メタ・ユートピアの構図
 ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』再読

                                   稲葉 振一郎
                              『情況』1996年8・9月号


 ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』*1を今日読み返してみると、ともすればやや古くさいという印象を受ける。著者であるノージック自身、本書で提示されたリバタリアニズムの政治思想を今日では放棄しているというが *2 、その理由自体は私のあずかり知らぬところである。ここではもちろん、私自身におけるそうした感想の根拠を提示せねばならない。
 本書で展開された社会モデルは一見してわかるとおり、新古典派経済学のそれに大いにインスパイアされている。出発点としてのロック的自然状態は、道徳規範の確立された無政府状態であり、そこにおける道徳の根幹は個人の権利の不可侵性にある。ここで権利は実現されるべき状態として、あるいは行為の積極的領導原理として導入されるのではない。そうではなく他人の権利が「付随制約side constraint」としてそれぞれの個人の前に立ちふさがり、個人が正当になしうることの範囲を予め制約しているのである。個人の権利の具体的な内容は、本質的に自己のそれと同一である他人の権利を侵害しない限りにおいて、自由に行動し、自分の身体と財産を処分できる、というものである。財産の獲得は自己の労働によって、並びに他人からの双方の合意に基づく移転を通じてのみ、正当に行われる、とされる。
 この道徳的制約の下で、各個人は自己の利益を最大化するように行動する。この想定はいわゆるホモ・エコノミクス、合理的経済人のそれと矛盾するものではない。のみならず個人間の社会関係も基本的に自発的合意によるサービスの交換をベースとして展開されるものとしてそこでは描かれ、国家もまたこのような交換の連鎖の果てに、道徳規範の裁定と執行というサービスをそのメンバーに提供する自発的結社の変態したものとして構成可能である、とされる*3 。すなわちそこでは国家を含めたほとんどの社会的組織体が、市場における自発的交換の所産としてモデル化されるのである。その結果、自発的交換の域を超えた強制的再分配を国家が行うことは道徳的に容認されない、と結論される。つまり道徳規範の裁定と執行というサービスのみを独占し強制する「最小国家」のみが支持され、福祉国家と社会主義のプログラムが強く批判される。
 ところで本書が発表された1974年前後は、「経済学第二の危機」が叫ばれ、アメリカでは少なからぬ若手経済学者がマルクス主義を受容して、新古典派正統に挑戦するラディカル・エコノミクス運動を進め始めた時期であるから、本書の議論はその出版当時においても、少なからぬ人々にとってむしろ時代遅れの、反動的な代物と映ったであろう。それでもなお本書が現代の古典として生き延び、広く読まれたことにはだから、こうしたマイナス評価を跳ね返すに足るいくつかの理由があったと考えられる。
 第一に、ややシニカルな見方であるが、ディシプリンとしての規範的倫理学、社会哲学の相対的な後進性という事情が挙げられる。なにしろ本書が主要な批判対象としている先行業績たるジョン・ロールズの『正義論』*4の出版でさえ1971年のことであり、アカデミックな哲学サイドからの政治思想書として本書はなお貴重な存在であったはずである。
 第二に、本書はあくまでも規範的理論の書であって、現実の実証的な分析を主題としてはいなかった。それゆえに新古典派経済学のモデルを利用しても、「新古典派は経済の現実をよく説明できない」、といった類の批判からは身をかわすことができたのである。
 そして第三に、純粋に規範的な社会モデルの構想の道具としてみれば、新古典派経済学もそれほど捨てたものではない、との主張として本書を読むこともできる。本書は新古典派的な思考のポテンシャルを当の経済学者たち以上に徹底的に追究して、その予想外の魅力を説得的に提示したとも言える。
そして更に本書に対しては、その後の歴史の中で追い風が吹いた。石油ショック以降に先進諸国を襲ったスタグフレーションと財政危機は社会経済政策思想における古典的自由主義の復権を促し、その中で本書もまた古典的自由主義ルネッサンスの重要な理論的成果として読まれるようになった。
 しかしながらことに1990年代以降、思想としての古典的自由主義の復権も一段落し、それでは処理しきれない現実の様々な問題の噴出に我々はさらされている。 古典自由主義的な経済政策は公企業の民営化、公益産業の規制緩和などにおいては一定の後戻り不能の成果を挙げたが、赤字財政の再建には決して成功せず、かえって総体としての福祉国家の解体がほとんど不可能であることが明らかになった。とりわけ80年代の間、福祉政策、社会資本投資をなおざりにしてきたアメリカ合州国社会の荒廃は深刻である。また社会主義経済圏は崩壊したが、その後の市場経済への移行は困難を極めている。そしてやはり社会主義圏の崩壊の帰結である民族紛争の多発は、政治統合の原理としての自由主義の有効性を、古典的、19世紀的自由主義についてのみならず、それが批判対象とした20世紀的、福祉国家的自由主義についてまで疑問に付している。
 また本書が書かれて以降、新古典派経済学も大いに様変わりした。ゲーム理論、ことに1994年度ノーベル賞受賞者の一人であるジョン・ナッシュの均衡概念を軸とした非協力ゲームの理論は経済学全体の基礎理論となりうるだけの射程を有するものとして自己主張を始め、新古典派の射程外にあった非市場的行動、制度や組織の理論をも一貫した形で組み立てるという作業が着々と進行している *5 。こうした立場からすれば、伝統的な新古典派のなかに潜在していた、完全競争市場の経済社会は「自由放任」状態の理想的な極限のモデル化である、という想定は根拠を欠くものとなる。とりわけ、古典的な一般均衡理論では、経済の均衡は技術や主体の選好、そして情報ネットワークの構造によって決定されており、初期の歴史的状態には依存しない、と考えられがちであったが、近年では同じ構造を持った経済においても複数の均衡が成立し、かつどの均衡が実現されるかは初期状態や歴史的経緯に左右されるという「経路依存性」*6が問題とされるようになり、完全競争市場という理想の自然さは大いに損なわれている。


