現代倫理学についてのひとつの見取り図(未定稿) 稲葉振一郎 ◇倫理学と倫理(道徳)  自然科学において、対象と科学は別のもの。(生物学は生物じゃない。)  しかし数学では怪しい。  人文社会科学でも怪しい。  一応「社会学」は「社会」とは別のもの。  もちろん社会学という学問自体は人の社会的な営みの一種(=「社会」の一部)ではある。しかしそれをいったら生物現象の一部であり物理現象の一部でもあることになる。  「経済学」「政治学」「法律学」「経営学」などは少し違う。経済学は経済政策を、経営学は企業の意志決定を、政治学は外交戦略や組織設計を、法律学は実際の裁判やその他法実務を支援することをその使命(の少なくとも一部)としている。つまりこれらの学問は社会学よりももっと積極的な意味で「社会」の一部である。社会学は「社会をよくしよう」とは(あまり)思っていないが、そのほかの社会科学は大体そう思っている。  倫理学ではどうか? 倫理学と倫理(道徳)の関係は?  伝統的には倫理学は「実践哲学」として倫理のまさに一部であり、人々が生きるための指針としての常識的な倫理(道徳)を吟味し、改善する役割を担おうとしていた。つまりそれは学問的に洗練された道徳的お説教だった。  しかし19世紀末から20世紀前半に、現実の倫理(道徳)から自ら切り離した倫理学とでも呼ぶべきものが出現した。(前哨戦としてニーチェ『道徳の系譜学』、全く違った方向から分析哲学の「メタ倫理学」。)20世紀半ばまでは、むしろこうした没倫理的倫理学が学問的には主流だった。  20世紀後半に伝統的な「実践哲学」としての倫理学が復権してきた理由の一部は、主として科学技術の発展により従来とは異なるタイプの政策課題が浮上してきたからである。より具体的には、従来の政策課題において(そして従来の社会科学において)「人間とは何か」は改めて考えるまでもない常識的大前提であったが、それが近年崩れてきた。日常的な政策・実践の現場でわざわざ「人間とは何か」を頭を絞って定義しなければならないような状況が出てきたのである。(ex.生命倫理・環境倫理)  というわけで倫理学と現実の倫理との関係は多くの社会科学と同様複雑である。  倫理学には二つのタイプがあり、一つは伝統的な、道徳の一部(司令塔?)としての倫理学、倫理の自己反省としての倫理学、現実の問題解決のための指針を与える、学問的お説教としての倫理学、今日の言葉で言えば「規範倫理学」である。そして今ひとつは、現実の道徳から距離を置いた倫理学、倫理を客観的に突き放して観察する倫理学、広い意味での「メタ倫理学」である。 ◇倫理(道徳)の規則・法律モデル(1) *道徳の「理解社会学」  ここで議論する倫理(道徳)モデルとは、単なる学説ではなく、普通の人々が道徳について抱いている理解、道徳についての民間社会学的folk-sociologicalモデルである。 cf.「一次理論」(佐藤俊樹)、「民間心理学folk psychology」(認知科学)  繰り返すが、メタ倫理学はこうしたモデルの客観的な解析を、規範倫理学はそれに対する働きかけをテーマとする。  さて倫理(道徳)とは何か?  今日の先進国で支配的なモデル(人々が「道徳とはこういうものだ」と漠然と抱いている理解)の中でたぶんもっとも有力なものは、道徳を規則・ルールのシステムとして理解するものだろう。  規則とは何か? と言うのがまだ大問題だが、とりあえず一種の命令、それも誰に対してもその拘束力を発揮するような(そしてその命令の主体も誰でもあり得る、というか誰でもない、というか社会全体であるような)特殊な命令のこと、ととりあえずしておこう。 (この考え方は現代の哲学者R・M・ヘアのいわゆる指令主義、さかのぼればイマニュエル・カントの「定言命法」に行き着く。)  もちろんこれだけではおさまらない。一見したところその意味するところが自明であるような規則はむしろ例外で、具体的な個々別々のケースに合わせてその規則をどう適用したらよいか、解釈の余地がある方が普通である。だから道徳はルールの単なる束だけではなく、このルールの束を適切に運用する道徳的判断力からもなっている、とせねばならない。  しかしこのモデルは要するに、法律モデルである。法律は単なる文書化されたルールの束ではなく、それを運用するプロフェッショナル集団、そしてその裁定を行う裁判所システムをあわせた複雑なシステムである。このモデルは道徳を法律のようなもの、それどころか法律と連続したものとして――法律を高度に洗練された道徳として、あるいは道徳を原始的な法として理解しているとさえ言える。  その考え方にも一理はある。道徳と法律は無縁ではあり得ないし、幾分かは連続し、幾分かは重なり合っている。しかしたとえその違いが質的なものと言うより程度問題であるとしても、やはり「違い」はあるだろう。  法律にはいくつかの種類があるが、まずおおざっぱに実体法と手続法という区分がある。手続法というのは民事訴訟法とか刑事訴訟法とか、裁判その他法的な手続をさだめたもので、普通の社会のルールに関わるものではない。社会のルール、つまり実体法の中にも、憲法とか行政法(いわゆる公法)、つまり国家と市民社会の関係と、国家自体の組織のあり方を定めたルールと、市民社会そのもののルール、普通の人びとの社会生活を律するルールを定めたもの、つまり民法と刑法(その他関連する法律、商法、労働法、少年法等々)とがある。  そして道徳と比較されるべき法律といえばまさにこの市民社会のルールとしての民法、刑法だが、それを念頭に置いてみると道徳の法律モデルの限界もまた明らかになってくる。 民法や刑法の条文の多くは、「禁止」のかたちをとる。