労使関係史から労使関係論へ
 論評:
東條由紀彦『製糸同盟の女工登録制度−日本近代と女工の「人格」−』(東京大学出版会、1990年)
佐口和郎『日本における産業民主主義の前提−労使懇談制度から産業報国会へ』(東京大学出版会、1991年)

                          稲葉 振一郎
                      『経済評論』 第41巻第10号(1992年10月)

はじめに
 本稿の主題は、近年立て続けに出版された、新世代の労働問題研究者による日本労使関係史の本格的研究書二冊の検討を通じて、現時点における日本労使関係史研究の到達点から、一体何が見えてくるのか、を確認しておくことにある。近年の日本の労働問題研究にとって、歴史研究はいわば理論研究を代位する役割、すなわち日々変貌しつつある現場を分析する際に、方向感覚を失わないための羅針盤を提供する役割を担ってきた。本稿で論評される二つの業績は、このことを意識しつつも、再び理論構築への思考を明示的に打ち出したという点で、研究史上の一つの転換を予感させるものである。
 しかし「転換」を云々するのであれば、その「転換」の前後について考えておかなければならない。そこで本題にはいる前に、研究史を概観しておくこととしよう。

1 研究史の回顧
 先に触れたような意味での、すなわち羅針盤としての日本労使関係史研究にとっての里程標は、ここ二十年程変わることなく兵藤サ氏の『日本における労使関係の展開』(1)によって示されている。分析対象を日清戦争期から昭和恐慌直前までの重工業大経営に限定しているとはいえ、歴史研究者にとっても、また現状分析を目指すものにとっても、ここに提示された戦前日本の労使関係像とその現代的含意について詰めて考えておくことは、依然として不可避の義務となっている。それゆえ本著の検討から考察を始めよう。
 膨大な使用の渉猟と雄大な構想力とに支えられたこの大著を一言で要約することは不可能であるが、ここでは後の研究史へのインパクトという観点から強引に整理して、二つの線を抽出しよう。第一に、資本蓄積様式・産業技術の変化に規定されての、職場の労働組織の変容の分析。この枠組は具体的には、日露戦争を境としての職場の変容を、輸入技術と在来技術との共存の中で、親方・職長層に現場の生産管理と一般労働者の雇用管理を委託する「間接的管理体制」から生産システムの大規模化と高度化に伴い、経営側が直接に現場の生産・労務管理をシステマティックに掌握していく「直接的管理体制」への転換として解釈する中に生かされている。
 第二に、労働運動と、経営・国家の労働・社会政策の対抗の分析。具体的には、労働側での、特定の経営・職場に拘束されない「渡り職工」たる万能熟練工の団結によって、横断的企業外労働市場のコントロールを目指す職業別組合主義から、広汎な労働者の職場における団結に支えられる争議行使力を背景として、経営との直接的な団体交渉によって職場の労働条件に制約を加えていく産業別組合主義への、第一次大戦を境としての転換と、大戦期好況からの反転たる二〇年不況後の「団体交渉権獲得運動」におけるその公用が描かれる。これに対して経営側では、かく転生した労働運動の挑戦を乗り切って、産業横断的・企業外的存在としての労働組合を排除しつつ、その機能(団体権と争議権を担保としての団体交渉によって、労働条件を規制する)を企業の枠内で擬似的に代替する(団結権と争議権を容認はしないが、労働条件や福利厚生についての労働者と経営者との意見交換の場を経営の権限で設ける)制度たる「工場委員会体制」が確立され、二〇年代においてはその下で労働市場の内部化(労働者の勤続長期化と企業内昇進制の端緒的形成)が進行していく様が記述されている。
 殊にこの第二の線は、後の研究史を大きく規定した。第一に、この研究は「年功賃金」「終身雇用」で以て特徴付けられるいわゆる「日本的」労使関係の成立を明確な日付と、固有の経済合理的根拠を持ったものとして解明し、それを「封建遺制」とか「特殊日本的要素」によって説明しようとする古典的理解を最終的に粉砕し、労働経済学者の間で六〇年代に展開されてきた「企業特殊的労働市場=独占段階照応」説(2)が日本においても(おいてこそ?)当てはまることを論証したとして、多くの労働問題研究者によって、現代日本の労使関係の原型を描いたものとして読まれてきた。この読み方は、「経済成長史観」とも言うべきものに立って、戦間期に戦後高度成長のメカニズムの原型を見出す一部の経済史研究者たちにも共有されている(3)。
 第二に、「労働組合なき労資関係」としての「工場委員会体制」を戦間期日本労使関係の到達点として描く兵藤氏の議論は、左翼的な歴史学プロパーの研究者の眼に挑戦と映り、「工場委員会体制」の下でも階級闘争の主体としての労働者の成長があったことの論証を目指す研究潮流を生み出した。そこでの到達点は、安田浩氏(4)や西成田豊氏(5)による「二重構造」論的把握の中に見られよう。その要諦は、労働者の闘争的主体性の強調に加え、そうした主体性を経営の枠内に封じ込め得た「工場委員会体制」の実現は大経営セクターに限られていたこと、またそれは大正デモクラシー下の政党政治の一定の展開や、労働組合法案を練っていた内務省社会局官僚の「開明性」に支えられていたこと、そして日本のファシズム化と共にそうした条件は消滅することを強調するところにある。
 第三に、時期的には前後するが、前述の「二重構造」論とは異なる視点から兵藤氏の歴史分析の方法に強力な批判を展開したのが、労働問題研究者の中西洋氏である。安田氏や西成田氏がどちらかと言うと兵藤氏の分析対象の限定性……その狭さを問題としたのとは逆に、中西氏は兵藤氏の分析対象の限定の不十分さ……その広さ、曖昧さを批判する。「労働一般・対・資本一般」の分析になってしまっては焦点がぼやける、と言うのだ。こうなった原因として中西氏は、実は兵藤氏の研究の領導概念は「労資関係史」であると言うより「労働運動史」であることを指摘する。これは戦前日本の労働運動が横断的・企業外的であった史実のそれなりに適切な反映であるが、労働のみならず資本・経営の分析をもなさねばならない「労資関係史」にとって分析の基本単位は、資本蓄積の単位としての、一個の有機的統一体たる経営、企業でなければならない。そして「労働一般・対・資本一般」のオーダーについて論じる場所は国家論となる。様々な個別の「労資関係」を一般化にコントロールする審級は国家の労働政策なのである(6)。この批判の裏付けは中西氏による三菱長崎・神戸両造船所の分析(7)の中に見られる。ここでの文脈がより重要な神戸造船所の争議分析の含意を以下に強引に整理しておこう。
 第一次大戦前後における三菱神戸造船所の労使関係の転換の根底には、従来は経営にとって外在的な存在であった生産現場の職工たち(そのような存在である彼らを経営に関係付ける論理が、近世以来の「主従の情誼」なる身分的秩序感出会った。つまりこうした「封建遺制」は同質化の論理としての「家族主義」の反対物なのである)が、労働市場という経営にとっての外部環境にその人間としての存在の根拠を持つものとしてのみならず、一つの社会としての経営の構成員(財閥系経営たる三菱神戸造船所においては、経営者も職工も等しく「会社ノ被傭人」である、という経営側の言辞が特にリアリティーを持った)としての相貌をも同時に帯び始めた、という事態がある。同時に職工たちの、自分たちにも対等な人間としての「人格」を認めよ、という経営側に対する要求が高まっていた。ここで経営側は、未曾有の戦争景気の下での労働市場の活況と、労働者の「人格承認要求」の企業外での担い手としての労働組合運動の高揚との中で、彼らの「人格」を企業共同体の一員である限りにおいて認め、それによって労働組合の影響力を遮断しようとする「家族主義」的労務管理戦略を採用していくのである。中西氏の「労資関係におけるリーダーシップの、資本から労働への転換」なるパラドクシカルな表現(8)はこうした理解に根拠を持つ。確かにこの時代、労働組合運動は敗北する。第一次大戦以前の、争議の度に職工は首謀者の解雇など若干の犠牲によって成果を獲得できた牧歌的な時代は終わりを告げ、労務管理体制の充実によって争議は未然に防がれる時代が到来する。しかし第一次大戦以前の争議の原因は、経営革新に対する職工の抵抗にあった。ことの正邪、善悪は別として、労働者の行動はあくまでも受動的なものであったのである。これに対して第一次大戦以降においては、争議の原因は労働者の側の主体的な行動であった。弾圧ないし懐柔すべきものとしてではあれ、経営にとって労働者と労働組合は固有の主体性を有するものとして現れるようになったのである。