 以上のごとき経緯のゆえに、『アナーキー・国家・ユートピア』という著作の説得力は、ドグマの提示としても社会理論としても、かつてに比べると減じてきていることは否めない。私はそれゆえに本稿冒頭で「やや古くさい」と書いた。それはもはや最新ファッションからは外れている。だがなお本書において決して古びていないもの、それどころかなお時代に先んじ続けているものもたしかにある。それは何か? 
 第一に、たしかに彼の描く完全競争市場の論理の支配する社会のモデルは全体としては古くさいものである。しかしながらここで見落としてはならないのは、そこに登場する人々が何を求め、何を行うか、である。人々はそこで自由な創意に基づき、自発的な合意によって連帯して多種多様なコミュニティを作り、それらのコミュニティ間で、より魅力的な生活、意義ある生のサポートを目指した公正な競争を行う。そのヴィジョンはたしかに自由主義的ではあるが、しかし決して個人の自由主義にとどまるものではなく、共同体の自由主義なのだ*7
 コミュニティ、共同体という言葉よりも、むしろここでは組織、ないしは自発性に基づく緩やかな共同性を含意したアソシエーションという言葉の方が似つかわしいであろう。翻って見れば、自由主義思想に対する批判として古典的なものの一つは、現代の我々は組織の社会に生きており、個人に定位するきらいの強すぎる自由主義思想はそこにおける生の指針としては無力になっている、というものであった。しかしながら本書は組織社会のための自由主義思想、組織をただ無視するのでも、反対するのでもない、組織のある社会、組織としての社会のための自由主義思想の可能性を示しているのである。


 第二に*8、本書の表題が『アナーキー・国家・ユートピア』となっていることの意味を軽く考えてはならない。本書は全3部で構成され、その第3部はまさに「ユートピア」と名付けられているのである。分量的にはこの第3部はただ1章のみからなり、本書中に占めるウェイトは一見少ないが、それにもかかわらず一つの部として独立していることの意義はどれほど強調しても足りない。
 この第3部「ユートピア」の課題は、「しかし最小国家の概念または理念は、渇望の対象となる魅力に欠けるのではないか。それは、心をぞくぞくさせ、人々に闘争と犠牲の気持ちを奮い立たせることができるだろうか。誰か一人でも、その旗の下にバリケードを築こうという気になるだろうか。」( 481頁)という一文に要約されている。つまり本書の叙述の順序に従えば、「最小国家」の概念はまずは一方の極のアナーキー、他方の極の福祉国家や社会主義体制を含めた「拡張国家」という、積極的な社会構想、それぞれ対極にありながら、共に社会の現状を批判し、人々のよりよい生き方へを可能とするユートピア的枠組みを追求する思想との対比において、消極的な形で導き出されている。そこでノージックは「最小国家」の理念が、あれも駄目これも駄目という手詰まりの中での消極的な選択肢などではなく、それ自体としての魅力を持つ積極的な選択肢でありうること、それは一つのユートピアでありうることを示そうとするのである。
 ノージック自身も認めているように、「最小国家がユートピアでないことは明白であるように見える。」( 481頁)実際、フリードリッヒ・フォン・ハイエクに代表される今世紀後半の新自由主義、古典的自由主義の復権の試みは、社会主義計画経済体制の批判から出発し、あるべき社会の枠組みを設計することを全体主義的な「理性の傲慢」として退けてきたのである。この伝統は一見、ユートピアからは最も遠いものであるようにも思われる。しかし実は新自由主義者たち自身の主張もまた、あるべき社会の枠組みの設計というべきものになってしまっているには違いない。ハイエクは社会主義や福祉国家を批判して、誰が設計したわけでもない「自生的秩序」としての市場経済や慣習法を中軸とした社会、一見不合理的に見えつつも、一種の進化の過程の中で生き残ってきた叡智の集積としての伝統に基盤を持つ社会を理想として描くが、それもまた現実の社会に対するトータルな批判と改革への指針である限りにおいて、多分にユートピア的である。確かに彼が生涯をかけて批判してきた社会主義計画経済体制は崩壊したが、やはり一見崩壊しそうにも思えたケインズ主義的福祉国家は、意外なほど頑強な生命力を保っている。この意味でハイエクが批判した「設計主義 constructivism」は、単に悪しきユートピア、20世紀の現実を侵してきたが、いまや歴史はそこから覚めつつある悪夢だったというのではなく、もはや我々にとって市場や慣習法と同じく逃れ難い伝統の一部となってしまった。つまりユートピア批判としての新自由主義もまた一個のユートピア思想であり、反面すべてのユートピア思想もまた我々の伝統の一部なのである。ノージックはこうした事情を明らかに自覚している。それゆえに彼は自らの著作の題名に堂々と、「ユートピア」の一語を刻み込んだのである。
 ではいかなる意味において「最小国家」の下における社会はユートピアであると言えるのか。ノージックの答えは「選択の自由」と要約してもよさそうである。しかしそれはハイエクの直弟子ミルトン・フリードマンの言うそれとは異なり、個人的な「選択の自由」に止まるものでは決してない。それは社会の選択の自由である。より正確にノージックの解答の要約を行なうとすれば、「ユートピアはメタ・ユートピアである」( 506頁)となるだろう。この点でノージックは新自由主義の本流ともいうべき、オーストリア学派やシカゴ学派の経済学者たちの大部分と決定的に袂を分かっている。
 やや長くなるが、以下、ノージック自身の言葉で語ってもらおう。

