フェミニスト社会科学の到来
書評:大沢真理『企業中心社会を越えて』(時事通信社)
『季刊窓』18号(1993年冬)                                       
                                    稲葉振一郎

 まず第一に、本書は日本で初めての、本格的なフェミニスト社会科学の著作である。ではこれまでのフェミニストによる達成は何であったのか、と読者は問われるであろう。もちろん専門的なレベルでいくつかの貴重な業績は蓄積されてきたが、フェミニスト論客の多くは理論的、ないしは批評的論争の領野に過剰に勢力を注ぎ、実証的研究を怠ってきた、といわざるをえない。そうした状況の中で、これほど地道な実証性と、明解な論争性とを合わせ持った仕事が、一般読者に利用可能な形で市場に供されたことの意義はどれほど強調しても足りない。
 しかし本書は、単にこれまで日本のフェミニズム論壇に欠けていた実証科学をそこに付け加えた、というだけのものではない。本書の達成は、これまでの日本のフェミニスト社会理論に対する痛烈な根本的批判を提示している。
 上野千鶴子氏の精力的な活動によって日本においても人口に膾炙した「マルクス主義フェミニズム」という理論枠組みには、以下のごとき難点があった。マルクス主義フェミニズムは伝統的マルクス主義を「階級支配・資本制一元論」であると批判し、これに対して自らを「階級支配と性支配・資本制と家父長制の二元論(ないし多元論)」であると称してきた。しかしこの構図には周知のごとくもう一つの批判対象が隠れている。それは「性支配・家父長制一元論」をとるラディカル・フェミニズムである。見ようによってはマルクス主義フェミニズムの主要な批判対象は、マルクス主義であるよりはむしろ近代社会の支配構造に関する一元論一般であるともいえる。
 この戦略は適切であったのだろうか?「階級支配・資本制というメカニズムだけが、近代社会における(ことに女性たちに対する)支配と抑圧の機構を形成しているわけではない」という批判はたしかに適切であった。しかしそれに続けて上野氏が「階級支配・資本制が近代社会の全域を覆い尽くしているわけではなく、その外側、例えば家族、生命の再生産の領域が存在しており、そこにおいては性支配・家父長制のメカニズムが作動している」といわれるとき、こちらとしては「おいちょっと待った」といわざるをえない。
 伝統的マルクス主義にせよラディカル・フェミニズムにせよ。それが一元論であると批判されるときには、二つの問題提起が同時になされている。第一に「階級支配・資本制であれ性支配・家父長制であれ、問題のメカニズムが社会の全域で作動している、という理論はおかしい」。第二に、「問題のメカニズムが社会にありようを全面的に規定している、という理論はおかしい」。この二つはしかし、明確に区別されねばならない。
 第二の問題提起は私とてもっともだと思う。これはマルクス主義にかぎらず、およそありとあらゆる種類の「一元論」ないし「還元論」に対して投げつけられてきた批判である。しかし第一の問題提起の方はどうだろうか?少なくとも問題発見的な仮説として考えるならば、「問題のメカニズムが社会の全域で作動している、という理論」はまったくおかしくない。このことと「問題のメカニズムが社会のありようを全面的に規定している、という理論はおかしいかどうか」とはまったく別の問題である。それはニュートン力学が、すべての物体には重力が作動していると主張するからといって、重力一元論ではなく、ダーウィニズムが、すべての生物は自然選択の過程に晒されていると主張するからといって、自然選択万能論ではないこととまったく同様である。そして「資本制が社会のありようを全面的に規定している、という理論」と「家父長制が社会のありようを全面的に規定している、という理論」とが両立しえないのに対して、「資本制が社会の全域で作動している、という理論」と「家父長制が社会の全域で作動している、という理論」とは完全に両立可能である。
 資本制にせよ家父長制にせよ、いったいそれが社会の中のどこにおいてどのように作動しているのか、われわれは十分に自覚してはいない、との反省に立ち、思わぬところにその作動を発見することこそが、社会科学の枠組みとしてのマルクス主義なりフェミニズムなりの真骨頂ではないのか?あらかじめ資本制なり家父長制なりの作動範囲についての限定的な仮説をおいたうえで、マルクス主義とラディカル・フェミニズムを折衷しようというマルクス主義フェミニズムの立場は、角を矯めて牛を殺すに等しい。むろん実際には、マルクス主義フェミニズムは資本制の領域である企業における家父長制の論理の作動や、逆に家父長制の領域である家族における資本制の論理の作動に注意を喚起していた。しかしその理論的な解釈においては、「相互浸透」といった曖昧な説明にとどまっていたのである。