しかし道徳はその限りではない。  道徳を命令と理解したとしても(この考え方自体も検討の余地有りだが)、いくつかのタイプの命令を区別できる。まず、「しなきゃいけない」「しちゃいけない」という強制・拘束の形を取るか、せいぜい「したほうがいい」「しないほうがいい」といった奨励・説得の形を取るか、という区別が考えられる。そして今度は「××しろ」「××したほうがいい」という肯定の形を取るか、「しちゃいけない」「しないほうがいい」という否定の形を取るか、である。まとめると、以下の4つのタイプ; 1 積極的強制「しなきゃいけない」 2 積極的奨励「したほうがいい」 3 否定的強制(禁止)「してはいけない」 4 否定的奨励「しないほうがいい が見て取れる。これら4つがまんべんなく、というわけではないにせよ、普通我々が「道徳」と理解するものをことばにしてみるなら、この4つのタイプのものが一通り出てくるだろう。陳腐な言い換えをするなら、1「よいことをしろ」、2「よいことをしよう」、3「悪いことをするな」、4「悪いことをしないほうがいい」となる。  しかし法律の場合は大いに異なる。民法や刑法は、3、禁止を基本としている。(ちなみに公法は1と3が中心であるように思われる。)これはなぜか? もちろんそれには理由がある。しかしその理由を考慮に入れずに道徳を法律モデルで考えると、重大な見落としをしてしまうことは明らかだろう。 ◇道徳の目的論モデル(1) 功利主義  規則・法律モデルが唯一の道徳モデルではない。むしろ近代以前に支配的であったのは、道徳をルールに即してではなく、有徳の人に即して理解するモデルである。 ex.中国の「人治主義」  それがなんであるか、を論じる前に、絡め手からいく。  いわば道徳の目的論モデル、とでも言うべきものを紹介する。  とりあえず「人間は目的を持ち、それを実現しようとする存在である」と前提する。ある人にとって、その人の目的、その実現はとりあえず「よい」ことであり、その実現に際して役に立つ物事もその限りで「よい」ことである。(逆に目的の実現に邪魔になったり、本来役に立つはずなのにあまり役に立たない物事がその限りで「よくない」「わるい」ことである。)  この理解では、道徳的な意味での「よい」「善」もまたこのようなモデルで理解できる、とする。大雑把に言って、社会にとって「よい」ことが道徳的な「善」だというわけだ。ただしこの場合、複数の人の集合体である社会そのものの「目的」というものを想定しなければならない。ここに大きな難点がある。  たとえばもし神様がいれば、そして人々の社会の外側から、個人の目的を超え、それに優先する上位の別の目的を提示してくれて、それぞれの個人の目的の達成はそれに奉仕するもの、と定義してくれれば、議論はうまくまとまる。たとえばヨーロッパ古代から中世の道徳哲学はそのようなものだった。人間を含む世界は神の創造と導きのもとにある。すべての被造物には神が設定した目的がある。人間とその社会も然り。  しかしそのような神様ないしそれの代わりをする何かがないところではどうしたらよいか? たくさんの個人の目的から、いかにして社会全体の共通のひとつの目的を導き出すのか?   カント的な法律モデルの倫理学と並び、近代倫理学のいまひとつの主流たる功利主義Utilitarianismは、神の退位後の目的論倫理学を目指したものであった。人間は幸福を目指す存在である、との前提のもと、社会にとっての善はその構成員たる人々の幸福を最大にすること、となされた。ここでの難問は、いかにして個々人の幸福を集計して社会全体の幸福を導き出すか? であった。  まずそもそも、異なる個人間の幸福は比較可能か? 比較可能だとしても、足し合わせることはできるか? 足し合わせたとして、その結果が個人たちの集まりとしての社会にとっての幸福だといえるか? といった一連の疑問が次々に浮上する。  たとえ異なる個人の間で幸福の比較と足し合わせが可能であったとしても、以下のようなパズルが生じる。 例1)一人ひとりはあまり幸福でないが人口の多い社会における幸福の総量が、一人ひとりはかなり幸福だが人口の少ない社会における幸福の総量を上回ったとする。どっちがよい社会か? 前者、というのはあまりにも我々の直観に反する。  この難点を回避するため、「総量」ではなく「平均」を指標にしたとしても、 例2)「平均」幸福量は同じだがそのばらつきの度合が違う社会同士を比較してみる。多くの人はばらつきの少ない、つまり平等度が高い社会の方を「よい」と判断するだろう。しかしその根拠は?   この種の批判は早い時期からたくさん出されたが、厳密な論理的分析のメスが入るようになったのは20世紀後半の数理経済学の発達、とりわけノーベル賞受賞者K・J・アロウの「一般不可能性定理」の証明以降である。「一般不可能性定理」によれば、それぞれに異なる価値基準を持つ複数の個人からなる社会において、全員の合意を問題なくえられるような共通の価値基準を導き出すことは普通はできない、と結論される。  このように目的論的倫理学の困難を見ていくと、実はあの欠点だらけの法律モデルの倫理学が、目的論の困難を回避するために作られたようにも見えてくる。 ◇義務論と功利主義の共通点 *法律モデルの逆襲  法律モデルの倫理学、別名義務論型倫理学は、ある意味功利主義、そして目的論的倫理学全般への批判として読むこともできる。  個人に無条件に優越する倫理的価値の主体(国家でも、神でも)の存在を、つまりは個人の目標をそこに包摂してしまえる大文字の「目標」の存在を天下りに前提しない限り、目的論的倫理学は困難に陥る。