 このような中西氏の方法は、その後労働問題研究者が歴史研究に向かう際の手本を提供することとなった。対象領域を明確に確定すること、個別事例の具体的な因果連関を詳細に追跡し、兄に既存の理論的枠組みを援用して早わかりをしないこと、すなわち「独占段階」や「ファシズム」といったマクロ的概念によって何事かを分かった気にならず、ミクロ的な新事実の発見がどのような理論的含意を有し、それが更にマクロ的なイメージをどのように修正していくのか、についての開かれた感覚を持つこと、言わば「葦の髄から天井覗く(9)」ことが必要なのである、というのが後進に対する中西氏の教えであった。またそれは方法のみならず内容においても、大きなインパクトを残していく。それは第一次大戦の画期性の強調と、労働者の「人格」問題の提示である。
 最後にアンドリュー・ゴードン氏の “The Evolution of labor relations in Japan”(10)に言及しておこう。兵藤氏があつかった範囲を越えて、明治維新期から戦後高度成長期直前までをあつかったこの著作は、日本労使関係通史の文献としては内外を通じて他に比肩するものなき驚嘆すべき労作である。その創見としては経営官僚層の主体としての独自性の強調を挙げることができるが、分析のキーワードはやはり兵藤氏から継承した「間接的管理から直接的管理への転換」と、中西氏の神戸造船所の分析のキー概念であった労働者の「人格」の翻案としての「メンバーシップ」である。この「人格」概念は主に二村一夫氏によって彫琢されてきたものであるが(11)、ゴードン氏はそれを軸として兵藤氏と中西氏の議論を統合し、バランスのとれた一九二〇年代像を提示する。中西氏の兵藤氏への批判の中に、兵藤氏が二〇年代の大経営における労働市場の内部化を「工場委員会体制」の帰結として、経営側の目的合理性の貫徹と解釈していることに対して、それは二〇年代不況下の消極的な選択・・・新規採用による拡大を控えて子飼いの労働者を温存するに止めることの帰結にすぎない、という指摘があるが、ゴードン氏はこうした不況下の「工場委員会体制」の不安定性を強調する一方、なおそれが仮に建前的なものとしてであれ存立し得た要因として、労働者の「メンバーシップ」承認要求であるという主体的な契機があったことを指摘する。つまり「工場委員会体制」は労働者の主体性の単なる抑圧や懐柔のみならず、まさしく労働者の主体的選択によっても支えられていたのである。

二 「近代」から「現代」へ ――東條由紀彦『製糸同盟の女工登録制度』
 さてようやく本題である東條由紀彦氏の『製糸同盟の女工登録制度』(12)と佐口和郎氏の『日本における産業民主主義の前提』(13)の紹介に入ることができる。様々な意味で対照的なこの二つの処女作はしかし、一つのモチーフを共有している。それは「人格」概念を軸に、実は中西氏もゴードン氏も十分には提示していない、労使関係という「葦の髄から覗いた天井」たる日本をきちんと描こう、という志である。また後論に明らかな通り、兵藤氏が「工場委員会体制」と呼んだものの正体を探ることも重要な目標として設定されている。もちろんこの両著は共に、言わば中西氏の教えに忠実に、実証分析の対象を厳格に限定している。東條氏の対象は明治後期から昭和初期にかけての諏訪地方の製糸業の女工労働市場と、その統制のために結成された業界団体たる製糸同盟であり、佐口氏のそれは前半においては戦間期の三井三池鉱山と呉海軍工廠の労使関係、後半においては産業報国会を巡る国家レヴェルでの政策過程である。しかしその構想においては、一方で東條氏の饒舌と大胆、他方で佐口氏の韜晦と慎重、という文体上の差異こそあれ、労使関係と日本社会についてのグランド・セオリーへの野心が両著にはみなぎっている。
 東條氏の著作は、そのカヴァーする時代の範囲を兵藤氏の著作のそれと重ねつつ、研究史上後景に退いていた兵藤氏の著作の第一線を批判的に継承する。東條氏は第一次大戦前後の労働市場の変容・・・〈分断的累層的労働諸市場〉から〈統一的位階層的労働市場〉へ・・・の中に、日本社会の基層での変容を読み込んでいく。東條氏によればこの時期日本社会が経験した変容は、様々な主体の間の関係の様相、といってレヴェルに止まらず、何を以て主体として社会を扱うのか、といったレヴェルにおける変容なのである。簡単に言うと、この時期を境として日本社会における主体(東條氏の用語法では「個人」)の単位は「家」から身体的な個人へと転換したのである。
 諸主体間の関係の場としての「市民社会」も変容を遂げる。第一次大戦前(東條氏の用語法では「近代」)の日本社会は、「「家」相互の「家産」の所有者としての認知によって形成される、同職集団、村、同族団等の複層的市民社会」、すなわち複数の「市民社会」の集合体である。そして「家」とその「家産」のタイプは各「市民社会」ごとに様々であるため、各「市民社会」のルールはそれぞれに異なる。資本家的経営は諸「市民社会」の隙間に、それに制約されつつそれを利用する形で生息していた。ここでは資本的生産は「家産」に依存して行われていたのである。例えば本書での分析対象である製糸女工の場合、女工に対する労務管理は、「家」の女子に対する「没人格的支配」を経営による女工の管理へと移転させることによって成立していた。そして国家はこれら諸「市民社会」のルールには基本的に干渉せず、それら相互の間に矛盾が生じたときにそれを「裁定」するという形で社会全体を統合していた。
 これに対して第一次大戦後(東條氏の用語法では「現代」)の日本社会は、「「労働力」という「財産」の「所有」者の集合体」であり、「労働力」という「財産」はタイプとしては同一であるためこれは「単一の市民社会」である(「労働力」商品の間の異質性は一次元的に位階層的に配列し得る程度のものである)。ところがここでは資本家的生産は自立しており、もはや「家産」に依存していたようには「労働力」に依存していない。生産の統制権は資本家的経営に決定的に握られており、「労働力」商品を「所有」しているということの実態は、生産現場への入口では資本家的経営に同意するかしないかの自由が存在するが、一端生産現場に入れば資本家的経営に服従するしかない、ということである。即ち、「単一の市民社会」のルールが「労働力」という「財産」に規定されているとするならば、それを更に規定しているのは資本家的経営なのであり、そのようなものとしての資本家的経営は実質的ルールメーカーとして「市民社会」に内在しているのである。これを東條氏は現代的な〈資本のヘゲモニー〉と呼ぶ。そして国家も「単一の市民社会」に内在化し、「強制の鎧をつけたヘゲモニー」として現代的な〈資本のヘゲモニー〉を普遍的に公正なものとして確立すべく機能する。
 しかしもちろん、この現代的な〈資本のヘゲモニー〉を単純に資本家的経営や国家の成長という側面からのみ理解するわけにはいかない。「家産制」的「家」の解体と共に出現してきた主体たる「個人」としての身体的個人の「人格的成長」が、その不可欠の構成要素なのである。このことを東條氏は、女工の労働移動と賃銀決定についての綿密なデータ解析に基づき、女工が自らの意志では就業も移動もしない、「家」に「没人格的」に融合した「「実家」の一分肢」たる「「生計補充」型労働力」から、自らの意志で移動もすれば労働組合に結集して争議の主体ともなる、一個の独立した「人格」を有する存在へと転換していく様を描き出すことを通じて論証しようとする。
