新古典派経済学の底力
書評:大瀧雅之『景気循環の理論 現代日本経済の構造』(東京大学出版会)

                                    稲葉振一郎

『季刊窓』21号(1994年秋)


 敷居の高い本である。大学院レベルのマクロ経済学の素養なしにはきちんと読みこなせない。しかも今日では理論経済学研究の先端と大学学部レベルの経済学教育、ビジネスマン・読書人レベルの経済学常識との乖離がはなはだしい。研究の前線では伝統的なミクロとマクロの二分法さえ無意味となりつつあるのに、そうした現状を正しく踏まえた入門的教科書もろくにない(スティグリッツの三部作『入門経済学』『ミクロ経済学』『マクロ経済学』東洋経済新報社、にはこの意味で期待したい。)この二重の障害のおかげで、本書のごとき本格的な数理経済学の研究所には、たとえ大学で経済学をまじめに勉強し、日頃経済ジャーナリズムに親しんでいたとしても、アカデミックな訓練を受けていない一般読者は歯が立たない。わかる範囲で飛ばし読むだけでも、相当の努力を強いられるだろう。 実のところ評者も、経済学部に籍を置いてはいるが、こと数理経済学については「アカデミックな訓練を受けていない一般読者」でしかない。だが本書が経済と経済学に関心を持つ一般読者にとっても「わかる範囲で飛ばし読む」に値するものであることは保証する。
 本書は基本的には、オーソドックスな新古典派経済学の考え方をマクロ動学にストレートに応用した「実物的景気循環理論」の立場をとる(部分的にはケインズ的なモデルも用いられる)。これは景気循環を市場経済における不均衡の帰結としてではなく、均衡そのものの変動の過程として捉えるものである。具体的にいうと、景気循環の原因をケインズ派や多くのマルクス派のごとく金融市場や労働市場の不完全性にもとめるのではなく、またマネタリストのごとく金融政策による外生的攪乱と捉えるのでもなく、産業の生産性の確率変動に求める。それによると景気の変動は、この生産性の変動によって引き起こされる、最適な市場均衡点それ自体の変動なのである。分析の焦点も景気変動の原因の解明にではなく、変動それ自体には前提としたうえで、そのなかでの経済主体の最適行動の解明に置かれる。
 このように書くと少なからぬ読者は本書に非現実的な数学モデルのお遊びか、市場経済のあからさまな弁護論を予想されるであろう。しかしそうではない。著者は「均衡」を純粋に実証分析の基準、理論分析の「タガ」としてのみ用い、そこに規範的な意味を一切読み込まない。「均衡」とは経済主体の行動の帰結にしかすぎず、それ自体としては必ずしも公正でも効率的でもないのである。こう厳しくわきまえたうえで著者は、分析の焦点を日本経済における労働市場の二重構造と、金融システムの国際化の理論的解釈に絞り込み、批判的分析をクリアに展開していく。
 評者の関心である労働の分析にかぎって言えば、先行研究のサーヴェイは的確で、著者自身のマクロ動学的仮説も説得的である。簡単に紹介しよう。
 「日本的雇用慣行」と俗に言われる、大企業における「終身雇用」と「年功賃金」についての従来の有力な通説は以下のごときものである。「年功的」な賃金カーブは労働者の技能が勤続とともに向上することから帰結する。これは労働者にとっては転職を抑制する誘因ともなる。他方日本企業の有する技術は企業ごとに大いに異なるがゆえに、労働者のみならず企業にとっても、景気変動に抗して雇用を安定化させ、企業特殊的技術に適応した技能を有する労働力を確保していくことが合理的となり、変動への適応は雇用調整よりも労働時間や賃金の伸縮化とおして行われることになる。しかしこの仮説、とりわけ後者は産業技術や企業行動についての実証研究の知見と必ずしも整合的ではない。もし後者の議論のとおりなら、景気変動のショックは企業のレベルで最も大きく現われるはずだが、実際にはむしろ産業レベルのショックのほうが大きいのである。この事実は技術・技能の企業特殊性という仮説を疑わしめるに十分である。
 これに代えて筆者が導入するのが「履歴現象」の概念である。それによると、労働者が労働市場へ参入するにあたっての障壁である高い教育訓練費用は、同時にまた一度投じたら、仮に収益が思うように上がらなくとも、もはや回収して他の用途に転用したりできず、気長に収益が上がるのを期待して待つしかない「埋没費用」でもある。こうした「埋没費用」を投じた事業をいったん中断すると、投資は回収できずにまさしく「埋没」してしまい、再開しようとしてもその費用は無駄になり、最初からやり直しになる。このような「埋没費用」は、企業や労働者の行動にかせをはめる。すなわち、技術の企業特殊性がなくとも、いったん投じられた教育訓練費用を長期的に回収するためには、景気変動に抗しての雇用の安定化が合理的となるのである。