各個人の目的と価値の多様性とその相互独立性を許す限り、全員の価値の実現を両立させるような全体社会的価値基準は一般的に作れない。  義務論的倫理学は実は、この困難をうまく避けている。おおざっぱにいえば、全員一致の合意の不可能なることを見越して、可能な範囲での最低限の合意を取り付けること、そしてそれを法と道徳の主軸とすること、が目指される。 *近代個人主義・ヒューマニズム  かように対立しあう義務論的倫理学と目的論的倫理学だが、ことはそれだけではない。  とりあえず近代の功利主義倫理学についてみるならば、それはカント的な義務論とその基本的な構えのレベルで共通性を持っている。  第一に、どちらも「個人主義」的である。より具体的にいえば、自分の目的を合理的に追求する主体としての個人の存在を前提条件としている。  第二に、あくまでも「行為」に照準する。義務論は行為そのものないしその前提条件に、功利主義は行為の引き起こす結果にという違いはあるが。すなわち、「行為者」そのものの性質をとわない。つまり、問われるのはあくまで(その意図か、振る舞いそれ自体か、その帰結かという焦点の違いはあれ)「行為」の善し悪しであり、「行為者」の善し悪しは問われない。「よい・わるい行為」は問題になるが「よい・わるい人」は問題にならない。  徳倫理学と呼ばれるアプローチは、それに対して、行為の主体そのもの、人の性質、能力に照準する。(功利主義以前の、古代中世の伝統的目的論は、同時にこの「徳」のレベルをも視野に収めるものであった。 義務論、功利主義ともに結局は自由主義的個人主義というか、近代ヒューマニズムの枠内にある。道徳的な評価の対象になるのは人の「行為」とか「目的」とか「状態(幸不幸)」であって、「人」そのものではない。「人」の「性質」(人間性、等)とかあるいは「存在」(「生きていること・生まれてきたこと」と「そもそも生まれてこなかったこと・存在しないこと」とを比較できるか?)とかは評価の対象にならない。  それは義務論、功利主義(を含めた主流派の近代倫理学)が「人」を尊重しないというわけではない。その逆である。近代ヒューマニズムにとっては、「人」の尊さは比較を絶する絶対的なものである。「人」の存在は道徳的評価が可能となるための前提をなしているのであり、それ自体は道徳的評価の対象にはならない。 ◇道徳の目的論モデル(2) 徳倫理学 *徳倫理学の理由(1):共同体主義  しかし日常的な道徳的言語行為において我々は、ごく普通に「いい人」「悪い人」という風に「人」の性質、そして「人格」自体を道徳的評価の対象としている。これは何を意味するか? 考えられる可能性として; 1.理論的に洗練された近代倫理学は素朴で無反省な日常道徳を批判して、「人格」を道徳的に評価するなどという蛮習を廃するよう提言している。 2.「人格」が道徳的評価の対象になっていることにはそれなりの理由があるが、近代倫理学はそれをなお十分に解明しきれていない。  前者の考え方も面白いが、ここでは後者の可能性を真面目に取ることにする。  まず、既に近代の目的論倫理たる功利主義の困難の理由を「個人に無条件に優越する倫理的価値の主体(国家でも、神でも)の不在」に求めたが、もしもそのようなものの存在を想定するならば、そのような主体は人間の生まるごと、「人格」を道徳的に評価する尺度となる。例えば中世キリスト教倫理はそのようなものであった。個人に対して、その存在に先行し、より上位の道徳的価値を備えたものとしてのコミュニティ、国家、教会、人類社会といった共同体を対比する考え方。今日こうした思考を復権させようとする立場がいわゆる共同体主義Communitarianismであり、この立場からは当然「人」の性質としての「徳」は道徳的評価の対象となる。  この立場からするならば、義務論にせよ功利主義にせよ、近代の倫理(学)、近代ヒューマニズムは、かつてあったトータルな道徳の断片的な残骸に過ぎないということになる。しかし当然近代の立場からは、かつての全体性の回復=偉大な伝統への回帰などそもそも可能なのか、が疑問に付される。 *徳倫理学の理由(2)  しかし徳倫理学への動きは、それとは別方向からも起こっている。  たとえばアロウの仕事を継承しつつ、途上国貧困問題の実証分析や現代倫理学をも踏まえて独自の展開を行ったノーベル経済学受賞者アマルティア・センの「潜在能力アプローチ」について考えてみる。  現代(規範)倫理学・政治哲学の復興の立役者は『正義論』のジョン・ロールズであるが、彼の理論は義務論的な平等主義の構想である。人々の間に基本的な(結果としての利益・幸福ではなく)権利の平等な保障を行う社会を「正義にかなう」とする。  しかしロールズは権利の保障の具体的な枠組みとして、一連の社会的な基本財を最低限万人に供給する、というアイディアを提示する。不平等問題は基本的に財産の不平等問題として考えられている。つまり人に内在的な「性質」、気質、体質、能力の類もまた特殊な「財産」として考えられている。このような考え方にはそれなりの理由がある。「性質」をあたかも取り外し可能なもののごとく扱うことによって、個人の間の差異を無化して、平等な存在とみなすことが容易になる。(このような人間観の「薄さ」はもちろん、共同体主義の批判するところである。)  しかしこのように人の属性、とりわけ経済的な富の生産につながる能力を「財産」として捉えつくすことには細かく見ていけば無理があることをセンは指摘する。そして「財産」とは異なるものとしての「能力」という水準があることを認めた上で、権利の平等の保障のためのターゲットとしては「財産」よりこの「能力」を重視することをセンは主張する。  