に多様な価値が存在し、多様なライフスタイルが共存していようとも、その多様性という事実が、それぞれの個人の人生にとってなんら深刻な意味を持たないのであれば、結局価値の一元化と同じことだ、と「マクドナルド化」論者なら言うのではないでしょうか。  つまりこのような意味においてもリベラリズムは自己論駁的なのです。1末尾で見た、テイラーが批判するような自己論駁性とは「個人を拘束する社会の重荷を解体することによって、同時に個人が承認を与えられる場をも解体してしまう」というものですが、ここでみた自己論駁性とは「個人の自由な選択を解放した結果、自由な選択の条件をなすはずの、社会における価値の多様性が縮退する、ないしは意味を失う」というものです。  それはまた、まさに東浩紀が言う意味での「動物化」につながってくるように思われますが、その前に見ておくべき問題があります。 5  そもそも、多文化主義的コミュニタリアニズムとはいったい何でしょうか? 「2」でのまとめかたでは、それは近代化の既成事実とリベラリズムの攻勢に押された苦し紛れの選択のように見えてしまいます。「1」での説明のしかたでは、コミュニタリアンは「共有された公共価値の実現」にコミットする、どちらかというと一元的な志向に映ってしまい、リベラリストの方が価値の多元性にコミットしているように取れるでしょう。しかしより正確に言えば、権利本位的リベラリストは価値の多元性に積極的にコミットしているのではなく、価値が一元的であろうと多元的であろうとその点に関してはどちらでもよい――中立的neutralで無頓着indifferentなのです。  よく「機会の平等」と「結果の平等」という言い方がなされ、「保守的(ないし原則的)リベラリストは「機会の平等」は支持するが「結果の平等」は支持しない」などとも言われます。必ずしも間違いではないのですが、このことの含意はよく理解されていないようです。問題の構造を明らかにするためには「機会」と「結果」の中間について考えるのがよいでしょう。メタ共同体競争の場合について言えば、「機会の平等」とは、他人の権利を侵害しないのであれば、いかなる共同体構想を誰がぶち上げようが構わない、そこに参入障壁はない、ということです。保守的リベラリスト=最小国家論者がコミットするのはここまでです。つまりこのようなリベラル権利論者は、厳密に言えば、このような「機会の平等」によって、実際に多種多様な共同体実験が行われようが行われまいが別に構わないはずなのです。これは「結果の平等」とは区別されなければなりません。「結果の平等」とは、試行された実験がそれぞれ首尾よくいったその成果、のレベルの話です。この端緒としての「機会」と「結果」のその中間に、多種多様な実験が、必ずしも成果は上げないかもしれないが、とりあえず実際に行われる、というレベルがあります。何と呼べばいいか苦しみますが暫定的に「実行の平等」とでも言いましょうか。ここで初めてメタユートピアの「メタ」たる所以、共同体実験の多様性が実現するのであり、それには「結果の平等」は不要でも「機会の平等」だけでも足りないのです。  メタユートピアの提唱者ノージック自身は、どうやら共同体実験の多様性、社会的価値の多様性それ自体にコミットしていたようです。そしてまたたしかに「個人の自由な行為に対する規制が最小限の、アナキズムぎりぎりの最小国家こそが、共同体実験の多様性を最大化する可能性が高い」と理論的には言えるでしょう。しかし厳密な意味でのリベラルな権利論の立場からは、多様性それ自体はただ単に容認されるのみで、奨励されるわけではない。  だからこそ、権利論と真っ向から対立するように普通評価される(広い意味での)功利主義、ないし帰結主義が、にもかかわらず同じくリベラリズムの陣営に繰り入れられるのです。功利主義もまた、社会における価値の多様性に対して無頓着です。もちろん実際には功利主義は個人の思想信条、行為の自由の権利を支持しますが、それはあくまでもそうした方が個人の、ひいては社会全体の厚生にとってプラスになるから、というに過ぎません。またもちろんそうした個人奉じる思想信条、求める価値の多様性にせよ、そうした多様性が結果的に個人と社会にとって有用であることが多いので、その限りにおいて支持しているだけです。何より彼らが最終的な判断根拠とする「効用」「厚生」自体が一元的な色彩が強いなにものかです。  