 しかし本書での「埋没費用」概念の含意は、たんに日本経済の低失業を説明するにとどまるものでも、もちろん正当化するものでもない。第一に、雇用の安定化は低失業とイコールではない。石油ショック以降のヨーロッパの高失業は言わば雇用の低位安定化である。「埋没費用」の存在は市場経済のなかに、不連続的な変化やその経路の分岐による各国ごとの多様性など、たとえ「合理的経済人」を仮定してもなお消えない「歴史」を持ち込む。第二に、たしかに日本経済の雇用は単に低失業であるのみならず、変動の幅も小さく、それをもたらしているのは国際的に見て高い教育訓練費用であるらしい。しかしこの高い教育訓練費用自体はどこまで正当化できるのか。この中にはマッチポンプのラットレースと化した学歴社会の受験戦争の費用も含まれているはずである。それは社会的に見れば空費である可能性が高いのみならず、これを負担し得る者し得ない者の間での不公平を当然に生み出す。
 ケインズの登場によって誕生したマクロ経済学は本来市場における不均衡、合理的とも最適とも思えない状況を問題とする科学であり、その存在自体が多少とも正統的な新古典派経済学への批判を含意するものであったが、「合理的期待形成革命」と共にその様相を一変し、「ミクロ経済学的基礎付け」を合い言葉に「合理的経済人」の「最適化行動」による「長期均衡」を主題とする学問に生まれ変わった。今日ではケインズ派を標榜する論者も「合理的期待形成」の仮定を基に理論構築を行うのが普通である。
 新古典派批判は今までにも腐るほどあった。しかしマルクス経済学は自壊しつつあり、ケインズ派や制度派も新古典派の強靱な胃袋によって理論的にほぼ吸収されてしまった。ゲーム理論や確率過程論、ダイナミック・プログラミングといった道具立てによって、「不均衡」も「制度」も「歴史」も新古典派の領分となってしまった。本書はまさにこうした時代の産物であり、繰り返すが、方法論上は徹頭徹尾正統的な新古典派である。ケインズ的なモデルの採用もあくまで部分的なもので、新古典派の枠組みで解釈可能な特殊ケースとして処理されてはいる。そもそも「ミクロ的基礎付け」という発想自体が新古典派的であるには違いない。
 だが本書はけっして新古典派の自己満足を示すものではない。反対にここには厳しい学問的緊張を見てとることができる。本書には新古典派経済学が理論的に最も一貫し、分析的に緻密で、あらゆる外在的批判を消化して成長してきたという事実の重みと、にもかかわらずそうした成功自体がますます新古典派を内閉化させ、独善に甘んじさせる危険への深い自覚がある。たとえばその「ミクロ的基礎付け」への固執も、手持ちの理論装置で可能なかぎり遠くへ行こうという覚悟であって、けっしてそれですべてが説明できるという傲慢な居直りではない。逆に著者の徹底的に新古典派的な作業のなかには、なまじのケインズ派、マルクス派よりも徹底した新古典派への批判意識が浮かび上がってくる。おそらくある理論の限界は、外在的批判によってよりも、むしろこうした作業によってこそ、暗黙に、しかしはるかに明瞭に示されるものなのだ。
 己の理論、思想の普遍性を信じ、それでもって可能な限りのすべてを解釈し説明しようとすることと、己の理論、思想以外の考え方の重要性を認め、それに謙虚に耳を傾けることとは両立するはずであり、そうした両立をこそ学問的な節度と呼ぶべきなのであろうが、それはまた困難なことでもある。本書の醍醐味は著者大瀧氏のこうした節度にある。惜しむらくは本書があまりに専門的、学術的にすぎて多くの読者の目には触れないであろうし、歯も立たないだろうことである。純粋理論の書であって、現実経済のデータによる実証研究がないこともとっつきにくさを増している。評者とて本書を手放しで推薦するつもりはない。だが著者大瀧雅之氏の名前だけは覚えておかれたい。将来氏が啓蒙的エコノミストとしても活躍するときがくれば、一般読者にとってもこれは絶対に「買い」出ある。同時に大瀧氏ご自身にたいしては、本書の啓蒙版を書かれることを切に希望する。本書の達成にはそれだけの価値がある。

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