「ユートピアの特質を(顕著に)もつことになる社会に対して我々が課したいと思う様々な条件の全体は、総合的に見れば整合的ではない。社会的、政治的な良きもの(goods)のすべてを同時に実現しかつそれを継続することは不可能だということは、人間の条件に関する、検討し嘆くに値する残念な事実である。(中略)しかしユートピアは、ある限定的な意味で、我々すべてにとって最善、我々各人にとって想像できる最善の世界、でなければならない。」( 482頁)
「最初の道筋は、人々が異なるという事実から出発する。」( 502頁)
「全員が住むべき最善の社会が一つある、という考えは、私には信じられないものに見える。」( 504頁)
「導くべき結論は、ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり、人々が異なる制度の下で異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう。(中略)ユートピアは、複数のユートピアのための枠であって、そこで人々は自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとするが、そこではだれも自分のユートピアのヴィジョンを他人に押し付けることはできない、そういう場所なのである。」( 505-6頁)
「枠は、二つの点で他のすべてのユートピアの記述よりも優れている。第一にそれは、ほとんどすべてのユートピア主義者にとって、彼の構想の具体的構想の如何にかかわらず、将来のどこかの時点で受容可能となるだろう。第二にそれは、どんな具体的ユートピア構想に対しても、その実現や例外なしの勝利を保証しはしないが、ほとんどすべてのユートピア構想の実現と両立する。」( 517頁)
「我々は、三つのユートピア主義者の立場を区別することができる。つまり、全員に一つのパタンのコミュニティーを強制することを許す帝国主義的ユートピア主義、一つの特定種類のコミュニティーに住むことを全員に対して説得しまたは確信させようという希望をもつが、それを強制しはしない伝道的ユートピア主義、必ずしも普遍的にではなくともある特定のパタンのコミュニティーが存在し(存続可能であり)、そうしたいと思う者がそのパタンに従って生きることを希望する実存的ユートピア主義、である。実存的ユートピア主義者は、枠を心底から支持することができる。(中略)伝道的ユートピア主義者達は、その熱望は普遍的だが、彼らの好みのパタンへの支持が自発的である点が決定的に重要だと考えるので、実存的ユートピア主義者達とともに枠を擁護するだろう。(中略)他方帝国主義的ユートピア主義者達は、彼らに不同意の者が他にいる限り、枠に反対するだろう。」( 518-9頁)
「枠は自由尊重主義的、レッセ・フェール的であるが、その中の個々のコミュニティーがそうである必然性はないし、あるいはその中でどのコミュニティーもそうであることを選ばないかもしれない。」( 520頁)
「我々がこれまで述べてきたユートピアのための枠は、最小国家に等しい。」( 539頁)
「最小国家は我々を、侵すことのできない個人、他人が手段、道具、方便、資源、として一定のやり方で使うことのできないもの、として扱う。それは我々を、個人としての諸権利をもちこのことから生じる尊厳を伴う人格として扱う。我々の権利を尊重することで我々を尊敬をもって扱うことによって、それは我々が、個人としてまたは自分の選ぶ人々とともに、同じ尊厳をもつ他の個人たちの自発的協力に援助されて、自分の生を選び、(自分にできる限り)自分の目的と自分自身について抱く観念とを実現してゆくこと、を可能にしてくれるのである。どんな国家や個人のグループも、どうしてこれ以上のことをあえてするのか。また、どうしてこれ以下しかしないのか。」( 540頁)

 以上は『アナーキー・国家・ユートピア』の末尾を飾る、「ユートピアのための枠」のただ一章のみからなる第三部「ユートピア」からの抜粋であり、この章全体の要約ともなっている。
 ノージックのこの作業の面白味は、まずユートピアのメタ理論的作業、すなわち、「およそユートピアと呼ばれるものが満たすべき条件とは何か?」について、ロールズによって切り開かれた現代正義論の地平からの考察を行い、「唯一最善のユートピアなどは存在しない」と結論した上で、そこでユートピア論からの撤退をおこなうのではなく、逆にユートピアのメタ理論そのものを社会システムとして制度化するというアイディア、すなわちメタ・ユートピアを、単なるユートピア検証のための概念装置としてではなく、その中で人々が具体的な生を営む機構として構想してみせるところにある。そこでは「帝国主義的ユートピア主義」以外のすべてのユートピア主義が許容される。
 このノージックの作業が魅力的であるのは、ひとつにはそれが、現代正義論の地平の中でユートピアの問題を論じた点にあるのだが、それ以上に重要なのは、「帝国主義的ユートピア主義」以外のユートピア主義が一貫した立場として選択されうること、を示そうとしたところにある。近代の典型的な「帝国主義的ユートピア主義」としてのマルクス主義は、自分達以外の様々な社会主義を否定的な意味、「実現可能性がない」という意味を込めて「ユートピア的」と呼び、それに対して自らの立場を「科学的」と称したが、結局のところこの区別の眼目はオール・オア・ナッシングの思考法をとるかどうか、にあった。マルクス主義は、既存の支配的な社会経済体制の枠を総体としていったん解体(=革命)した後でなければ、新しいよりよい社会を打ち立てることはできない、とした。この大枠としての現体制を手つかずのまま残しておいて、その中でいくら社会主義的実験を行おうと、現体制のメカニズムによって排除されてしまう、と。ユートピア構想の具体的な内実において実は貧しかったものの、現実の社会体制の分析力においてそれなりの力を発揮したマルクス主義は、それが後に「収容所国家」を実現してしまったという実績を除外しても、ユートピア主義イコール「帝国主義的ユートピア主義」、という先入見をその批判者の間にまで広める力を持った。すなわち、ユートピアの実現を真摯に追求するならば、敵対者を暴力的にでも排除する強引な手段をとる他はない、という。そしてノージックの功績はこの先入見をひっくり返したところにあるのだ。新古典派経済学の推論方法を用いてこのような理論が提出されたことに、我々は素直に驚かなければならない。