 こうしてみると東條氏の「〈分断的累層的労働諸市場〉から〈統一的位階層的労働力市場〉へ」ないし「「近代」の複層的市民社会から「現代」の単一の市民社会へ」なるテーゼは、氏自身が明言するところでは、中西氏の第一次大戦画期説の再解釈として提出されているが、と同時に、ともすれば兵藤氏自身の意図を裏切り、技術的決定論的な響きを持ってしまう「間接的管理体制から直接的管理体制への転換」テーゼのよりイメージ豊かな変奏となっている。
三 擬似労働組合と産業報国会 ――佐口和郎『日本における産業民主主義の前提』  他方、佐口氏の著作は、兵藤氏の著作の第二の線をより遠くまで歩みつくそうとする。その実証研究上の核心は、第T部における「工場委員会体制」下での「擬似労働組合」の意義の強調と、第U部での労使関係論的アプローチからする産業報国会の徹底的な分析である。そしてこの二つを貫く領導概念が、やはり「人格」なのである。
 佐口氏は「日本における産業民主主義の前提」として「人格主義」という概念を設定する。それは労働者の側からする「人格承認要求」とそれへの経営側の対応を通じて形成される、社会的な含意の組織化=ヘゲモニーである。これは戦後の日本においては、労働者の団結権と争議権を認める形で、すなわち産業民主主義の中に実現をみたが、戦前はついにここに到達することはなかった。このことの意味は二通りに解釈できるであろう。第一に、「人格主義」は産業民主主義にとって障害となり得る。しかし第二に、「人格主義」が戦後の産業民主主義を可能とした、とも言い得る。「二重構造」論は第一の解釈を、「経済成長史観」ならば第二の解釈を強調するであろう。しかし佐口氏は機械的な割り切りを避けて、この隘路をすりぬけようとする。仮に同種の「人格主義」であっても環境の変化に応じて異なった制度にその実現を見、多様な機能を持つであろうし、また「人格」という言葉の意味それ自体も歴史の中で変容していくであろう。
 この多様性と変容を適切に検出できるように、佐口氏の研究対象は選択されている。選択に際しての出発点は産業報国会に置かれ、その初期の立案過程における経営者と官僚の構想の原型を求める形で、それぞれ三井三池鉱山と呉海軍工廠とが選ばれている。
 三井三池鉱山では一九一八年の米騒動と労働争議の複合としての「万田事件」を経て、従来経営側と親方鉱夫層とで労使関係のインフォーマルな調整を行い得る唯一の場所であった共済組合が廃止され、替って鉱夫も職員も平等に加入し、鉱夫の選挙によって惣代を選出し、惣代間の互選で相談役の一部を選出する共愛組合が設立された。これは経営側にとって、労働組合に代替し得る組織、その経営内への影響を遮断しつつ、労働条件を巡る労使間のコンフリクトを処理し得る組織として、また職員と鉱夫の対等性を強調する同質化の組織として意識されていた。しかしこれは一九二四年の全三池争議の後組織改変を余儀無くされる。そして改変後の共愛組合は、労使混淆の相談役会とは別に労働者代表のみの惣代会という機構を備えることとなる。これは労働者側が労働条件を巡って経営側とは異なる固有の利害を持つ存在であることの公式の認知であり、労働組合代替機能という点では一歩前進したといえる。
 しかし惣代会はあくまで「擬似労働組合」であった。何となれば、団結権も争議権もそれには認められず、それゆえ労働条件を巡る交渉能力も低かったからである。この点で注目すべきは、相談役会での議題における、組合自体に関するものと、労働条件に関するものとの後退と、能率増進に関するものの増大とに対する佐口氏の解釈である。従来の研究ではこの内の後者のみが切り離されてとり上げられ、例えば橋本寿朗氏によって、労使関係に団体交渉と経営協議会の複合的枠組みを確立したワイマル体制下での、経営協議会による産業合理化運動の日本版として捉えられる(14)など、この時期における労使関係機構の一定の進展を示すものとして解釈されてきたが、これを佐口氏は前者の傾向と連関させて捉える。この時期労働者には労働条件(特に賃金)向上をそれ自体として要求する権利は認められず、能率増進の分け前を恩恵として受け取る以外の道は残されていなかった、と言うのである。
 そしてヴェルサイユ体制の一員としての日本のILO労働側代表選出問題など外的インパクトもあって、労働組合法案が成立は見ないまでも提出され、労働争議調停法は成立する、など戦前における産業民主主義への接近の臨界点にきていたこの二〇年代中葉という時期を過ぎると、昭和恐慌と日本のヴェルサイユ体制離脱の下で、その労働組合代替機能は急速に萎縮していく。そして組織改変以前の同質化の論理が「国家的使命」達成のための「労資一体」を強調する形で再浮上してくる。
 官営企業である呉海軍工廠では、事態はまた違った推移を見る。日露戦争後に大争議を見たものの、第一次大戦前後には争議を経験しなかった呉海軍工廠では、準軍隊的な職場規律への志向と相俟って、三井三池ほどには経営側による労働問題への明確な問題意識が育たなかったが、客観的な情勢……労働力不足下での職場規律の弛緩等……はそれを許さず、また内務省を中心に労働委員会法案の検討された時期でもあり、国家(艦政本部)主導の下で全国の他の海軍工廠ともども呉職工協議会が一九二〇年に設立される。
 ところが一九二二〜一九二三年の軍縮解雇は大戦期の新規大量入廠者層を中心とする職場問題の震源地を取り去ることとなった。そのことは一方では基幹労働者層の発言力を強め、労働組合法案の立案、ILO労働側代表選出問題なども相俟って二四年に労働者自身の組織たる呉海工会、さらに全国組織たる海連が設立を見るものの、三一年の軍縮解雇、更に三四年のワシントン軍縮条約の破棄による日本のヴェルサイユ=ワシントン体制からの離脱によってその自主的労働者組織をしての射程は決定的に萎縮していく。その中でここでも同質化の論理が浮上するが、それは「労働報国」なるスローガンに表されるごとく労働者の国家への無媒介的な統合なる理念によるもので、三井三池における「国家的使命」達成のための「労使一体」なる理念の、労働者統合の単位は直接には経営であり、それを媒介として初めて国家への統合が達成される、という構図とは対照をなす。
 この三井三池的な同質化の論理と海軍工廠的なそれとは、後の労働者の戦時動員の機構としての産業報国会の立案・形成過程の中でそれぞれ経営者側と国家官僚側の構想の中に強い影を落とす。もともとそれは日中戦争の開始と共に、第一次大戦後の欧州の労働運動の激発の経験を踏まえて、戦後処理を念頭に置いて検討が開始されたものであったが、経営側は基本的には、労働者を経営へと取り込んで一体化する従来の枠組の延長での対処を主張したのに対し、国家官僚側は、一方で労働組合法案以来の、労働問題を適切に処理し得る枠組への志向を持ち続け、他方では労働者の主体性を国家への奉仕へと無媒介に動員し得る理念を求める、というやや不整合な目標を抱いていた。ここで争点は、主体としての労働者を国家の中にどのように位置付けるか、というところにあったのである。そして官僚たちは、経営者も労働者も共に平等な「陛下の赤字」として「勤労」を通じて国家に奉仕する主体である、というイデオロギーに到達する。
 戦争の長期化に伴い、課題は当初の戦後処理から戦時動員へと移行していくが、混迷は深いままに妥協が積み重ねられ、職場・地域・国家の各レヴェルを貫通する産業報国会体制が一九四〇年には成立する。これは全国組織と共に職場レヴェルでの「五人組」等を備え、経営の職制機構とは別に、また必ずしも国家の暴力装置による強制的動員に頼ることなく、労働者の自発的な主体性を戦争遂行に向けて動員することを目指したものであったが、既存の経営の職制機構とのコンフリクトに直面したり、必ずしも適切に労働者の労働条件等を巡る不満を代表・処理できなかったりして機能不全に陥っていく。