功利主義、ないしより広く言えば帰結主義が権利論と対比される際には、しばしば「功利主義は価値の多様性を否定するかあるいは無関心であるのに対して、権利論はそれ自体を肯定的に評価する」といった評価が行われがちですが、実はそうではないのです。  むしろ価値の多様性をそれ自体として重んじるのは、必ずしも多文化主義的ではないスタンスの論者までも含めて、むしろコミュニタリアンの方である、と言うべきでしょう。どういうことか?   ここで必ずしも多文化主義を前面に出さない論者の典型として、アラスデア・マッキンタイアを挙げましょう。彼は西洋における伝統的・正統的な道徳理論の中興の祖としてアリストテレスを、そしてその継承者にして大成者をトマス・アキナスとしますが、その場合のポイントはこうです。まず何よりアリストテレス、そしてトマスは、人間をして(そして神もまた)目的を追求し、それを実現しようとする存在と見なします。それゆえ人間の生の意味も、生きる目的を実現するところにあります。この限りでは後の功利主義は、この問題意識を引き継いでいるわけです。しかし後の功利主義者とは異なり、アリストテレスたちは人間が生きる上で追求する価値の多様性、そしてその価値を追求し、実現する手段、方法が、それこそその価値ごとに異なっていることを強調します。このような多様な生の目的、またそれぞれの性の目的を追求するのにふさわしい人の能力・性質のことを「徳virtue」と呼びます。当然にこの「徳」もまた複数形で語られます。 「[アリストテレスによれば――引用者]諸徳の行使は、人間にとっての善という目的に対するこの意味での一つの手段ではない。というのは、人間にとっての善を構成するものは、最善の状態で生きられる完全な人生であり、諸徳の行使はそうした生を確保するための単なる予備的実践ではなく、その生にとって必要で中心的な部分なのである。」マッキンタイア『美徳なき時代』みすず書房、183頁上  功利主義を典型とする近代の帰結主義的道徳・倫理学との対比の上でわかりやすく言いますと、「人間にとっての善という目的」とその目的達成のための行為とが区別され、前者の後者に対する価値序列の上での優先性が認められている、という点で、功利主義とこの伝統的な徳倫理は共通しています。しかしながら、近代功利主義ないし帰結主義が「目的は手段を正当化する」「目的が達成できさえすればどのような手段によってでも構わない」、つまり「目的を達成するための多種多様な手段について中立的neutralで無頓着indifferent」であるのに対して、徳倫理はそうではないわけです。ある目的を達成するには、通常は、それに相応しい手段というものがあり、その手段をもってする目的実現のための行為もまた価値を持つ――(権利論的道徳におけるように)その行為自体が道徳的評価の対象になるというだけでなく、その行為の遂行自体が楽しい、という風に――、というのがコミュニタリアンの徳倫理の立場なのです。それゆえにここでは、価値や徳は現実に多種多様な、多元的なものでなければなりません。  このように、必ずしも多文化主義的とは言えないマッキンタイアの場合にも、人間世界における価値の多元性は本質的な契機として重視されています。同様のことは『正義の領分』(而立書房)などにおけるマイケル・ウォルツァーなどにも当てはまります。  ここまで見てくれば、テイラーのまさに微妙な立場が暗示するごとく、そうあっさりと 「リベラリズム」と「コミュニタリアン」を区別し対立させることなどできない、ということがわかってきます。その上で、3で提起した論点に戻りましょう。ぼくの予想では、コミュニタリアンへの反論として解釈することができるノージック的なメタユートピア構想は、「オタク的島宇宙棲み分け社会」に成り果てる可能性が高いわけですが、この問題について、本節で解釈したようなコミュニタリアンのスタンスからは、どのようなことが言えるでしょうか?   「1」末尾での、テイラーを引き合いに出してのリベラリズム批判は「リベラリズムの重んじる個人の自己実現のためには、それに承認を与える場としての共同体・公共空間が必要となるのではないか?」というものでした。それに対してメタユートピア論は「リベラルな社会でも共同的な承認の場は構築可能であり、かつリベラルな社会でこそ多様な価値のための多様な承認の場が実現しうる」という反批判を提起した、と言えます。