 とは言え先に見たごとく、新古典派経済学の限界が1970年代とは異なりより内在的に明らかにされつつある今日、我々はただ感嘆してすますわけにもいかない。とりわけ経路依存性、つまり歴史の問題が根本的である。
 たとえ様々なユートピア的実験が日々新しく生まれてこようとも、そのすべてが十分な成功を収めうるわけではないことは、ノージックも認めている。ただしノージックによれば、最小国家が支える諸ユートピアのための「枠」、メタ・ユートピアは少なくともそれらの間での出発点の平等を保証する*9。しかしながら経路依存性の問題はそのような楽観を許さない。既存の諸コミュニティはしばしば、何ら直接的な実力行使による妨害によらずして、そしておそらく意図することさえなくして、新しい試みの発生と参入をブロックしてしまうことができるだろう。またそのようなブロッキングを考慮に入れなくとも、既存の諸コミュニティの配置は新しく行われうる実験の発生の頻度や総量にも影響を与えるだろう。ノージックが本書で期待しているような、そのときそのときで最大限に多様なユートピア実験が絶えず行われ続ける、というコミュニティ間の自由な完全競争を支える「枠」としては、「最小国家」では不足であり、少なくとも「完全情報」と新古典派で呼ばれてきた想定を実現するような制度的工夫がそこにはプラスされねばならない。実力行使だけを除外した「自由放任」では、それを実現したことにはならないのだ。
 「完全情報」が何を含意するかについては後で立ち戻ろう。しかしながら以上のごとき修正要求は考えようによっては二次的なものであり、本書の提示した「ユートピア的組織の自由主義」の意義自体は揺るぐものではない。上の修正要求はその否定ではなく、その(例えばゲーム理論の視点を取り入れた)洗練を要求するに終わっていると考えられる。だが私の考えるところでは、本書の「ユートピア的組織の自由主義」を今日意義ある思想として継承発展させるためには更にそれ以上の批判的吟味が必要となるのである。
以前私は本書におけるメタ・ユートピア論について、その当事者的視点の不足を指摘した*10。すなわち、そこでのノージックの口振りはあたかもユートピア実験の完全競争市場を管理する公正取引委員会のようであり、その市場のただ中で特定のユートピア構想に実存を賭ける主体のそれではない、と。しかしそれはいかにも舌足らずでないものねだりに終わりかねない論難である。そこでここではより具体的に、以下の二つの問いを立てることにしたい。


 第一に、特定のユートピア的コミュニティ実験にではなく、その「枠」そのものにおいて生きることに価値を見いだすような生き方があるとすれば、それはどのようなものか? ノージック自身の論法に即して考えるならば、「最小国家」のメタ・ユートピアのために人々が「心をぞくぞくさせ」、「闘争と犠牲の気持ちを奮い立たせ」、「その旗の下にバリケードを築こうという気になる」とすれば、そのメタ・ユートピアの「枠」それ自体のためにではなく、それが自分達の生き方の実験を支えてくれるがゆえにである、ということになる。すなわち、「枠」自体は人々にとって手段的な価値しか持たない。実際ノージックはこのように語る。

「私が構成要素であるコミュニティーの具体的性格を何ら提起しなかったのは、それをすることが重要でないとか、相対的に重要性が低いとか、つまらないとか(と私が考えている)と言いたいからではない。どうしてそんなことがあり得ようか。我々は、具体的コミュニティーの中で生きるのである。ここでこそ、人の理想的社会または善き社会についての非帝国主義的見解が提起され実現されるべきなのである。我々にこれを許容してくれることが、枠の存在意義なのである。望ましい具体的性格をもつ具体的コミュニティーの創造へと駆り立て鼓舞するこのような様々のヴィジョンなしでは、枠は命を欠くことになろう。」( 538頁)

 もちろん具体的な多様なコミュニティ実験の存在なくしては「枠は命を欠く」、つまりそれ自体として支持し追求する価値のあるものではなくなる。しかしながらこのような様々な生の営為が十分に行われているところにおいてもなお、「枠」それ自体は「命を欠く」空虚な形式に終わるだろうか? 果たして「枠」それ自体の実現、守護、それを「駆り立て鼓舞する」ことに捧げられた生は虚しいものだろうか? 
 しかしこの問いに解答を与えるのは後回しにして、第二の問いの方から見ていくこととしよう。それは以下の通りである。「枠」それ自体にではなくその中における具体的なユートピア的実験に賭ける人々は、一体どの程度まで真摯にメタ・ユートピアの「枠」を支持するものだろうか? 本書でのノージックの論法によれば、上述の通り、そうした人々にとって「枠」は手段的な価値以上のものと持たないように見える。しかしながら先にも引用したが、ノージックはこの点で非常に奇妙な、興味深い論述を行っている。省略した個所を補って再度引用すると、以下の通りである。

「実存的ユートピア主義者は、枠を心底から支持することができる。お互いの違いをすべて知った上で、異なった構想の支持者達が枠の実現に協力することができる。伝道的ユートピア主義者達は、その熱望は普遍的だが、彼らの好みのパタンへの支持が自発的である点が決定的に重要だと考えるので、実存的ユートピア主義者達とともに枠を擁護するだろう。しかし彼らは、多数の異なった可能性を同時に実現することを許すという枠の追加的利点を特別賞賛しはしないだろう。」(519頁)

 一体なぜノージックはここで「実存的ユートピア主義者は、枠を心底から支持することができる。お互いの違いをすべて知った上で、異なった構想の支持者達が枠の実現に協力することができる。」と言いきることができるのだろうか? ここでとりわけ問題としたいのはこの点である。「心底から支持するwholeheartedely support」とは非常に強い表現である。もちろんこれを例えば「自身の今一つの目的として支持するsupport as another goal of their own」とまで、あるいは更に「駆り立て鼓舞するimpell and animate」とまで言い換えて構わないかどうかには議論の余地があるが、それでもこの表現は、実存的ユートピア主義と伝道的ユートピア主義の間の微妙だが決定的な違いに深くかかわったものであると考えられねばならない。