 こうした機能不全はもちろん、戦局の悪化に伴う経済的制約などによるところが大きいが、労使関係内在的には、同時期の戦時動員に労働組合と一方の担い手とする産業民主主義の確立ないし強化によって対処した連合国、あるいは党組織を職場に配置して労働組合を代位させたナチス・ドイツなどと異なり、労働者を「人格」的主体として承認しようとする一方で、国家、あるいは経営とは決定的に異質な存在としての労働者を認めることのできなかった日本の状況の然らしむるところである。団結と争議の権利を持たない「擬似労働組合」の成立を見た二〇年代中葉とはその意味でも臨界点であった。
 「工場委員会体制」は労働組合を排除はしたものの、労働者の主体性を排除し得たわけではなく、それをいかなる形で位置づけて秩序化するか、という課題から自由ではなかった。しかしこの問いにきちんと解答することはついにできなかったのである。

四 両著の論評 ――「人格」・ヘゲモニー・「民間社会科学」
 以上の要約を経て、ついにこの両著による達成の測定を行うべきときとなった。東條、佐口両氏の共有する歴史観をやや安易にスローガン化すると、「人格成長史観」とでも呼ぶべきであろう。「人格」そのものの担い手たる身体のタイプの交代を主張する東條氏の場合は言うに及ばず、佐口氏の場合も、労働者の「人格」がいかなる形で定義され、社会的に承認されるか、を労使関係のミクロ的な状況から捉えつつ、そこから日本社会全体の姿を見ていく、という姿勢においては一貫している。
 更に「人格」を補捉するための方法について自覚的であることと、両氏における理論志向とは無縁ではない。「人格」とは抽象的な理念であり、実証主義的な処理に馴染みにくい。然るに両氏は「人格」のみならずおよそ理念的な契機の重要性を強調する。例えば佐口氏の産業報国会分析において注目すべきは、通説では産業報国会は建て前だけの空洞化した組織として理解されているのに対し、単純にそれを肯定したり否定したりするのではなく、なぜそのような建て前が無理を押してまで追求されたのか、を考えようとする姿勢である。差し当たりまず実態よりも規範、理念を重視しているのである。
 私なりにパラフレーズしよう。人々が抱くイデオロギー、理念、観念は「民間社会科学 folk social science」(15)とでも呼ぶべきものを織りなしている。それは人々が社会を認識し、了解し、それと関わり合っていくやり方、特にそれについての自己省察のことである。それは必ずしも明確に分節化も体系化もされておらず、内に矛盾を多々含むものではあるが、限られた能力しか持たない人々が不確実で複雑で広大な世界の中で生きていくための暫定的な見取り図として、常に形成されてくる。制度化された社会科学とは、この「やり方」の追求を自己目的化した営みのことである。東條、佐口両氏の探求の焦点は、この近代日本における労使関係についての「民間社会科学」にあるのだ。
 例えば東條氏はその著書の冒頭で廣松渉氏の物象化論を批判的に踏まえつつ、自らの理論的立場のマニフェストを行っている。それは通俗的な物象化論のごとく、我々が日常的に意識する「「物的世界」はフィクションであり、「事的世界」が実在である」と覚めた分析者の立場から指摘することにではなく、この物象化的錯認の産物である「物的世界」の当事者的リアリティの切実さを強調し、それを再編成することに主眼を置く(16)。このリアリティとしてのフィクションについての、あくまでも当事者としての立場からのある程度洗練された自覚を、私は「民間社会科学」と呼ぶのである。
 また佐口氏の場合、実はこのレヴェルに照準することが戦前期日本労使関係の全体像の獲得への戦略の要諦をなしている。ところで「全体像」とは具体的には一体何のことだろうか。ある限られた時代に射程を区切ったところで、仮にそこにおけるあらゆる労使関係上の出来事を枚挙的に記述することによってそれが得られるとしても、そんな作業は実行不能であるし、実行できたところでその成果は読者にとって理解不能であろう。どうしてもある抽象がなされざるを得ない。そこで問題はどのような抽象が「全体像」と呼び得るものをつくり上げるか、である。とりわけ個別事例研究を通じて「全体像」を描くということは一体どういうことなのか、を明らかにしておく必要がある。
 佐口氏の作業における「全体像」抽出の論理はどのようなものであろうか。解釈の仕方は幾通りかある。まず第一に、第T部末尾で氏自身が西成田氏の「二重構造」論的把握を批判しつつ言う通り(17)、「事例の代表性」に留意する、すなわち全体に共通する特徴を典型的に浮かび上がらせている事例を抽出し、それを詳細に分析するという方法として。第二に、第T部の戦間期分析で検討されている事例が、第U部の対象たる産業報国会へのインパクトという観点から選ばれている事から推測されるところの、国家の労働政策への寄与度によって「事例の代表性」を判定する、すなわち、国家の労働政策を領導する理念を以て「全体像」とする、という論理として。この二つの論理は相互に矛盾するものではなく、むしろ補強し合うことを期待できるが、なお不明瞭な点は残る。
 第一の論理については、まず「事例の代表性」の根拠としての共通性はいかにして発見されるのか、という点について疑問が残る。厳密に言えば、共通性を括り出すだけのためにも、やはり全事例の枚挙的な検討という不可能に近い作業を経由せねばならない。また、例えそうした検討がなされて何らかの共通性が発見されたとしても、それがなんなる偶然の産物ではない、という保証はどこにあるのか。このように考えると、実行可能性という点では第二の論理、国家の労働政策への着目の方に分があるように思われる。しかし、国家の労働政策を領導する理念を以て「全体像」とする、という論理は果たしてそれほど堅固なものであろうか?特に佐口氏の場合、このレヴェルにおける非一貫性、不整合性を強調するだけになお一層この疑念は強くなる。国家の政策当局が労使関係の現場を正しく把握している保証はない。またそもそも「国家」とは一体何のことであるのか?天皇か、議会か、内閣か、内務省か?つまるところ、「全体」を代表する事例を抽出するにせよ、国家の理念を以て「全体像」をなすにせよ、いずれにせよそこには研究者の側の多少なりとも恣意的な判断が介入しているのだ。
 ここで問題設定を転換する必要がある。一体何のために我々はその時代の「全体像」を求めるのか。その少なくとも一つの理由は、佐口氏の場合も明確にそうであるが、我々自身がいきるこの現在の「全体像」を捉えその一助とするために、である。先行する時代は我々自身の現在が生成してくるその原因を形造っているのだから。しかし、すでに終わって確定してしまった過去についてでさえほとんど不可能なその「全体像」の正確な構築など、現在については不可能であることなど、自明の理ではないのか?それにもかかわらず、いやそれ故にこそ、我々は世界の「全体像」を暫定的に構築し、それを以て世界にはたらきかけて生きていく。それが不完全であることは自明であり、その都度修正を加えられ続ける。これが我々にとっての、制度化されたものであれ、「民間」レヴェルであれ、(社会)科学なのである。「全体像」の構築を必要としない、と言うより欲しない時代、社会も存在するであろう。しかしそれを欲するのが我々のこの社会、そしておそらくは「近代」というものなのだ。そして対象とするその時代、その社会も我々と同様に自らについての「全体像」を欲し、造り上げる努力をしているとすれば?我々の欲するその時代についての「全体像」が直ちにそれとイコールでなければならない理由は全くないが、少なくともそれを踏まえる必要はあるのではないか?いやむしろ、それを見出すことこそが第一義的な重要性を有する課題なのではないのか?