しかしそうしたメタユートピアが結局「棲み分け社会」になってしまうのだとすれば、これをコミュニタリアンはどう評価するでしょうか?   もしこのような結果がもたらされたとしたら、それはリベラリストにとっては意図せざる、意に反する結果でしょう。しかしいかなる意味で「意に反する」というのか? そこではなお社会の中の価値の多様性は、事実としては保たれているでしょう。しかしその事実が、その社会の中を生きる人にとって持つ意味が、少しばかり、しかし決定的に違ってしまっているのです。つまり、自分にとって望ましい価値を実現したコミュニティに出会い、それに満足することのできた個人は、他の価値、他のコミュニティへの、そして多種多様なコミュニティたちからなる複雑な社会全体への関心を失っていくのです。これはリベラリストにとっては、やはり「意に反する」結果ではないでしょうか。つまりリベラルなメタユートピア構想は、社会の事実としての多様性は破壊しなくとも、社会の多様性に対する個人の関心を掘り崩してしまう可能性がある、という点において、自己論駁的、自己破壊的なのではないでしょうか。  これに対してコミュニタリアンなら「事実として社会の中の多様性を保つだけではなく、その多様性とその意義が、社会の中に生きる個人にとってよく認識できるような工夫が必要だ」とするでしょう。そのような観点からすればリベラリズムの弱点とは、そうした「工夫」の必要性への認識の甘さである、ということになりましょうか。 6  節を改めてまとめましょう。  繰り返しますが、リベラリストは「近代の大規模で複雑化した社会の中で人々はバラバラとなり、社会的に共有されないそれぞれ独自の価値を求めて生きるようになった」と考えており、かつそうした現状をポジティヴに評価しています。それに対して、4までの解読で浮かび上がってきた、ぼくなりに好意的に、理想的に再構成した限りでのコミュニタリアンは、いま少し危機感をもって現状を見ています。  近代化の過程の中で社会は事実として複雑化し、多様化しているでしょうが、そうした社会の現状を個人はどの程度認識しているでしょうか? というより、個人の認識能力を超えて想像不能なまでに個人を取り巻く社会は巨大に、複雑になっているということを、どれくらい骨身にしみて理解しているでしょうか? なおかつ、社会がそのように絶望的なまでに個人の身の丈を超えて超絶的な存在となってしまったことを、肯定的に受け入れること、ことほぐことができるでしょうか?   リベラリストは以上の問いに対して肯定的に答えるか、あるいはそもそも問題の存在自体を意識していないか、です。それに対して、コミュニタリアンはこれを問題として意識し、かつ必ずしもこの問題に対して楽観はしていない。  近年の進化心理学、人間進化学等の知見を援用して考えますと、生物学的に見たヒトの基本的な性質、能力は文明の形成以前の自然環境に適応的なものとして出来上がっているはずです。そこにおいてヒトは、100〜200人程度の規模の群れを基本的な生活単位としていたと推測されます。つまり生物としてのヒトの社会的能力は、小規模の単純な社会に適応したものであって、それ以上の大規模で複雑な社会に対してはもともと不向きなのだ、と言ってよいでしょう。人間の認知能力、知能は群れの中の社会関係にうまく適応していくために進化した、という仮説が最近有力ではありますが、そういう社会関係のコンテキストは、今日の我々のいわゆる「人間関係」と、その複雑さにおいては大差ないようです。(この辺についてはたとえば長谷川寿一・長谷川真理子『進化と人間行動』東京大学出版会、ドナルド・ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ』新曜社、ロビン・ダンバー『ことばの起源』青土社、正高信男『ケータイを持ったサル』中公新書、等を参照。)  もちろん近代化以降、いや文字言語や制度宗教、集権的権力の発達以降の文明社会に生きる我々は、規模と複雑さにおいて、生物学的な人の本来の故郷であるような社会よりもはるかに複雑な社会関係の中に生きているわけですから、自分たちの生きる社会についての十分に正確な感覚的直観、理解など持ってはいない。少なくとも自分を取り巻く「人間関係」と同程度に具体的なイメージを全体社会について持つことは、もはや不可能である。  「それで別に構わない」というのが、リベラリズムのメッセージのひとつではあります。