この考え方は共同体主義とはまったく逆に、近代的な個人主義の圏内に踏みとどまりつつ、しかもなお人の「性質」を道徳的対象として扱うことを目指している。いまだ「人格」総体の扱いはそこではなお明らかではないが……。 ◇現代倫理学のジャーナリスティックな見取り図  ここまで紹介した限りでは;  近代以降の倫理学・道徳哲学(規範倫理学)は、道徳の法律モデル(その代表が義務論)と目的論(その代表が功利主義)との二大潮流に分かれている。  しかしこの両者は近代個人主義を前提としており、個人の行為とその結果を道徳的評価の対象とし、個人の性質・存在そのもの(「人間性」「人格」)は評価の対象としない。  それに対して、個人の道徳的性質、「徳」を道徳の根幹におく道徳理解は近代以前にはむしろ主流であり、近年「共同体主義」として復権してきている。  しかし「功利主義」「義務論」が一枚岩陣営というわけではない。それぞれの陣営(?)は方法論とか、人間存在のとらえ方においてかなり共通してはいるが、結論というか目標というか目指す社会の構想においては、相当に異なることも多い。たとえば功利主義者は19世紀においては進歩的な社会改良主義者であったが、20世紀にはそうでもない。  ところで、20世紀後半における規範倫理学・政治哲学復興にあたってもっとも力があったのはジョン・ロールズの『正義論』であり、これはメタ倫理学全盛の時代へのプロテストであると同時に、英米においては哲学的のみならず世論的にも主流となった功利主義(経済学はいまだに広い意味での功利主義のもとにあるといえよう)に対して権利論(≒義務論)を復権させようという試みであった。  さてロールズのかような挑発に対して、功利主義からの反論はもちろんあった。しかしその後のロールズ正義論をめぐる論争の焦点は功利主義との対決よりもむしろ、その福祉国家的リベラリズムに対する、保守的自由主義、最小国家的リバタリアニズム(その代表者ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』)との対決にあったといえる。そして狭義の倫理学というより、政治哲学の土俵において論争は盛り上がった。そこでの主題は乱暴に言えば「大きな政府(福祉国家)・対・小さな政府」であり、折からの「福祉国家の危機」、先進国の不況と財政危機と新自由主義の台頭もあいまって、活発な議論が繰り広げられた。しかしそれらの論争は、たとえばノージックもロールズも、その目指す政治的目標においては真っ向から対立しつつも、用いる理論装置、前提となっている人間観においてはかなり親近性がある――端的に言えば、どちらも義務論=権利本位的・自然権理論をもちいている――ことに見られるように、必ずしも哲学的にみて面白いレベルで行なわれたわけではない。  これに対して功利主義が復権してきたのは、生命・環境倫理などの、細かい政策決定をめぐるいわゆる「応用倫理」の領域においてであった。そこでの論争の焦点は「人間とは何か」といった、哲学的懐疑のレベルにおいてより深いものであったため、人間理解の根本において対立しあう義務論と功利主義の対決がストレートに行なわれやすかったのではないか。(ピーター・シンガー、デレク・パーフィット等。)  たとえば義務論(権利論)の道具立てでは「動物の権利・幸福」や「(いまだ存在していない)将来世代の権利・幸福」について議論しにくい。義務論においては、道徳的な評価・配慮の対象となる(人や政府がその権利を尊重する義務を負う)相手は、自ら自己の存在価値と権利を主張してくるものでなければならない。権利は定義上、他人に押し付けられるものではない。(押し付けられれば、それは権利ではない。)功利主義にはこのような弱点はない。功利主義には幸福の押し付けをためらう理由はない。 ◇付録 *ロールズ『正義論』 「さて、われわれは社会的協同に参加する人々が、基本的諸権利と諸義務を割り当て、社会的便益の分割を規定する諸原理を、一緒に、一つの共同行為として選択する、と想像してみなければならない。人々はその中で、お互いに対する要求をどのように規制しなければならないか、また何が彼らの社会の基礎となる憲章でなければならないか、を決定しなければならない。それぞれの個人が、彼にとっての善を構成するもの、すなわち、彼にとってそれを追求するのが合理的であるような諸目的の体系を、合理的な省察によって決定しなければならないのと同様に、個人たちからなるグループはまず、そして何よりも、彼らの間で何が正しく何が不正であるのか、を決定しなければならない。この平等な自由の仮説的状況において合理的な人々がなすであろう選択が、とりあえずこの選択問題が解を持つと想定してのことであるが、正義の諸原理を規定する。  公正としての正義においては平等の原初状態が、伝統的な社会契約理論における自然状態に対応する。もちろん原初状態は歴史的に実在した物事の状態として、いわんや文化の原始的な状態として考えられているわけではない。それは正義のある一つの概念化に到るように特徴づけられた、純粋に仮説的な状況として理解されている。この状況の本質的な特徴の一つは、誰も社会における彼の場所、彼の階級的位置ないしは社会的地位を知らないし、また誰も自然的資産や能力の分配における彼の運不運、彼の知性、強さ、といったものについて知らない、ということである。私は更に、当の人々は自分たちの善についての理解も、自分たちの特有の心理的性質についても知らない、とまで仮定しよう。正義の諸原理は無知のヴェールの背後で選択される。このことは、諸原理を選択するに際して、誰も、自然な偶然による帰結や社会的状況上の偶発性によって、利益も不利益も被ることはない、ということを保証する。