 確かにその時代における、同時代人の抱く時代の「全体像」とは後続する時代の……現在における我々の眼から見て著しく不完全なものである。しかし敢えて言うならば、そのような無知と誤謬こそがその時代の構成要素なのであって、現在の回顧的な視線によって見出された事実とは、その時代よりはむしろ我々の現在の方に属しているのだ。それゆえその時代を現に生きていたものとして捉えるためには、この同時代人の抱く不完全な「全体像」にこそ注目せねばならない。よく言われる「歴史におけるオルタナティブ」なるレトリックの真の意味は、この観点でのみよく理解され得る。現時点から見ての、確かな唯一の現実についての同時代人の無知と誤謬の大部分は、まさしくその時代の当時者的視点からすれば現実の未知性と不確定性、すなわち可能性の過剰に他ならない。不完全な同時代人の抱く「全体像」、すなわち「民間社会科学」に照準して初めて、この可能性の過剰、すなわち「歴史におけるオルタナティブ」がその混沌とした真の相貌を現わすのだ。
 この観点から佐口氏の「事例の代表性」や国家の政策への着目を解釈してみよう。代表的な事例が「全体像」構築の手掛かりとなる、というその理由は、この代表的な事例そのものが同時代人にとっても「代表性」を帯びていたからである。実際佐口氏自身、この時代の財閥系経営者層が社会的出自を同じくし(帝大出)、相互に連絡を取り合っていたことに言及しておられる(18)。こうした財閥系大経営の事例が統計的に見て到底平均的とは言えない、といった批判はナンセンスである。統計的平均値を以て代表的事例と見なす、というやり方は自明ではない。問題はこうした事例が模範、ないしは参照点として規範性を帯びていたかどうか、である。そしてこの時代こうした財閥系、あるいは国家経営の経営管理方式、労使関係制度はそのような意義を明らかに有していたのである。国家の労働政策もまた、このような社会的規範としての流通性を持っていた大経営の動向を一方でにらみつつ、形成されてきたのである。東條氏はこういう事情を「管制高地」なるレーニン主義用語で表現している(念頭に置かれているのはグラムシであるが)(19)。また国家が独自に打ち出した政策理念も、国家という存在の独自の性格によって、規範性を帯びて流通することになったであろう。つまり問題は、国家の理念の中に現実の労使関係のありようが適切に了解され、取り込まれているか、ということによりも、第一義的には、国家が全体社会について配慮しなければならない存在である、ということにこそ存する。この意味で事実よりも理念、規範のオーダーが先ず重要なのである。
 翻ってこの観点から東條氏の議論を見直すこともできる。私見によれば、東條氏の用語法による「近代」と「現代」との差異は、この種の「全体像」が全社会的に要請され、需要されているかどうか、にも求めることができるのである。
 先に触れた通り、東條氏の言う「近代」の「複層的市民社会」はそれぞれ規範的には自立した複数の「市民社会」から成り立っており、それら相互の関係を一律に取り仕切るメタルールはない。それらは共通する規範の効力によってではなく、既成事実的に棲み分けることによって共存している。「近代国家」はこうした「複層的市民社会」に言わば外接しており、その領域内の諸「市民社会」に一律のルールを確定していこうという志向を持たないわけではないが、それを十分に実行する能力を持たない。それ故差し当たり諸「市民社会」の内的規範を解体して一律のルールを確定する=「単一の市民社会」を創出することによってではなく、諸「市民社会」間のルールの衝突によるコンフリクトを多分にアドホックな形で裁定し、それを強力により貫徹させることによって、「近代国家」は自己のテリトリー内の諸「市民社会」を統治するのである。「市民社会」の側からの「近代国家」への服従の論理も、内在化された規範に基づいて、国家の正統性を承認するが故に、その統治に従う、というものではない。東條氏の卓抜な表現によれば「お上の沙汰で是非もない(20)」から従うのだ。良いも悪いもなく、長いものには巻かれろ、というわけだ。このような「近代」の社会においては、少なくとも「市民社会」のレヴェルにおいては国家大の範囲の社会についての「全体像」が形成される必要はないであろう。それは「お上」の守備範囲なのだ。一方国家の方は既に「全体像」を構築している。しかしこれは「市民社会」のレヴェルには浸透しない。かくしてその「全体像」は、「近代国家」の側の一方的な報われぬ愛によって形造られ、下からのフィードバックによる修正を十分に受けないまま、いびつな、妄想の域を大して出ないものとなっている。そしてそれを浸透させる……浸透し得るほどに諸「市民社会」にとってもリアルなものへとそれを鍛え上げる力も、「近代国家」にはまだないのだ。
 こうした「近代国家」の「市民社会」に対する外接的な関係の具体的なありようは、東條氏自身によっては、大正末期に製糸同盟の女工登録制度を廃止に追い込んだ国家の介入過程の分析、と言うよりそれ以前に国家は女工登録制度に対して何ら容喙しなかった理由の解明を通じて示されている。もともと女工登録制度は明治末期に、経営間での女工の争奪を防止するために設けられた制度であり、女工一人一人についてどの経営に彼女を雇用する権利があるのかを年度ごとに厳格に定め、かつそれを年度を越えて延長させようとするものである。それは当初成文化された規則によれば、女工の移動の自由を完全に制約するものであり、通説でもそう理解されてきた。しかし一次データに基づく綿密な解析を通じて東條氏は、実際にはその規制はほんの一時期を除いては厳格なものではなかったこと、にもかかわらず第一次大戦前まではそれは女工の移動を大局的には抑制し得ていたこと、しかし第一次大戦期の繁忙以降一挙に制度は空洞化すること、を示している。こうした変化はもちろん様々な要因によって引き起こされている。大経営の急速な拡大に伴う女工引き抜き競争の激化、労働市場の地理的外延の拡大、そしてもちろん、「個人」としての女工の「人格的成長」。
 だが問題は、国家による決定的な介入は登録制度がどうにか機能していた時期にも、またそれが空洞化した時期にもなく、もちろん空洞化それ自体の要因として国家の介入を数えることはできない、ということである。国家の政策当局は登録制度が実質的に空洞化した時期になって初めて、登録制度を「職工の人格を無視し物権的に取扱ふの意味に於いてそれは非人道的である」と批判し、その全面撤廃を要求したのだ。そして製糸同盟の側も、登録制度の空洞化を承知しながらも、国家の介入に強く抵抗した。
 この点についての東條氏自身の説明はやや不十分である。「管制高地」たる重工業大経営での「団体交渉権獲得運動」の成果としての「人格主義」の理念が国家を媒介として「辺境」としての製糸業の労使関係にも及んだ、というのがその大筋であるが、それは原因と言うよりはむしろ結果である。既に空洞化した制度をわざわざ強制的に廃止に追い込んだ国家のやり方は、幾分か場違いに感じられる。これは国家による積極的な介入と言うより、既成事実の再解釈と追認、とでも呼ぶべきものであったろう。
 しかしきちんとした解釈と追認ができるようになった、ということ自体が、国家の質的な変容を証拠立てるものであるのだ。もはや国家の持つ労使関係についての「全体像」は単なる妄想の域を越え、「管制高地」において形成されてきた言わば「市民社会」レヴェルでの自主的な「全体像」を踏まえたものとなっている。そしてそれを強制する力も備わっている。しかもその強制力はもはや単なる強力によって「是非もない」形で従わしめるものではなく、正当なるが故に服従せざるを得ない、語の真の意味での「正統な権力」である。以前ならば「重工業大経営で何が起ころうと、諏訪の製糸業に何の関係があるものか」という論理が罷かり通ったであろうが、もはやそうはいかない。登録制度の撤廃は、製糸業の労働市場と労使関係の実態に対しては何程の効果を及ぼすものではなかったかもしれないが、国家レヴェルで合意された「全体像」の受容を迫るものとして、その象徴的効果は絶大であったであろう。もはや製糸業も女工労働市場も、「単一の市民社会」の一部なのであり、国家は「現代国家」なのだ。