集権的権力や法、あるいは市場経済という仕組みは、個人が全体社会への配慮をほとんどしなくとも、全体社会を秩序あるものとして運行させていくための見事な工夫です。法と市場は「個人や私的な主体が全体社会のためになすべきこと」をあくまでも「××してはいけない」という消極的な制約の範囲にとどめており、能動的積極的な行為については基本的に個人の自由に任せています。  しかしそれでも、個人が全体社会についてなすべき配慮は、ミニマイズされただけであって、不要になったわけではない。人は市場の向こうにいる見知らぬ他人について、いちいち具体的に思いをめぐらす必要はないが、しかし市場の向こうに他人がいる、ということは認識しておかねばならない。そしてその他人たちもまた、こちらのことを具体的に知っているわけではないが、市場の向こう側には誰か(まさにその中に自分はいる)がいるということは知っている、ということも。  これはゲーム理論の言葉で言う「共通知識common knowledge」の、更にその向こう側に位置する問題です。まず「共通知識」について大雑把に説明しましょう。ゲームの各プレーヤーの行為が「かみ合う」ためには、お互いの出方を予想できなければなりません。つまりプレーヤー同士は互いの手の内を、互いに知っていなければならないわけです。しかしそれだけでは不足です。更に、お互いが「互いの手の内を互いに知っている」ということを互いに知っていなければならない。しかしここで終わるわけではなく、更にまたお互いが「お互いが「互いの手の内を互いに知っている」ということを互いに知っている」ということを互いに知っていなければならない。そして更に――という風に図式化してしまうと無限背進になって困るのですが、重要なことは、ただ単に同じ知識、認識を共有している、というだけではなく、「認識を共有している」という認識をもまた共有している、というところです。(「共通知識」の正確な解説は中級以上のゲーム理論教科書を参照のこと。たとえば岡田章『ゲーム理論』有斐閣、等。言語研究、特に語用論・談話分析においては「相互知識mutual knowledge」とも呼ばれる。石崎雅人・伝康晴『談話と対話』東京大学出版会、他。直観的な理解と実証社会科学的な含意についてはマイケル・S‐Y・チウェ『儀式は何の役に立つか』新曜社、が啓発的。本稿での、公共性を一種の共通知識と解釈するというアイディアは、基本的にチウェの本書から得たものです。)  非常に大雑把には、「公共性」とは「大規模な社会において、対面的・ローカルな共同体の範囲を超えたレベルでの全域的な「共通知識」がなりたっていること」と言ってもよいくらいです。ただ「公共性」を問題としなければならないような大規模で複雑な社会では、「知的分業」を考慮に入れなければなりません。厳密な意味での「共通知識」はおろか、単なる知識の共有についてさえも大いに限界があるのが、大規模で複雑な文明社会というものです。文明社会では、寄せ集めればシステマティックな知識となる断片的情報を、たくさんの人間が分散して所有し、その活用も分散して行うことがよくあります。市場を介した分業はまさにその典型です。ここで重要なのは本来の意味での「共通知識」でも単なる知識の共有でもなく(そんなことは不可能だし効率的でもない)、各人の断片的な知識がシステマティックな知的分業の一環をなしている、ということについて、各人が「共通知識」を形成することです。「知的分業が成り立っている」ということについての知識を仮に「メタ知識metaknowledge」と呼ぶならば、「公共性」とは全域的な「共通メタ知識common metaknowledge」のことである、と言ってもよいでしょう。  リベラリストはこうした「公共性」、「共通(メタ)知識」の成立について少々楽観的に過ぎるのです。しかし実際には「共通(メタ)知識」は自然発生的なものではない。ある種生態学的・歴史的に幸運な偶然か、あるいは人為的な努力によってしか形成されえないのです。そしてもしこうした「公共性」の構築に失敗すれば、人々は先文明的な、それこそ自然発生的な共同体に、人為的な工夫なしに「共通知識」が自然発生するような「群れ」に回帰してしまいかねない――これがコミュニタリアンによる批判が提起した論点だったのではないでしょうか。  ある意味こうしたリベラリズム批判は、かつてマルクス主義によって提起されたそれと似通っています。