全員が同じような状況におかれ、誰も諸原理を自分の特有の条件にとって都合のいいようにデザインすることはできないのだから、正義の諸原理は公正な合意ないし取引の所産である。なぜなら、原初状態、すべての人々の、お互いに対する関係の対称性という条件のもとでは、この初期状況は道徳的人格としての、すなわち、固有の目的を、更に私の仮定によれば、正義の感覚をも備えた合理的存在としての個人たちの間で公正であるのだから。いわば、原初状態とは適切な初期の「維持さるべき現状status quo」なのであり、それゆえそこにおいて達成された根本的合意は公正なのである。このことが、「公正としての正義」という名称のゆえんを説明する。すなわちそれは、正義の諸原理はそれ自体公正な初期状況のもとで、それへと合意される、というアイディアを担っている。この名称は、正義の概念と構成の概念とが等しいということを意味しはしない。それは、「メタファーとしての詩」という章句が、詩の概念とメタファーの概念が等しい、ということを意味しないのと同様である。」(Rawls, A Theory of Justice, Harvard University Press, 1971, sec.3, pp.12-13.) 「原初状態のアイディアは、そこにおいてはいかなる合意された原則も正しくなるような公正な手続を設定するためのものである。その目標は純粋に手続的な正義の観念を理論の基礎として利用することである。どうにかして我々は、人々を争わせ、社会的、そして自然的条件を己の利益になるように利用し尽くそうとし向ける特定の偶発性の効果を無化しなければならない。さて、そのために私は、当の人々は無知のヴェールの背後におかれる、と仮定する。彼らはありうべき様ざまな可能性が、己の特定のケースに対してどのような影響を及ぼすかを知らないし、また諸原理をただ一般的な考慮という基盤からのみ評価するよう義務づけられている。  すなわち、当の人々はある種の特定の事実を知らない、と仮定される。何よりも、誰も社会の中での自分の位置、自分の階級的位置ないし社会的地位を知らない。誰も自然的資産と能力、知性や強さ、といったものの分配における己の運不運を知らない。更に、誰も自分の善についての理解、自分の生についての特定の合理的なプラン、あるいは自分がリスク回避性向とか楽観主義的あるいは悲観主義的傾向といった自分の心理的な特徴さえも知らない。これに加えて、私は当の人々は彼ら自身の社会の固有の状況さえも知らない、と仮定する。すなわち、彼らはその経済的ないし政治的状況、あるいはそれが達成することのできた文明と文化の水準さえも知らない。原初状態における人々は、自分たちがどの世代に属するのかについても何の情報も持たない。こうした、知識に関する広範な制約は、一面では、社会正義の問題は、世代内でと同様世代間においても、例えば適切な資本貯蓄率とか、天然資源と自然環境の保全といった問題として発生する、という理由ゆえに適切なものである。更には、少なくとも理論的には、理に適った優生政策という問題もある。原初状態のアイディアを突き詰めるならば、これらのケースにおいてもまた、当の人々は彼らがおかれている偶発的条件について知っていてはならない。彼らは自分たちがどの世代に属していようとそれと共に生きる用意のあるような帰結をもたらす諸原理を選択しなければならない。」(ibd., sec.24, pp.139-137.)  このような理論装置から出発して、ロールズはこの「原初状態」のもとで公正な手続的正義にしたがった合意の結果として導き出されるであろう「正義の二原理」を提示する。すなわち、 「第一:各人は、他人の同様の自由と両立しうる限りで最大限に包括的な基本的自由への平等な権利を有するべきである。 第二:社会的、ならびに経済的不平等は、(a)すべての人の利益となることが理に適った形で期待され、かつ(b)すべての人に対して開かれた地位と職務に付随するように設定されるべきである。」(ibd.,sec.11, p.60.)  更に修正された形では、 「第一原理  各人は、すべての人にとっての同様の自由のシステムと両立しうる限りで最大限に包括的な、平等な基本的自由のトータルなシステムへの平等な権利を有するべきである。  第二原理  社会的、ならびに経済的不平等は、次のように設定されるべきである。すなわち、  (a)正当な貯蓄原則と整合的な限りで、もっとも恵まれない人々の最大限の利益に貢献する。  (b)公正な機会の平等のもとで、すべての人に対して開かれた地位と職務に付随する。」(ibd., sec.46, p.302.)  ロールズの第二原理(格差原理)が、ベヴァリッジ・プランにあるようなナショナル・ミニマム論ではないことに注意せよ。  万人に「ナショナル・ミニマム」を保証するような国家においては、生活水準において最低の人のその生活水準が、もし仮に「ナショナル・ミニマム」を上回っているようであれば、政府は何もする必要がない。それがな「ナショナル・ミニマム」を下回っている場合に限り、介入が必要となる.  ロールズの格差原理の場合には大まかに言って発想が逆である。とにかく最も恵まれない人々の利益を最大にしよう、というのである。もちろんそのための資源(財源)はより恵まれた人々の稼ぎ・財産から(税金などを徴収することによって)持ってこなければいけない。そして、恵まれた人々にあまり重い負担(高い税率など)をかけてしまうと、恵まれた人々がやる気を無くしてしまうので逆効果である。だからこの逆転が起きてしまう手前で、恵まれない人々の生活改善はやめなければならない。しかしその手前に来るまでは、どんどん再分配をやるべし、というわけである。