 まとめよう。両氏が「ヘゲモニー」なる用語で表現している現象を、私は「全体像」としての通用性を主張し得る「民間社会科学」に基づく社会編成のリーダーシップとして理解する。東條氏の説くところに従えば、それは日本の労使関係においては第一次大戦を画期としての、全体社会と国家の変貌……「近代」から「現代」への移行の一環として成立を見た。佐口氏によればそれは「人格主義」と呼ぶべきものであり、内に多くの矛盾を孕んで不安定的なものでありながら、第二次大戦終結までそのオルタナティブが出現しなかったが故に存続した。それは労働者の「人格」という概念装置を以て労使関係を運営していこうという目論見であった。
 しかし両氏の著作においてもなお解明されず、また本稿による解読によっても明らかとなっていない点がある。「管制高地」が何故生成してくるのか、それを必要とする社会とは一体どのようなものなのか、は両氏の著作とそれに対する本稿での読解によって既に明らかとなったであろう。しかし何故財閥系大経営、また官営企業、より講義には重工業・鉱業大経営が戦前期日本の労使関係の「管制高地」となったのかは、未だ十分に明らかではない。この点の解明は維新期以来の労使関係史、社会政策史のみならず産業史、経済政策史についてのより包括的な研究を待って初めて可能となる。

五 批判的再解釈 ――「人格承認」のダイナミックス
 以上、理念、更に私の用語では「民間社会科学」への着目、という視点から東條、佐口両氏に共通するアプローチの意義を強調してきた。ただしそれはいまだ十分に洗練されているとは言い難い。また両氏の間には無視し難い差異も存在する。そこで両氏の間に伏在する理論上の差異を手掛かりに、この「民間社会科学」アプローチの洗練を図っていこう。そのために「人格」概念についてより深く考察していく必要がある。
 第一に、東條氏の静学的接近法に対して佐口氏の動学的接近法とでも言うべき違いがある。佐口氏の場合、一口に「人格承認」と言ってもそれを複数の契機に分節化して捉えることとなる。労働者による能動的な「人格承認要求」と、経営、あるいは国家によって労働者が受動的に「人格承認」されることとの間には、一義的な対応関係があるわけではない。更に経営や国家による「人格承認」の具体的な内容も、労働者を能動的な「人格承認要求」の主体として捉えるのか、あるいは受動的に「人格承認」される存在として捉えるのか、という相違が生じる。こうした合意の成立不成立、合意さるべき理念それ自体の不整合の可能性が佐口氏にとっては「人格主義」の歴史的なヴァリエーションとその中でのダイナミックスを捕補捉する糸口となる。氏によれば戦間期には労働者による能動的な「人格承認要求」とそれへの経営や国家による対応が時代の中心課題として迫り出し、戦時期には(中西氏の言う意味での)労働者のリーダーシップが後退し、経営や国家による「人格承認」の具体的な内容の方に争点がシフトするのである。こうした佐口氏のディテールを追うに優れたダイナミックな方法に対し、東條氏の方法はともすれば大雑把でスタティックな印象を与える。東條氏の「「近代」から「現代」へ」のシェーマは承認を受ける「人格」そのものの差異化に焦点を当てており、「人格」が誰によって、いかように承認されるのか、というディテールに十分捕捉できない。
 しかし第二に、両氏の間の時代と状況の測定の深度の違いにも触れておかねばならない。佐口氏の眼が「人格」を巡る諸主体間の相互作用に焦点を合わせているのに対し、東條氏は当の「人格」そのもの、更にはその「人格」を巡る主体そのものの変容に眼を向ける。両氏の焦点の深度の差は明白であろう。もちろん焦点の深浅それ自体が直ちにアプローチの優劣を決めるわけではない。よりタイムスパンの長い兵藤氏の第一の線を追求することを主題とする東條氏と、より狭いスパンの第二の線の追求を目指す佐口氏とでは、自ずと焦点の深浅が出てきて然るべきだ、とも言い得る。しかし佐口氏の焦点深度が、氏の対象の十全たる解明のためにはなお浅過ぎるとしたら?
 労働者の「人格」とは要するに労働者の社会的な定義の特殊な様式である。だから、労働者の「人格」とは何か、について一定の社会的な合意がルースにではあれできていなければ、そもそも労働者とは一体誰のことなのか、が客観的に分からなくなるのではないだろうか?にもかかわらず佐口氏は、労働者とは何者であるのかは特に問うことなしに、労働者が承認を要求する「人格」について語り、労働者の組織として「(擬似)労働組合」を定義する。これでは論理の順序が逆なのではないだろうか。
 東條氏なら恐らくここで、まず労働者の「人格」について定義し、続いてそのような「人格」を「個人」に対して承認して割り当てるヘゲモニーとして、労働組合ないしその他の労働者の自主的組織と、資本家的経営、国家などの社会システムについて定義し、最後にそのようなヘゲモニーに組織される(可能性のある)「個人」たちを労働者(階級)として定義するであろう。この方が論理的にはむしろ一貫すると言ってよい。しかしこの視角にも重大な難点がある。それは先に指摘した静態性に止まるものではなく、むしろそうした静態性もそこから派生する二義的なものであるにすぎない。問題は、「人格」の具体的な内容を、他者の「人格」を承認する/他者に自己の「人格」を承認することを要求する、という振る舞いから完全に切断して定義することはできない、ということだ。承認する営みと独立には「人格」は存在し得ない。何となれば「人格」とは承認されるということ自体、もしくは承認の要求それ自体であるからだ。
 そこで論理の出発点に「承認する営み」を置いてみてはどうか?東條氏の用語法に従えば、承認する主体は「個人」であり、承認を受ける客体も「個人」、当然承認されることを要求する主体も「個人」である。個々で「承認する」とは具体的には「ある「個人」を「人格」を有する者として承認する」ということだが、「人格」とは不可視の理念であり、仮に「個人」Aが「個人」Bを「人格」を有するものとして承認し、「個人」Bがそれを了解したところで、「個人」Aが承認した限りの「個人」Bの「人格」と、「個人」Bが「個人」Aによって承認されたと了解する自らの「人格」とでは、その内容が異なっていることがあり得る。にもかかわらず、仮初の、誤解に基づくものであってもそのような承認関係が成立し得る根拠は、「承認する営み」それ自体は行為として可視的であることである。心の中で思っただけでは「承認する」ことにはならず、具体的に表出され、物質的な効果を生む振る舞いに具体化されて初めて「承認する営み」となる。例えば物理的音声として発され、人々の記憶に残る発言として、またその文書(あるいは録音テープ等)への記録として、約款、協約等の合意文書として、賃金台帳として、実際に支払われた賃金として、また制定された法律、あるいは法案として。このことはまた同時に、実証研究のための確かな台座を提供する。
