影薄い「自由な個人」 ロングラン『もののけ姫』を読み解く

 稲葉振一郎

『朝日新聞』1998年3月18日文化欄

 日本映画史上空前の大ヒットを記録し、昨夏以来いまだロングランを続ける宮崎駿監督の劇場用アニメ『もののけ姫』はたしかに優れた作品であった。しかし、違和感、不満もまた拭い難く私の中にある。
 簡単に言えばその不満とは、『もののけ姫』は宮崎駿の名を世に知らしめた劇場用アニメ『風の谷のナウシカ』の限界の克服として描かれたマンガ版『風の谷のナウシカ』以後の作品であるにもかかわらず、部分的にはアニメ版『ナウシカ』の地平まで後退している、ということだ。
 アニメ版『ナウシカ』の弱点、甘さは何より「自然」の擬人化、物象化にある。「自然」などというものはない。あるのはさまざまの具体的な生物、無生物たちであり、その関係性である。そこをおおざっぱに「自然と人間との闘いと和解」という形で括ったのがその甘さである。
 アニメ版から十余年を経て完結したマンガ版『ナウシカ』はしかし、人間を圧倒する「自然」の背後に人為的な地球改造計画を、「自然と人間との闘い」の背後に過去の人間が未来の人間に仕掛けた隠微な戦争を看破する。しかし物語はそこでは終わらず、もともと「自然」を偽装する陰謀の道具として造られた人造生命たちが、そうした人間の思惑を超え、語の真の意味で自然な、人間とは別の存在となる様を描き、アニメ版の甘さを振り切った。
 これに対して『もののけ姫』ではどうかと言えば、そこに登場する生き物たちは「神」として擬人化され、それら神々と人間との闘いも人間同士の闘いと質的に異ならない「戦争」として描かれている。もはや人間の理解の外にあるが、しかしたしかにそこにいるマンガ版『ナウシカ』の人造生命たちとの違いは大きい。
 とは言え『もののけ姫』はそれだけの作品ではない。物語の実質的な主人公は森を切り開いていく製鉄者集団、タタラ衆である。アニメ『ナウシカ』の甘さは、「自然」を征服しようとする「人間」中心の立場を帝国主義者に、「自然」と共に生きようとする立場を辺境の庶民にそれぞれ割り振ることによって糊塗されていたが、『もののけ姫』の世界はそう都合よくできてはいない。タタラ衆は支配や差別から解放された自由な空間を、まさしく「自然」を破壊することによって造り上げていく。
 明らかに網野善彦氏の中世史研究に触発されたこの構想は、白土三平氏のマンガ『カムイ伝』と比較すると更に興味深い。大学闘争の時代に描かれた『カムイ伝』第1部の主人公は農民、百姓、被差別部落民であり、物語の主題は彼らと武士、領主、幕府権力との階級闘争であった。ところが現在雑誌連載中の第2部はやはり網野史学、そして同じく網野史学に影響された故隆慶一郎氏の小説に触発されて大きく変わっている。
 第2部では階級、身分というカテゴリー自体が重要性を失い、かわって「職能」とでも呼ぶべきコンセプトが前面に出てくる。そこでは漁民、土木技術者、山師、たたら者、等々土地に固着せず市場経済に積極的に係わっていく非農職能民たちの姿が様々に活写されている。いや、被差別民たち、それどころか武士や忍者さえも、その職能集団としての側面をクローズアップされているのだ。
 こうした転換が、タイトルロールたる抜け忍カムイに、己ひとりの生存で精いっぱいの無力な逃亡者、階級脱落者から、抜け忍たることを危険と背中合わせの自由として肯定し楽しむ、独立独歩の果敢な戦士への変ぼうをもたらしている。
 かつて宮崎氏はインタビューで、『カムイ伝』の屈折を階級闘争史観の挫折として解釈した。マンガ『ナウシカ』、そして『もののけ姫』は白土氏と同じく宮崎氏もこの挫折を誠実に全うし、その先を模索していることを示している。階級闘争論や素朴エコロジズムがおちいりがちな宿命論をはねのけ、人間の自由をその直面する困難を踏まえた上でなお肯定する道を、日本の歴史の語り直しを通して見いだそうとするその営為は、ひとつの「日本の自前の近代」構想なのかもしれない。
 しかしそれでもなお気になるのは、『もののけ姫』には『カムイ伝』第2部や隆作品と比べて、いや、実のはこれまでの宮崎作品と比べても、気ままでタフな個人の影が薄いことだ。たしかにタタラ衆は自由な人々であるが、自由な個人ひとりひとりの姿は十分に描かれてはいない。普通の意味での主人公たる蝦夷の少年アシタカともののけ姫サンは、第1部のカムイのごとき宿命に抗う者ではあれ、第2部のカムイのような宿命を意に介さない自由人ではない。しかし宮崎アニメの原点『未来少年コナン』のジムシイならば、「シュクメイ? 何だそれ、食えるのか?」とキョトンとして訊ねることだろう。

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