 伝道的ユートピア主義者にとって「枠」が支持に値する理由は、まず第一にそれが自分たちの実験を許容するということであり、第二にそれが「彼らの好みのパタン」への自発的支持者を引きつけるための場としてふさわしいからである。だがこの人々にとって「彼らの好みのパタン」は彼ら彼女らにとってのみ望ましいものとは見なされず、その望ましさはすべての個人にとって普遍的に成り立つと想定されているため、「多数の異なった可能性を同時に実現することを許すという」メタ・ユートピアの特質は「特別賞賛」に値しない「追加的利点」に他ならない。正確に言えばそれは「利点」ですらないであろう。任意の特定の伝道的ユートピア主義者は自分たち自身のユートピア的実践以外の「多数の異なった可能性」に対しては、「枠」それ自体がそうするであろうと同様に、「許容」するだけであり、決して「駆り立て鼓舞する」ことはない。より踏み込んだ言い方が許されるならば、彼ら彼女らが「枠」に対して与える支持の方も、「許容」以上のものではない。伝道的ユートピア主義者たちにとって「枠」は単なる手段、それも他のやり方によって代替可能かもしれないという程度の手段である。
 具体的に考えてみよう。「付随制約」としての権利本位的道徳システムは、とりあえずすべての個人にとってさしあたりは「制約」として現れるのであり、積極的に支持可能なものとしては現れない。「枠」=最小国家がユートピアと呼びうる、というノージックの主張は、この「制約」が間接的に、つまりあくまでも各個人の生にとっての自体的な目的ではなく手段であるが、しかし最善の手段として、その限りにおいて副次的な目的として各個人にとって追求されうる、というものである。しかしながら、本書でのノージック自身はこのような思考法を許容しないであろうが、特定の自己の目的を優先する各個人の立場からすれば、あくまでも「枠」は、そして「付随制約」としての道徳は最善と言うより次善の手段でしかない。つまり各個人が反実仮想的に「もしこのような「枠」さえ、あるいは権利志向的道徳さえなければ……」と考えた場合には。そしてこのような「堕落」への誘惑は、伝道的ユートピア主義者たちにとっては決して小さなものではないように思われるのである。もちろんその時彼ら彼女らは、帝国主義的ユートピア主義者に堕落しているのであるが。
 さて、実存的ユートピア主義にとっても、伝道的ユートピア主義が「枠」を支持する最初の二つの理由は同様にあてはまるはずである。となれば、伝道的ユートピア主義と実存的ユートピア主義とが有意に異なるとすれば、後者にとって「多数の異なった可能性を同時に実現することを許すという」メタ・ユートピアの特質は「特別賞賛」に値しない「追加的利点」などではなく、より積極的な利点となっていなければならない。すなわち、ある特定の実存的ユートピア主義の立場を採用する任意の個人ないしその集団にとって、自分たちのそれ以外の(それが同様に実存的ユートピア主義的なものであるのか、あるいは伝道的、帝国主義的なそれをも含むものであるのかはさておいて)ユートピア的実験の「多数の異なった可能性」が存在しうることまたは現に存在していることが利益となっていなければならない。ここではそうした「多数の異なった可能性」がなければないで何とかなるが、あった方がよい、というケースから、「多数の異なった可能性」がなければ自分たちの実験の意義さえも減じてしまう、極端な場合には消滅してしまう、というケースまでの幅広い可能性を想定することができる。しかしいずれにせよ、任意のある特定の実存的ユートピア主義の立場からすれば、自分のそれ以外のユートピア的実験の「多数の異なった可能性」は単に「許容」されるだけではなく、「駆り立て鼓舞する」に値するものであることになる。もちろん帝国主義的ユートピア主義の営為に関してはこのように単純に言い切ることはできないだろう。それらは他のすべてのユートピア主義に対して直接に敵対行動をとるものであり、実存的ユートピア主義者たちもその脅威に対して自衛行動をとらざるをえず、その侵略的性格を「許容」することはできないだろう。しかしながら実存的ユートピア主義にとっては、帝国主義的ユートピア主義のある側面、すなわち、他者に自らのヴィジョンを強制しようという性質を取り除いた後に残った、そこにおける生へのヴィジョンそれ自体は「許容」し、「駆り立て鼓舞する」に値するものであるかもしれない。
 もしそうであるならば、実存的ユートピア主義者たちによる「枠」に対する姿勢は、伝道的ユートピア主義者たちのそれとどのように異なってくるだろうか? 具体的には、先述の反実仮想的「堕落」への誘惑について考えてみよう。実存的ユートピア主義者たちにとって、この「堕落」への誘惑は相対的に小さいはずである。何となれば、彼ら彼女らにとっては自分たちとは異なる立場を採る人々が現に存在していることそれ自体から喜び、利益が得られるはずであるから。もしそうであれば彼らにとって「枠」=最小国家はこの反実仮想を前提においた上でも各自の目的を追求するための最善の手段として「許容」どころか「駆り立て鼓舞する」に値するものとなるのではないか。
 しかし、更に推論を重ねるならば、上述の考察が妥当するとすれば、実存的ユートピア主義者たちにとって、権利志向的道徳はもはや単なる「付随制約」ではないことになってしまうのではないかと思われる。例えば本書における「付随制約」と権利義務関係をみなす道徳の解釈に対して繰り返し提起される疑問は以下のようなものである。すなわちこの解釈によっては、現実に行われている不正に対して、その直接の被害者はその不正をただす権利があり、加害者はそれをただす義務があるわけだが、第三者はその義務を持たないことになる。しかしこれは我々の常識的な道徳観と衝突する、と*11。第3部のユートピア論を念頭に置かない限りでは、本書においてこの問題は不正をただすという任務を受託された国家の導入を待って初めて解決可能となる。ところがノージックの言う実存的ユートピア主義者たちは、たとえ国家が存在しない自然状態においても、このような不正を放置してはおかないだろう。(伝道的ユートピア主義者たちでさえ、その不正が彼ら彼女らの観点からしても不正であるならば、同様の行動に出ると見てよい。しかしながらもちろん、彼ら彼女らは常にそうするとは限らない。彼ら彼女らの観点に照らして特に問題とならない程度の不正に対しては、静観を決め込んでもよいことになる。)このような彼ら彼女らの気質的傾向は、道徳的義務に関する我々の直観とよく符合するように見える。すなわち、義務は必ずしも「何々しなければならない/してはならない」という形をとるわけではなく、「何々した方がよい/しない方がよい」という形をもとる、という。つまり道徳的義務は二層構造をなしているのである*12
 もちろんこのように考えた場合、実存的ユートピア主義者たちは「枠」=最小国家以上の拡張国家を求めるかもしれない、という疑問が生じる。すなわち、ミニマルな道徳的義務のガーディアン(当然最小国家がそれにあたる)ではなく、マクシマルな道徳的義務のガーディアンとしての国家を。しかしながらここで彼ら彼女らはある抑制を行うかもしれない。すなわち、マクシマルな道徳的義務の要請に積極的に従いうるのは実存的ユートピア主義者と呼びうる人々だけであり、伝道的ユートピア主義者たちにまでその要請に応えることを期待することはできない。更にすべての人々の権利を単に保護するだけではなく、その現実的活用を促進するという業務を国家に委託することは、各個人間の権利、利害の衝突の可能性を念頭に置く限りでは、強制的再分配の導入に結びつくであろう。ここで実存的ユートピア主義者たちは、「もしもすべての人々が実存的ユートピア主義者だったら……」、あるいは「もしも各個人間の権利、利害間の競合性よりも補完性、相互促進性が高かったら……」といった反実仮想との間で葛藤に直面し、いわばフェアプレーの精神に即した次善の策として「枠」=最小国家が選ばれる、ということになる。だから実存的ユートピア主義者たちにとっても「枠」=最小国家は次善の選択である、と言いうるが、しかし伝道的ユートピア主義者たちに比べればその選択はより積極的なものであることにかわりはない。