これはとんでもなくラディカルな提案であることに注意せねばならない。  ロールズの理論の弱点は、第一に「「原初状態」の想定はどの程度もっともらしいか?」であり、第二に「仮に「原初状態」論を受け入れたところで、それが正義の二原理に――とりわけ第二原理にストレートに結びつくか?」であろう。 *ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』  拙稿「メタ・ユートピアの構図」(http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/nozick~1.htm)を参照。 *ピーター・シンガー『実践の倫理』 (補充予定) *デレク・パーフィット『理由と人格』 (補充予定) *アラスデア・マッキンタイアー『美徳なき時代』 ・近代的道徳の隘路 「[18・19世紀西欧における道徳の正当化の企て[プロジェクト]]の失敗の理由は、一方で道徳の規則と教えについて彼らが共通に考えていることと、他方で人間本性について考えていることの共通部分――相違点のほうがずっと広範であるにもかかわらず――との間に根絶し難い不一致があることである。」『美徳なき時代』篠崎栄訳、みすず書房、65頁下 「この[アリストテレス『ニコマコス倫理学』に由来する]枠組においては、〈偶然そうであるところの人間本性(未教化の状態における人間本性)〉は、初めは倫理の教えと一致・調和しておらず、実践的な理性と経験からの教示によって〈自らのテロス〔目的〕を実現したならば可能となる人間本性〉へと形を変える[トランスフォーム]必要がある。」66頁上 「プロテスタントとカトリック双方の神学を世俗が拒絶したこと、アリストテレス主義を科学と哲学の世界が拒絶したこと、この両者の結果が合わさって、〈自らのテロスを実現したならば可能となる人間〉といった観念は一切除去されてしまった。[中略]そこに残されるのは、その関係がまったく不明瞭になった残る二つの要素から構成されたある道徳枠組となる。一方の要素は、ある種の道徳内容、つまり目的論的文脈を奪い取られた一そろいの命令であり、他方の要素は、〈あるがままの未教化の人間本性〉についてのある種の見解である。」68頁下 「こうして理解された道徳の命令に対しては、このように理解された人間本性は不服従への強い傾向をもつようになりがちである。」69頁上 「諸徳は実際今や、アリストテレス的枠組においてと違って、規則や法の役割・機能とは区別され対照されるべき役割と機能をもつものとしてではなく、道徳の諸規則への服従をまさに必要な性向であると考えられるようになる。」284頁下 ・徳の倫理 「私たちが「腕時計」と「農夫」という二つの概念を定義するのは、腕時計と農夫が果たすことを特徴的に期待されている目的あるいは機能についてである」「腕時計という概念はよい腕時計という概念から独立には定義されえない」72頁下 「「何々」が機能概念によって特定される事項をさしている場合に、適切な基準が満たされていることを主張する前提から「これはよい何々である」と主張する結論へと移行する論証があるとすれば、それはどれも、事実的前提から評価的結論へ移行する妥当な論証ということになる。」72頁下〜73頁上 「古典的・アリストテレス的な伝統内部での道徳論証――そのギリシア的形態のであれ中世の形態のであれ――は、少なくとも一つの主要な機能概念を含んでいる。すなわち、本質的なあり方(an essential nature)そして本質的な目的(purpose)あるいは機能を有するものとして理解された人間(man)という概念である。[中略]つまり古典的伝統の内部では、「腕時計」と「農夫」が「よい腕時計」と「よい農夫」に対するように、「人間」は「善い人間」に対しているのである。」73頁上〜下 「この伝統の内部では、道徳的・評価的言明は、まさしく他の全ての事実言明と同じ仕方で、真または偽と呼ばれうるのである。しかし、人間の本質的な目的や機能の観念が道徳からいったん消失すると、道徳判断を事実言明として取り扱うことは首肯できないと思われ始めるのである。」74頁下 「諸徳は、特定の仕方で行為するだけではなく、特定の仕方で感じる性向でもある。」183頁下 「教養ある道徳行為者は、有徳な仕方で判断し行為するとき、自らが何をしているのかをもちろんしっていなければならない。こうして彼は、有徳なことを、それが有徳であるがゆえに行うのである。この事実こそが、徳の行使を、徳ではなくむしろ徳の幻影(simulacra)にすぎないある種の特質から区別するのである。」183頁下 ・英雄社会の徳 「英雄社会における諸徳についての説明は、その社会構造での脈絡からそれらの徳を分離したならば、決して十分なものとはなりえないのである。[中略]そもそも、一揃いの社会的絆しかないのである。それと区別されたものとしての道徳はまだ存在していない。」151頁上〜下 「英雄社会には通常、外側からその社会に入ってくるどんなよそ者にもあてがわれうる明確に規定された地位が用意されていた。ギリシア語においては「異国の」(alien)に対応する言葉と「客人」(guest)に対応する言葉は同じ言葉である。よそ者は、制限つきではあっても明確に規定された厚遇をもって迎えられるはずである。」151頁下〜152頁上 「英雄社会の中心的主題としてもう一つ、死が[内部の者とよそ者]両者を差別なく待ち受けているということがある。」152頁上 「それゆえ、なすべきことをなす人は自己の運命と死に向かって着実に進んでいく。最後に控えているのは、敗北であって勝利ではない。