 結局、日本のフェミニスト論客の中からは、ファイアーストーンやヴェールホーフのごとき家父長制の全域性についての強力な理論が登場することはなかった。この間、日本において書かれた最も重要な家父長制論は、特にフェミニスト的問題意識を踏まえることなくなされた森建資氏の『雇用関係の生成』(木鐸社)である。伝統的マルクス主義が階級支配の根幹とみなしてきた資本−賃労働関係を法制史的に根本から見直し、経営における雇主と雇人の関係の法理が家における家長と家人の関係の法理と論理的に同型であるばかりか、発生史的にも同じ起源を持つことを実証したこの本はしかし、森氏と同門の大沢氏など少数の例外を除いて、日本のフェミニスト論客からは無視されてきたし、森氏もそれに対し自分から言挙げすることはなかった。「雇用関係は家父長制そのものではないのか?」というこの格好の問題提起をろくに利用できないフェミニスト論客の体たらくは、外野席のシンパたる私を呆れさせ、フェミニズム論壇に飽きさせるに十分であった。
 しかしついに本書が到来した。本書は日本の労働経済学の最新の成果を批判的に活用して、従来マルクス主義フェミニズムが資本制の作動領域とみなしてきた、企業の人事労務管理の理論の核心部分、さらに社会保障政策体系の中に、家父長制の作動を見いだす。先行研究の整理と批判、それを踏まえての自説の提示、いずれも明快であり、参照文献を読者がフォローして論旨をチェックすることも容易であろう。単なる先行研究の総括にとどまらず、氏自身のオリジナルな実証もユニークな論点を提示していて非常に有益である。
本書が十分に従来のマルクス主義フェミニズムに対する代替理論を提示しているとはいえない。しかしそれが可能であり、また必要でさえあることは十分に示している。今後の日本フェミニスト社会科学にとって本書は実証的ににも理論的にも後戻り不能な点を示した里程標として記憶されねばならない。もしそうならなければ、今度こそ私は、知的潮流としてのフェミニズムに本当に飽きてしまうだろう。いや、飽きるのが私だけならまだよいが…。
しかし本当のところ、大学で「社会政策」を看板にしている教師としては、こういう外野席の観客風の口をきいているわけにもいかない。本書は、第二に、現時点での日本の労働経済学と社会政策研究の成果を簡便な形で示す案内書として、最高のレベルに達している。現在の日本にはこれほど面白く、わかりやすく、かつ最新の動向を的確に押さえた労働問題・社会政策の教科書・入門書は他に存在しない。人畜無害な公正中立を装わず、「党派性」を明確にしていることも好ましい。
 日本の労働問題研究における、学部生、大学院生のためのよい教科書の不在は学生であった私自身、頭を悩ませてきた(そして今、教師としても悩まされている)問題であった。よい教科書がないということは、授業のうえだけの問題ではない。その背後にはおそらく、教育のみか研究における「手本 」の不在がある。ここでいう「手本」とは、必ずしも誰もが認める通説のことではない。たとえ否定、批判される対象としてであっても、とにかく議論の共通の叩き台となりうる堅固さと明晰さを備えた、研究枠組みについての自覚的な言説。論争において「合意」は不必要かもしれないが「焦点」は必要である。「手本」とは「焦点」の自覚にほかならない。またそれは同時に、他分野の研究者や初心者にとっても接近可能なとっつき安さを持っていなければならない。こうした「手本」をたえず練り上げる努力なしには、研究は焦点を失う。それは研究が果てしなく拡散的に専門化、いやオタク化し、学問、いや社会総体の中での自分の位置を見失うことにつながるのだ。
 「手本」とか「教科書」で勉強しようという根性は怠慢だ、という奴には、「そう言うお前のほうがずっと怠慢だ」、と言い返さねばならない。労働問題(もちろんフェミニズムでも、他のどんな専門分野でも同じことだ)に関心を持つすべての人びとが労働問題(であれ何であれ)の専門家になるわけにいかない以上、「手本」「教科書」は絶対に必要なのだ。
本書はその意味で、フェミニズムにとってのみならず、労働問題・社会政策研究にとっても、その閉寒状況を撃つ挑戦状である。まったく、他人ごとではないのだ。

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