 これでようやく、先の第二の問いに対して暫定的な解答を与えることができた。そこで第一の問いに立ち返らねばならない。実存的ユートピア主義者たちには「枠」=最小国家を「心底から支持する」理由があることは分かった。それでは、この最小国家のサービスの遂行を具体的に担う「官僚」としての生は、それ自体として善き生でありうるのだろうか? 
 ここで我々は再び、今日的観点からの新古典派批判のインプリケーションに立ち戻ることができる。本書でノージックが無視している、完全情報という条件を近似的にでも実現することの困難さは決して些末な問題ではない。新しい試みを行おうという者が登場してきた場合、その事実をできるだけきちんとメタ・ユートピアを構成する社会全体に周知すること、逆に新規参入者に既存の状況がどのようであるのかについての的確な情報を提供すること、これらもまた「枠」の提供しなければならないサービスである、と少なくとも実存的ユートピア主義の立場からは判断されるはずである。残念ながらこのような情報システム構築に割かれうる資源の制約と、そこから将来的に期待される新規参入の実験から得られるであろう利益との均衡によって現実の情報システムの充実度は決まるであろうから、技術的に可能な最大限の能力を持つ情報システムの実現はありそうにない。しかしそれゆえにこそこうした情報サービスを含めた「枠」の構築と維持は、実存的ユートピア主義者たちにとってはやりがいのある事業となるであろう*13
 このような情報システムの構築の問題について、別の観点から眺めてみよう。いわゆる共同体主義の観点からする、ロールズ、ノージックらの権利・義務本位的自由主義政治哲学に対する批判の論点は多岐に渡るが、根幹にはその個人観、そして個人の権利観についての批判があるように思われる。すなわち、あらゆる社会関係に先立って個人の人格とその権利というものの実在を想定する、というその論法に対して。共同体主義者によれば、個人の人格と権利は実際には具体的な社会システムの作動の中で初めて形成されるのであるから、権利本位的自由主義者の描く社会のイメージは事実に即して不適切である。しばしば規範的にも個人の生を支える社会システムの尊厳を個人の尊厳の前提として理解することさえ求められる。更に、個人の人格を尊厳あるものとして支える社会システムは大体の場合、現代の大部分の国家よりは小さく、家族よりは相当程度大きいコミュニティを単位として捉えられている*14
 さて、本稿で見てきた『アナーキー・国家・ユートピア』のメタ・ユートピア論は以上の批判にどのようにして応えうるだろうか? 共同体主義者の考えるコミュニティとノージック的メタ・ユートピアの中の実験的コミュニティは概念的に異なる……前者は個人に先立って存在するとされ、後者は個人のイニシャティヴによって形成されることになるが、具体的な善き生の場であるという点では共通しており、かつ共同体主義者は相異なる各コミュニティの間に平等な尊厳を承認するため、ここでは敢えて両者を同じ土俵上に乗せて理解することにする。
 共同体主義者によれば、諸コミュニティ実験の尊厳はそれが良好に存続しうることによって初めて確保されることになる。その中での個人の尊厳もまた、コミュニティによる生存の保障と、コミュニティ自体の文化的活力の存続によって初めて確保できる、とされる。これに対して本書でのノージックによれば、コミュニティの存続はその尊厳の条件とは見なされていない。第一にそれは初めから尊厳ある存在として承認され、かつ生存している(ノージックはミニマムの生存のための社会保障は承認している*15。)個人の営為であるからこそ尊厳を有するのであり、その各個別のコミュニティの存続自体は要請されていない。要請されるのはせいぜい、多様な諸コミュニティ実験の間の競争の存続である。
 こうしたノージック的思考法に対しては共同体主義者ならば、ただ単に生きているだけでは個人に尊厳があるとは言えず、実際の生の営為の中で確証されることなくしては権利も空手形にすぎない、と批判するであろう。これに対して本稿で解釈されたようなノージック的立場からは、「枠」こそが様々な相異なるコミュニティ間に対して平等な処遇をなしうる最も確実な方法なのだ、と反論できる。しかしここに私は、更なる一言を付け加えたい。
 果たして尊厳の確保は、その尊厳を認められるべきものの生存を必須の条件とするのだろうか? ここで私が念頭に置いているのは古代的思考法であると言ってもよいが、現代におけるその最もクリアーな提示はハンナ・アーレントによるものである。彼女によれば行為するものとしての人間の尊厳は、見られ、聞かれ、記憶されることによって確保される。政治的共同体とは行為の舞台であり、そしてその記憶を保持し、物語として語り継ぐ装置である*16。もちろん現代の我々は純粋に古代人流の尊厳観、とりわけ栄光ある死、尊厳ある死の観念をそう簡単に受け入れるわけにはいかない*17。しかし自発的組織の構築、コミュニティ実験のレベルにおいては、この尊厳観がなお有意に当てはまるのではないだろうか? 
 実際ノージックもこうした「記憶」の重要さにある程度気付いている。

「人々の歴史的な記憶と記録を前提にすれば、すでに否定された代替案(またはそれに少々の修正を施したもの)を、あるいは新しいまたは変化した条件によってそれがより有望または適切になるために、試し直すことができる、という側面をこれ(「枠」……引用者)は持つことになる。生物学的進化では、以前に否定された変異種を、条件が変化したときに簡単に呼び戻すことはできないから、これは生物学的進化とは異なる点である。」(514頁)