そして、このことを理解することがそれ自体一つの徳なのである。[中略]それはたしかに、人間の生というものが一つの確定した、ある種の物語[ストーリー]の形をもつということである。」152頁下〜153頁上 「『イーリアス』を書いた詩人が理解し、その登場人物たちが理解していない点は、勝利もまた敗北の一形態かもしれぬということである。」157頁上 「ニーチェが描くことは、貴族的な自己主張〔我意を押し通すこと〕であるが、それに対してホメロスとサガが示すことは、ある役割に固有でそれが要求する主張形態なのである。」158頁下〜159頁上 ・古典古代の徳 「ホメロスの叙事詩あるいはアイスランド、アイルランドのサガによって描かれたような英雄社会は存在したかもしれないし、しなかったかもしれない。しかし、それらが存在していたという信念は、古典社会とキリスト教社会にとっては決定的に大事であった。というのも、それらの社会は、英雄社会の抗争から興ってきたものとして自己を理解し、自らの立脚点を部分的にはその勃興に基づいて定義していたからである。[中略]英雄文学は、これら後代の諸社会の道徳的教典の中心的部分となり、それらの社会の主要な道徳的特長の多くが生じたのは、これらの教典を現実の実践に関連づけることに含まれる諸困難からなのであった。」181頁上〜下 「ホメロス的人間にとっては、彼自身の共同体の構造に具体化された、訴えが向けられる基準の外部には、何も基準が存在しえない。それに対してアテナイの人間にとっては、事態はもっと複雑である。諸徳について彼が理解するということは、彼が自分の共同体の生活を疑問視し、あれこれの実践や政策が正しいかどうか問うことのできる基準を実際に手に入れることである。にもかかわらず彼は、諸徳についての自分の理解をもっているのは、その共同体の一員であることが自分にそのような理解を与えているからに他ならない、ということも認めているのだ。」163頁下〜164頁上 ・近代的道徳の先駆としてのストア主義 「意志と法を強調する形での道徳生活のこの内面化は、新約聖書のいくつかの章句のみならずストア哲学にまで遡る考え方である。」206頁上 「アリストテレス的見解とは異なってストア派の見解では、アレテー〔徳〕は本質的に単数表現で語られ、個人がアレテーを所有するかどうかは〈全てか無か〉の事柄なのである。」206頁下 「正しいことをなすことは、快楽や幸福、身体的健康を、あるいは世俗的なものであれ実際他のいかなるものであれ成功を、必ずしも産み出すわけではない。ただし、これらのうちのどれも正真正銘の善ではない。これらが善となるのは、正しく形成された意志をもつ行為者が正しい行為をなす際の助けになるという条件においてのみである。そうした〔正しく行為しようとする〕意志のみが無条件に善いのだ。それゆえストア哲学はテロス〔目的〕という観念を一切放棄したのである。」206頁下 「自然的正義に関するアリストテレスの短い言及について論じる中で私が示唆したのは、ある共同体が、そこに共通の仕事をもたらす共有された善に方向づけられたものとして、そこでの生活を見なしている場合、その共同体は、諸徳と法の両者に基づいてそこでの道徳生活を明確に表明する必要があるだろうということだった。この示唆はおそらく、ストア哲学において起こったことを解く手がかりとなる。というのは、そうした形態の共同体が消滅したとすると、諸徳と法の間のいかなる理解可能な関係も消滅するだろうからであり、まさにそうした消滅こそ、政治的生活の唯一の形態としての都市国家がまずマケドニア王国に、後にはローマ帝国に交替していったその事態に含まれていたのであった。そのようなときには、正真正銘の共有された共通善は存在しないだろう。そして善はもっぱら個人にとっての善となるだろう。そしていかなる私的な善の追求も、こうした環境においてはしばしばそして必然的に他者にとっての善と衝突しがちになるので、道徳法の要請と食い違いをきたすことになるだろう。それゆえ、もし私が法を固守するならば、私的な自己を抑圧することが必要となろう。法の目的は法を超えた何らかの善の達成ではありえない。というのは、いまやそうした善は存在しないように見えるからである。  そして、以上の論が正しいならば、ストア哲学は、一つの特殊なタイプの社会的・道徳的展開、すなわち近代のいくつかの様相を驚くべき仕方で先取りしているタイプの展開に対する応答であるといえる。」207頁下〜208頁上 ・カトリック社会の徳 「しばしばキリスト教と異教の諸要素は、様々な程度の妥協と緊張の中で共存していたが、それは、ホメロス的諸価値が前五世紀の都市国家の諸価値と共存していたのと同様である。」203頁下 「キリスト教は、性格の欠陥ないし悪徳という概念のみならず、神法に対する違反すなわち罪という概念をも要求する。個人の性格はいかなる所与の時においても徳と悪徳の混合物であるだろうし、そしてこれら徳と悪徳という性向は、一定の方向に動くべく意志を先取りするだろうが、しかしこれら徳と悪徳からの促しに同意するかしないかは、常に意志に委ねられているのである。」206頁上 「カトリック教徒にとっては更にどこが違ってくるかと言えば、それは、この世のどんな共同体に属していようとも、私は、自分もその中である役割をもっている、天上的な永遠の共同体――地上においては教会によって象徴される共同体――の成員としてもまたみなされるという点である。もちろん私は、これらの形態の共同体のいずれからも追放されたり、離脱したり、あるいは他の仕方で共同体内での自分の地位を失ったりすることがある。それは、私が追放者、よそ者、放浪者になりうるということだ。