 「承認する営み」を論理の出発点に置く、とは行為の主体としての「個人」から出発するということではない。行為のパターンの連鎖と累積としての社会システム、具体的には社会的な制度、組織から出発するということだ。タルコット・パーソンズ以降の社会理論においては、社会システムは人間を単位としてではなく、コミュニカティヴな意味を担う行為を単位として構成されている、と考える。更にニクラス・ルーマンのオートポイエーシス論によって特に強調されたところであるが、人間は社会システムにとっては外部環境に属する存在であり、社会システムの構成単位としての行為、コミュニケーションの担い手ではあるが、それ自体は社会システムの構成単位ではないものとして位置づけられる(21)。もちろん社会システムの内側において、ある特定の行為の集合を担うものとしての特定の行為主体タイプ……すなわち、「役割」「地位」等……が定義されることはあるが、これとこれを担う身体そのものとは区別される。特定の「役割」「地位」の担い手そのものは入れ替え可能である。また担い手としての人は同時に複数の組織のメンバーであることができるし、ある組織の成員=ある特定の「地位」の担い手がまたそれ自体一つの組織である、という入れ子構造を考えることもできる。しかしこのことはまた、東條氏のごとき悪しき構造主義、社会システムをパターンの静的な体系として理解する立場を採ることを意味するわけでもない。一つの組織にとっては成員のみならずその内的構造、「地位」の体系や組織目標それ自体もまた可変的である。となれば一つの組織、に限らず社会システムの同一性は何によって確保されるのかと言えば、それを同一のものとして「承認する営み」が継続していることによってであろう。同一であるから「同一である」と承認されるのではなく、「同一である」と承認されるから同一なのである。先の「民間社会科学」とはこうした「承認する営み」の自覚化され、洗練されたものである。
 この観点から東條氏の枠組を再解釈すると、「人格」とは「市民社会」の構成単位であり、「個人」はその担い手である。そしてヘゲモニーとは「個人」に対してこの「人格」を割り当てて承認する営みの連鎖としての社会システムである。論理の出発点は「人格」にではなくヘゲモニーに置かれねばならない。
 更にこの観点から佐口氏の枠組みを修正すると、労働者、経営、国家、の三つ組から出発せねばならないことになるだろう。この三つはいずれも公式組織という特殊な社会システムの一タイプに属するものとみることができる。ルーマンに従いつつ、公式組織とは何か、を簡単に定義しよう(22)。第一にそれは公式化されている、すなわち、自己の同一性の定義について自覚的であり、その自覚は文書化されたルールなどの定義について自覚的であり、その自覚は文書化されたルールなどの形で明示的に表現され、公的なコミュニケーションに晒されている。第二にそのルールにおいて枢要な部分を占めるのは成員役割についてのものである。組織を構成する行為はもっぱら特定の要件を満たした身体(個人ないしその集団、あるいは別の組織)によって担われなければならない。この身体が成員であり、その要件の引き受けが成員役割である。具体的にはそれは、成員であるために従わねばならないところのルールの体系である。このことは、成員各々にとって、自分が成員であることが自明でないことの自覚を促し、自分が属している組織を客体視できるようにする。すなわち、各成員の立場からも組織の同一性は問題とされ得るのである。
 ここで先の「民間社会科学」論とこの公式組織の定義とを合わせ見るならば、公式組織とは、一定の「民間社会科学」を以て自己と環境についての定義を行う社会システムであることは明らかであろう。その「民間社会科学」の射程距離は、当該組織の活動する範囲によって規定される。とりあえずそれは、自らとそのローカルな環境についての見取り図とそこでの方針についてのものでさえあればよい。しかしある種の組織は、国家のテリトリーと外延的に重なるかそれ以上の、時に可能な限り広い範囲で活動せざるを得ないであろう。そのような場合、その「民間社会科学」は「全体像」としての性格を強く帯びざるを得ない。ここで問題とする三種の組織は、いずれもこのような性格を帯びている。こうした性格を有するシステムを、ヘゲモニーと呼ぶことにしよう(23)。
 このようにして労働者組織の定義を、「個人」としての労働者から出発するのでもなく、また労働組合の不完全な形としてでもなく、それ自体として行うことができる。すなわち、労働者組織とは「個人」に対して労働者としての「人格」を承認し、「個人」を労働者たらしめる組織の一つである。それはその成員間の労働者としての「人格」の相互承認関係……互いに等しく承認する主体であり、承認される客体であるところの「人格」を有する労働者である……、すなわち団結を軸とした上で、更に経営、国家に対して、成員に労働者としての「人格」のあることの承認を要求する組織のことである。ここで更に、自らの組織が「人格承認要求」の特権的な担い手であることの承認を国家や経営に対して求めるならば、少なくともそれは佐口氏の言う「擬似労働組合」ないしは労働組合であろう。これが国家の法的枠組の下で、争議権をも含めた形でその特権を承認されていれば、これが産業民主主義下の労働組合である。経営や国家も「個人」に対して労働者としての「人格」を承認し、「個人」を労働者たらしめる機能を有する(その意味で、労働者組織はあくまでも「「個人」を労働者たらしめる組織の一つ」でしかない)が、それらと労働者組織との差異は、団結、すなわち成員間の労働者としての「人格」の相互承認をその組織原理としているかしていないか、である。労働者組織は単に事実的に成員間の相互承認に拠って成立しているのではなく、団結を公式に組織もくぎょうとせねばならない、すなわちそれを自己定義に組み込まなければならないのだ。これを代表機能と言い換えてもよい。組織の存在自体が、成員の労働者としての団結を表現するものでなければならないのだ。これに対し経営にせよ国家にせよ、労働者の人格を承認すること自体はその自己定義の不可欠の構成要因ではない。経営にとってはいわゆる「資本の論理」であるかも知れないし、あるいはまた「企業家精神」であるかもしれない。ひょっとしたら「従業員の福祉」であるかも知れないが、確かにその中に「人格承認」が入る可能性はある、しかし必然性はない。
 換言すると、労働者組織の場合は、組織のアイデンティティの確保に当たって成員による組織の承認が不可欠であるのに対して、経営や国家においては必ずしもそうではない。それゆえに労働者組織が成員に対して承認する労働者としての「人格」と経営や国家によるそれとでは、その内容において相違が出てくる可能性がある。すなわち、労働者組織の方が、より組織原理そのものを支える能動的な主体としての「人格」を成員に対して承認しまたそれを必要とするのに対して、経営や国家においては、より組織のアイデンティティに関わらない範囲での、受動的な「人格」をしか認める必要がなく、また認めようともしないであろう。佐口氏が剔抉した、国家が経営よりも労働者に対し能動的な主体性を容認しまた要求したという事実も、それは東條氏流に言うところの「現代国家」的局面に限られるものであり、また当然それは労働者組織の要求する「人格」とは大いに異なったものであった。そのことは産業報国会における、労働者と経営を共に巻き込むものとしての「勤労」イデオロギーの性格の内にも明らかである。