 もちろんすでに指摘したとおり、「経路依存性」の重要性を学んだ我々は、「枠」の機能をノージックが考えているよりもはるかに拡張せねばならないことを知っている。しかしそのようなものとしての「枠」は人の営為の尊厳を保障する装置として、それなりの機能を備えている、と考えることもできるのである。


 私はすでに十分遠くまで来てしまったし、すでに紙数を超過している。だが『アナーキー・国家・ユートピア』の限界と射程距離を、これまで十分に検討されてこなかったそのメタ・ユートピア論に即して測定する、という作業の先鞭は付けられたように思う。メタ・ユートピア論の含意を徹底的に追究したとき、我々の前には、自由主義思想の新たな可能性が開かれてくることだけは、示し得たはずである。
しかしながら最後に小さな留保を付けておこう。本書でのノージックによる「実存主義的existential」という言葉には、独特の意味が込められていたことはすでに見たとおりである。すなわち彼の言う意味での「実存主義者」は自分に固有の実存的な生があるように、すべての他人にもまたそのようにそれぞれに固有の実存的生のあること、そしてそれらはすべて平等な価値を持ちうることを確信している。だが「実存主義」という言葉から我々が得る印象はいま少し広い。そこには己のただ一つの生に固執するエゴイズムもまたそこに含まれると考えてよいだろう。しかしエゴイズムは必ずしも反道徳的立場であるとは限らない。それは単に道徳を無視する、という以上の含意を有してはいない*18
 人々の共同社会のただ中では確かにエゴイストの存在は難しい問題を引き起こすかもしれない。彼/彼女は当該社会における道徳(例えばノージック的道徳)の支配力が大きく、自分一人でそれに逆らうことが得策でないと見て取るならば、大体の場合は道徳に従うことが自己の利益に適う、と判断するであろう。しかしそれが望ましくかつ可能な場合には、彼/彼女は道徳の裏をかくことを試みるだろう。この場合確かにエゴイストは反道徳的に振る舞う。それでもなお、あくまでもエゴイストが少数派である場合*19は、彼/彼女は道徳に対する消極的支持者であり続ける、例えば本書における権利本位的道徳の下ではミニマルな道徳的義務(付随制約)を守る存在であると考えられる。「枠」=最小国家にとっては、道徳を「心底から支持」しないエゴイストと、道徳を「心底から支持する」が、その執行権を手放そうとはしない独立人*20のどちらが脅威となるのか、一概には言えない。更にこのようなエゴイストが人々の共同社会から遠く離れて没交渉のままに生活する(ルソー的な意味での)自然人であるときは、ほとんど問題は起きないだろう。
 結局のところエゴイストは、いかなる意味でもユートピア主義者ではない人々、という程度の存在である。メタ・ユートピアの中でも彼らは当然に固有の生を営む権利を有することになる。更に実存的ユートピア主義者であれば、彼ら/彼女らに対してさえマクシマルな道徳的義務の要請に従ったサポートを辞さないであろう。しかしながら問題はその先にある。ここでエゴイストにもいくつかのタイプがあると考えてみよう。例えば井上達夫は正のエゴイズム(利己主義)と負のエゴイズム(禁欲的博愛主義)とを区別しているが*21、ここで私はタフなエゴイズムとひ弱なエゴイズムとを区別することにしよう。具体的に言うと、タフなエゴイストは、隙あらば道徳の裏をかこうとする反面、それが自分にとって都合がよい場合は道徳を利用する。これに対してひ弱なエゴイストとは言ってみれば自閉的人間である。直観的に言えば、人付き合いが限りなく苦手な人である。彼/彼女には道徳の裏をかくほどのヴァイタリティーはない。ただ無難にやり過ごすだけである。例えば最近の日本語で言えば、ある種の「オタク」はこの1タイプをなす*22
 こうしたひ弱なエゴイストたちの存在は、「枠」=最小国家にとって、そしてその積極的担い手としての実存的ユートピア主義者たちにとっていったい何を意味するだろうか? 権利本位的道徳の中で、人はもちろんひ弱なエゴイストである権利を持つ。そして実存的ユートピア主義者たちはマクシマルな道徳的義務の要請に基づき、こうしたひ弱なエゴイストたちにもサポートをするだろう。しかしながらこのようなサポートはひ弱なエゴイストたちにとっては、ありがた迷惑かもしれない。この意味で、ひ弱なエゴイストたちは、メタ・ユートピアにとっては時に道徳に敵対するかもしれないタフなエゴイストたちよりも、面倒な存在となる可能性がある。ひ弱なエゴイストたちの尊厳をサポートする方法は果たしてあるのだろうか? 