そして、これらもまた、古代・中世の共同体の中では認知されていた、人に割り当てられる社会的役割なのである。しかし私が人間にとっての善を求める必要があるのは、常に秩序ある共同体の一部としてであり、そしてこの意味の共同体においては、孤独な隠遁者や人里離れた山腹の羊飼いも、都市の住民たちと同様に共同体の成員なのである。」211頁上〜下 「諸徳の道徳と法の道徳との関係を理解しようとする過程で私が先に示唆したのは、その関係を理解可能なものにするために補われる必要のある文脈とは、共通善を達成するという皆が参加する事業によって構成された形態の共同体がもつ文脈である、ということであった。そうした共同体はこの事業のために、その善を達成するのに助けとなる一揃いの性格特性――諸徳――と、そうした形態の共同体にとって必要な諸関係を破る一揃いの行為――共同体のほうによって起訴されるべき諸々の犯罪――との両者を認知する必要がある。後者に対するふさわしい応答は刑罰であり、そして実際人間社会は、そのような行為に対して一般的には刑罰で応答してきたのである。しかし聖書の文化では、アリストテレスの文化とは対照的に、選択可能なもう一つの応答が有効なものになった。すなわち、赦し(forgiveness)という応答である。  [中略]赦しの実践は裁判の実践を前提とするが、両者の間には次の決定的な違いがある。すなわち、裁判はその特徴として、共同体全体を代表する非人称的な権威である裁判官によって執行されるが、これに対して赦しは被害者の側からのみ差し出すことができるのである。赦しにおいて発揮されている徳は愛である。」213頁上〜下 「愛がその目録に含まれたことで、〈人間にとっての善〉という概念は根源的な仕方で変えられたのである。というのは、その善が達成される場である共同体は、和解の共同体(commnity of reconciliation)でなければならないからである。」213頁下 「「諸徳についての特定の関係はどれも、人生のもつ物語的(諸)構造についての何らかの特定の観念に結びついている」と一般化しよう。中世盛期の枠組においては、物語の中心的類型は探究(quest)や旅(journey)の物語である。人間は本質的に途上に(in via)ある。彼が求めている目的とは、もし獲得されたならば、その時点までの彼の人生における間違いのすべてを贖うことができるような何かである。」214頁上 「アリストテレスの立場では、一方で善い人になり損ねていること(failure to be good)と他方で積極的な悪(positive evil)を区別することはきわめて困難である。[中略]悪のもつこの次元は、聖アウグスティヌスがアリストテレスのしなかった仕方で直面せざるをえなかったものであった。アウグスティヌスは、全ての悪を欠如として理解した点で新プラトン主義の伝統に従ったが、それでも人間本性のもつ悪を、意志が悪に与える同意の中に見ている。」214頁下〜215頁上 「アリストテレスが、人間の善そのものつまりエウダイモニア〔幸福〕を達成する可能性は外的な不運によって挫かれることがあると考える[中略]。〔これに対して〕中世的視野の中で重きをなすのは、〈そうした諸特徴があるからといって人間の善そのものから締め出されるような人は誰もいない〉との信念だけではなく、〈私たちさえ悪の共犯者にならなければ、起こりうるいかなる悪もまた、私たちを締め出すにはおよばない〉との信念でもあるのだ。」215頁下 「そこでこのような中世の見解では、諸徳とは人々に自分たちの歴史となる旅の途上で諸々の悪を生き抜く力を与えるような諸性質ということになる。」216頁上 ・徳・物語・歴史 「外的な善と呼んだものに特徴的なことは、それが達成されたときには常にある個人の財産、所有物になることである。さらに、その特徴的なあり方は、誰かがそれをより多く持てば、それだけ他の人々の持ち分が少なくなることである。[中略]内的な諸善とは、実際、卓越しようとする競争の結果であるが、その諸善に特徴的なことは、それらの達成がその実践に参加する共同体の全体にとっての善であるという点である。」234頁上 「諸徳は、外的な善と内的な善に対しては異なる関係に立っている。諸徳の所有――その見せかけや幻影だけというのではなく――は、後者を達成するのに必要であるが、しかし、諸徳を所有することで外的な善の達成を完全に妨げられることも十分ありうる。」240頁下 「功利主義というものが実践にとっての内的な善と外的な善との区別に適合しない」243頁下 「伝統が認知している徳の中には、人生の全体に言及するのでなければまったく特定できない少なくとも一つの徳――全一性[インテグリティ]あるいは志操堅固[コンスタンシイ]という徳――が存在する」248頁下 「〈理解可能な行為〉という概念は端的な〈行為〉という概念より根本的な概念だ」(256頁上) 「一つの行為とは、ある可能的あるいは現実的な歴史、または複数のそうした歴史の中での一契機(moment)なのである。〈歴史〉という観念は〈行為〉のそれと同じくらい根本的な観念であって、それぞれが他方を要請している。」262頁上 「ちょうど歴史が諸行為の連続ではなく、〈行為〉という概念は、ある目的のために歴史から抽象された、現実的ないし可能的歴史における〈契機〉(moment)という概念であるように、歴史の中の登場人物[キャラクターズ]たちも人格[パーソン]の集合ではなく、〔逆に〕〈人格〉という概念が、歴史から抽象された、〔もともとは〕〈登場人物〉という概念なのである。」266頁下 「人間の生の統一性は、物語的な探求(narrative quest)の統一性である。」268頁下 (2004年6月)