すなわち、リベラリストが想定するような「人間性」とは決して自然で自明なものではなく、歴史的なプロセスの所産である、と。しかしながらマルクス主義の場合には(拙著『経済学という教養』東洋経済新報社、第7章での解釈を援用しますが)、こうした特殊な「人間性」は振り捨てるべき、そして実際に振り捨てることが可能な拘束として理解されていました。本来の自然な人間性は、もしそれが十分に解放されたならば、その上に理想的な共産主義社会を打ち立てることのできる基盤として信頼されていました。それに対してここでの批判においては、自然な人間性についてのそのような楽観はありません。  ですがリベラリストには立つ瀬がないかというと、必ずしもそういうわけではないのです。ほかならぬ自然な人間性がリベラリズムに対しても一定の根拠を与えてくれます。つまり、自然な人間性を超えて何らかの「公共性」を打ちたてようとする場合にも、何でもよいというわけではありません。一部の相対主義的な傾きのあるコミュニタリアンが考えるほど、文化は相対的でも恣意的でもない。ローカルな共同性を超える「公共性」のありうべき形は、ひとつではないにせよ「何でもあり」というわけでもない。その多くはコミュニタリアンが言うようにむしろ消極的なものではあれ、相当程度人類社会全体にとって普遍的な価値と言ってよいものがあるらしい。  ここで(あくまでも人間世界のレベルにおいて、の話ですが)「自然(的)」(つまり「自然状態」という言葉が意味するところの「自然」)という曖昧な言葉をいま一歩具体化して、問題を明示することにしましょう。「問題意識をもって公的介入をせずに、成り行きに任せて放っておけばそうなる(可能性が高い)」という意味での「自然的」を「自然的(1)」、「意識的に公的に介入していろいろ試してみれば、結局その辺りに落ち着く(可能性が高い)」という意味でのそれを「自然的(2)」としてみましょう。極め付きに素朴なリベラリスト、かつてのマルクス主義者が批判したような「俗流ブルジョワ民主主義者」はこの両者の違いに無頓着なまま、リベラルな価値を(我々の考える1と2双方の意味において)「自然」なものと見なしたわけです。それに対してマルクス主義者やコミュニタリアンからの批判は、リベラルな価値の「自然性」を否定したものの、なお1と2の区別について十分に意識していなかったわけです。しかしいまやこの区別を考慮に入れるならば、以下のように言うことができます:「公共性」とは「自然(1)」ではないが「自然(2)」である、と。  公共性が自然(2)なものであるならば、それはまたかなりの程度「普遍的」であると言えます。しかしながらまた他方で、公共性が自然(1)なものではないとすれば、その確立と維持には相当の困難が伴います。  とりあえず公共的な価値とリベラルな価値を同一視――かなりの程度重なり合うものと仮定してみましょう。この場合重要なのは、リベラルな価値の多くは積極的な行為、生き方の指針や動機付けではない、ということです。コミュニタリアンが重視するような積極的な善は、この見かたが正しければ、公共的な価値にはほとんどなりえないのです。ということは、普通の個人のレベルで見たとき、市井の普通の人々が、放っておいても、わざわざ好き好んで自分で勝手に、公共価値の実現にコミットしてくれることをあまり期待できない、ということを示唆します。基本的には、自らの私的な善、私的な価値の追求の際に、付加的な条件として(ノージックの言い方を借りれば「付随制約side constraint」ですね)、ついでに配慮してくれることをしか期待できない、ということです。もちろん「世のため人のため頑張りたい」という生きがいを持つ人もいるでしょうが、そうした人々は比較的少数にとどまるでしょうし、またその人たちがイメージする「世のため人のため」が現実に適切な意味で「公共的」になっているかどうか、はまた別の問題です。  自然人が自力で、生物学的・心理学的な意味で「自然」な感性のレベルで、具体的にイメージ可能な「世のため人のため」の規模は、先述のとおりいいところ百人のオーダーをいくらも出ません。それ以上のスケールになるとどうしても「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン『増補・想像の共同体』NTT出版、を参照)にならざるを得ないのです。この「想像」がどれくらい「現実」を適切に反映できるのか、はそれこそ開かれた問いなのです。 (2004年6月)