*1嶋津格訳、木鐸社、1985年、1989年。 Robert Nozick, Anarchy, State, and Utopia, Basic Books, 1974.以下本書からの引用に際しては邦訳書を典拠とし、上下巻の通し頁数を示す。
*2例えばノージック『生のなかの螺旋』井上章子訳、青土社、1993年。
*3ノージックによれば、実際には国家は自発的結社であることから逸脱する。つまり国家への参加を自発的に合意したメンバーから私的な裁定と執行の権利を信託されるだけにとどまらず、一定の地域(領土)内に居住するすべての個人から、つまり国家への参加に合意しない個人(ノージックの用語では「独立人」)からも、私的な裁定と執行の権利を剥奪する。
 この国家による裁定と執行の権利の独占がどのように正当化されるか、については三段階に分けて考えるとわかりやすい。まず、このようなサービスの供給主体は一定の地域内で競争相手を正当な競争の結果として排除する、自然独占にたどりつく傾向がある、とノージックは論じる。第二に、このような独占体となった供給主体は、それだけではなおその独占の正当な権利を主張できない。それはただこのようなサービスを自発的に購入する消費者の形成する市場においてのみ達成された独占であり、そもそも消費者になろうとしない、つまり自力救済を志向する「独立人」の問題が残される。しかしこのような「独立人」の自力救済活動を放置していては、サービス供給主体はよくその業務を達成できない。そこで第三に、サービス供給主体は「独立人」に対して自力救済を禁じ、その補償として「独立人」に対してもサービスを(場合によっては無償で)供給する。
*4矢島釣次監訳、紀伊国屋書店、1979年。John Rawls, A Theory of Justice, Harvard University Press, 1971.
*5簡明なサーヴェイとして、神取道宏「ゲーム理論による経済学の静かな革命」、岩井克人・伊藤元重編『現代の経済理論』東京大学出版会、1994年、所収。この立場からする制度理論のより具体的な試みの例として、青木昌彦・奥野正寛編著『経済システムの比較制度分析』東京大学出版会、1996年。
*6ゲーム理論的観点からのこの問題の取り扱い方については例えば青木・奥野前掲書を参照。これ以外に、「規模の経済性」の問題を強調する松山公紀「独占的競争の一般均衡モデル」、岩井・伊藤前掲書所収、「履歴効果」に着目する大瀧雅之『景気循環の理論』東京大学出版会、1994年、等も参照。
*7だから井上達夫も指摘するとおり、「自由主義は正義を重視して善を軽視する」との共同体主義からする批判は本書に対しては当てはまらない。井上達夫「共同体の要求と法の限界」『千葉大学法学論集』第4巻第1号、1989年。
*8本節は拙著『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』(窓社、1996年)、第5章第3節からの抜粋に、若干の修正を施したものである。
*9本書でノージックは「機会の平等」に対して否定的な結論を下している。(388頁以下。)しかしながら彼の理論の出発点には、個人の権利と人格的尊厳の不可侵性が置かれており、これだけはすべての個人の間に平等に分配されているのである。そしてユートピア的実験は個人が自分にとって有意義な生を目指して努力することと同義であるから、ユートピア的実験への参加の権利は個人の間で平等に配分されていることになる。我々が通常「機会の平等」と呼ぶものは、ノージックが否定するような、任意の制度や組織が個人に対して与えるアクセスの権利の平等のみならず、この意味での平等までをも含んでいると考えるべきである。あるいは本書の権利志向的・義務論的道徳のシステムをそれ自体制度と見なすならば、それは機会の平等をすべての個人に対して保証していることになる。
 本書における「機会の平等」批判が果たして妥当なものであるのかどうか、に関する検討並びに私自身の見解は、現在準備中の拙著『リベラリズムの臨界(仮題)』(紀伊国屋書店より1997年中に刊行予定)で詳論する。
*10『ナウシカ解読』第5章を参照。
*11例えばAmartya Sen, On Ethics and Economics, Blackwell, 1987, pp.71-73.
*12この点で興味深いのが、マイケル・E・ブラットマン『意図と行為』門脇俊介・高橋久一郎訳、産業図書、1994年、320-321頁における「義務論的制約の脱神話化」についての論及である。彼はこの著作において、行為における意図された結果と、単に予見されただけで意図されていない結果との区別について論じている。そして義務論的制約は意図が行為に対して課す制約と似た性格を有しているのでは、と示唆している。
*13もちろんこれは国家が情報操作を行ってもよい、ということを意味しない。国家の任務はあくまでも情報インストラクチャーの整備であり、そのためには再分配も正当化される、という意味である。情報インストラクチャーには規模の経済性が働く可能性が高いので、再分配問題はそれほど深刻にはならないかもしれない。むしろ、インフラストラクチャーの性質によってそれに乗りやすい情報と乗りにくい情報ができてしまう、という問題の方が深刻であり、できるだけ多様なインフラストラクチャーのあることが望ましいことは、言うまでもない。
*14共同体主義のサーヴェイとしては、Stephen Mulhall and Adam Swift, Liberals and Communitarians, Blackwell, 1992.が有用である。
*15『アナーキー・国家・ユートピア』42頁などを参照のこと。
*16ハンナ・アーレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、の特に第5章を参照。
*17しかしながら現代の生命倫理、医療倫理においてしばしば論じられる「尊厳死」はこうした古代的な尊厳ある死とはほとんど関係がないように思われる。いわゆる「尊厳死」においては目的としての死の選択が自己決定権の領域として主題となっている。そこでは単なる延命が尊厳ある生をもはや可能としないので、尊厳ある生を可能とする唯一の選択として、逆説的にも死が目標とされることになる。そこでの尊厳の根拠はあくまでも個人の自由な権利に基づく決定にしかない。これに対して、ここで問題としているような古代的尊厳観における死はあくまでも栄光ある生の帰結でしかなく、目的ではない。そして尊厳を支えるのは、共同体によるその生の物語の記憶である。
*18この点で示唆深いのがバナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』森際康友・下川潔訳、産業図書、1993年、である。
*19厳密な意味でのエゴイストは定義上徒党を組むのが苦手であろう。徒党を組める程度の道徳感覚を持ったエゴイストであるならば、支配的道徳に対する決定的な敵対者となる可能性はそもそも低い。であるならば、厳密な意味でのエゴイストが社会において過半数を占めたとしても、彼ら一人ひとりはなお依然として少数派であり続ける他はないのではないか。
*20独立人については『アナーキー・国家・ユートピア』の特に85-89、139-42、151-9頁を参照のこと。
*21井上達夫『共生の作法』創文社、1986年、第2章。
*22「オタク」についての実証的研究としては宮台真司『制服少女の選択』講談社、1995年、社会哲学的考察としては中島梓『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、1991年、を参照のこと。

NOTE
(いなば しんいちろう 1963年生 岡山大学経済学部教員 関心領域 社会哲学(リベラリズムの可能性と限界 インダストリアリズム再考) カルチュラル・スタデイーズ(特に日本のエンターテインメント SF、マンガ、ゲーム等)
 カルチュラル・スタディーズ第2弾として、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の分析の準備をしています。注でも触れた現在書き進めている本の作業が終わってから、そしてレーザーディスク版が完結してから本格的に取りかかろうと思いますが、現時点、つまりTV放映版終了の時点での中間考察を行う用意もあります。興味のある方、紙面を提供してもよいという方、おられましたらご一報下さい。)

 ホームページへ戻る