 労働者の「人格承認」巡るこのような組織間での「民間社会科学」のズレが組織間関係としての戦前期日本の労使関係におけるコンフリクトを解く際の重要な手掛かりとなる。佐口氏の作業の意義を私なりにパラフレーズした結論がこれである。こうした解釈を与えることによって、東條、佐口両氏の作業を接続して理解する途方が見えてくる。東條氏の言う「近代」とは、未だに公式組織が市民社会レヴェルで広汎に展開し得ない時代なのだ。公式組織がシステムとして存立し得るためには一定の条件が必要となる。ここで重要なのは、成員役割を引き受けることの可能な身体が広汎に存在している、という条件である。東條氏の用語で言うならば、身体的な個人が労働力所有者としての「個人」へと自己編成していくことが必要なのである。ところが「近代」においては、「個人」は「家」であり、身体的個人はその一分肢としての「労働力」である。「家」の社会システムとしての編成原理は公式組織のごとき公式性、すなわち言語メディアに刻まれたエクスプリシットなルールの利用ではなく、東條氏の表現を借りれば「没人格的融合」、ルーマンの言う(とりわけ対面的な、身体的接触・近接とそれによる信頼の共有によって支えられる)相互作用によるものである。そして資本家的経営も、労務管理においてはそれを利用しているのだ。この段階の社会において一定の公式性を獲得している組織があるとすれば、先ず国家であり、続いて資本家的経営であろうが、未だ労働者組織は、東條氏の言う「同職集団」として複層的市民社会の中に埋没しているのだ。
 まとめよう。東條、佐口両氏における労使関係を捉えるための新たな理論的枠組は、なお十分に洗練された形で提示されているとは言い難い。労働者とは何者であるのか、をきちんと明らかにしなかった佐口氏の枠組は、それ自体としてはジョン・ダンロップの(そしてまた兵藤氏の)三項図式、すなわち、労働者、経営、国家の三種類のアクターが労使関係のルールを設定する、とする、つまりこの三種のアクターの存在自体を自明視する了解を越え出るものではなかった。東條氏の場合は、この三種のアクターの存在の根拠を、つまり人々にこうした「役割」を振り当てる構造、メタルールを問題としたが、この構造自体を静的に捉えるきらいがあった。ここで提示されたシステム論的、組織論的な枠組は、こうした両氏における不徹底を質し、より整合的な解釈を与えるものである。

六 労使関係の一般理論へ
 最後に、以上の考察を労使関係の一般理論へと繁げていく方途について考察しよう。
 従来労使関係は、ダンロップのシェーマ(24)に代表されるごとく、主体間関係としてモデル化されてきたが、私の立場からするとそれは先に論じたごとく組織間関係としてモデル化されるべきものである。更に、敢えてミスリーディングな言い方をするならば、それは組織を主体の一タイプとして考えるのではなく、むしろ逆に主体を組織の一タイプとして考える立場である。「主体」とはそれが例えば身体的一個人を担い手としていたりするが故に、社会的にそのアイデンティティにほとんど疑義が挟まれないような、得意なタイプの組織である、と考えるのである。
 主体本位の社会理論からするならば、組織はそれ自体主体間関係として分析される。主体(多くの場合は個人)それ自体はアトムであり、モナドである。つまり組織なり社会的な関係は主体へと還元されるのである。これに対して私の採る立場は、ミスリーディングに関係本位主義、あるいはシステム論と呼ばれてきた伝統に属している。私の解釈ではそれは、「・・・本位」という考え方をそもそもとらない、すなわち、還元する先を認めない立場である。個人を組織に還元するのではなく、個人には個人の、組織には組織の固有性がある、と考える。その固有性、すなわちシステム・アイデンティティをここでは「自己定義」という一点で押さえているのである。主体本位の立場からすると、組織も、組織とは捉え難い社会関係も、同様に主体へと還元されて把握され、両者の区別は本質的なものとは言い難いものとなるが、私の立場からすると、組織と、そうではない社会関係との区別こそが本質的な重大性を帯びることとなる。その区別の鍵は前節に明らかな通り、公式的な「自己定義」がそこに含まれているかどうか、である。
 つまり「主体間関係としてではなく組織間関係として労使関係を捉える」とは第一に、分析の単位を組織におくということを、そして第二に、労使関係それ自体を必ずしも組織として捉えないということを意味する。組織間関係それ自体が直ちにまた別の組織であるという必然性はない。産業民主主義の下で、団体交渉制度や労使協議制度などの形で公式化された労使関係であれば、それを組織と呼ぶことはできようが、もし「労使関係」なる概念や用語で戦前期日本に限らず産業民主主義確立以前の、具体的には労働組合法認以前の社会での労働者組織、経営、国家間に安定した相互承認関係が成立していない状況をも分析しようとするならば、我々はこの立場を堅持しなければならないのだ。
 このアプローチの意義は上記のごとき歴史研究の領域に限られるわけではない。例えばコーハン、カッツ、マッカーシーによる、現代アメリカの労使関係システムを戦略レヴェル(経営戦略)、機能レヴェル(人事政策、団体交渉)、職場レヴェルの「三層構造(Three−Tier)」で捉えるアプローチ(25)の主たる関心の一つは、八〇年代以降のアメリカにおけるノンユニオン状況の広がりにある。私のアプローチもこの関心を共有できるし、せねばならない。またこれとは反対に、労使関係からの経営の撤退、という局面も視野にいれておく必要があるだろう。ここで念頭に置いているのは、石油ショック不況下の倒産反対争議から労働者自主管理への流れである。(26)(27)
 さて「組織間関係」を考える場合、二つのレヴェルに照準する必要がある。まず第一に、組織・対・組織の関係のレヴェル。第二に、各組織のそれぞれに固有な成員役割規則の間の関係のレヴェル。労使関係の場合、特に問題とされるべきは第一のレヴェルでは労働者組織それ自体の正当性が、経営と国家によって、特に交渉の相手として承認され、尊重されるかどうか、という点であり、第二のレヴェルでは、労働者組織、経営、国家の間での、それぞれ身体的には同じ人々をその成員としつつも、それぞれに異なるその成員役割規則とそれを領導する理念、戦前期日本の文脈においては労働者の/としての「人格」を巡るそれぞれの理解の両立可能性の問題である。戦前期日本においては、この二つのレヴェルにおいてついに合意は形成されず、労働者組織の排除によって差し当たりの決着を見た、というのが本稿での理解である。
 ここで戦後期日本の労使関係をこの視角から理解する際の作業仮設を提示しておこう。
 戦後期における日本社会の強引な民主化過程の中で、本稿で論評した両著が示した「日本における産業民主主義の前提」的諸契機は一気に「日本における産業民主主義」の枠の中に押し込まれていく。争議の激発の中で燎原の火のごとく労働組合が形成され、財閥解体、公職追放の下「所有と経営の分離」が進行し、国家レヴェルでも労働組合法を始めとして急速に産業民主主義=団体交渉制度が法的、政策的に整備されていく。そして当初は労働組合のリーダーシップを確立していく。いわゆる「能力主義管理(28)」とはその定式化である。
 ここで労使関係の焦点となったのが労働者の/としての「人格」であったとしても、正しくこの「人格」の固有の性格が問題なのである。私の仮設の要点は、先述の第一のレヴェルに関するかぎりは戦後期日本に産業民主主義は確立した、と言えるが、それは第二のレヴェルにおける安定的な合意を欠いていた、というものである。労働組合の想定する労働者の/としての「人格」と経営の労務管理のそれとが噛み合わないままに事態は推移したのではないか。早くから成文化されたルールに頼ってきた西洋、なかんずくその伝統の上の人工国家として、複数の文化圏からやってきた人々を組織せねばならなかったアメリカ合衆国などとは違って、日本における「人格」概念はクリアーカットな形を持つ必要はなく、より曖昧な理念、ないし「欲望のあいまいな対象(ルイス・ブニュエル)」であり続けることができた。この特質は戦後期にも引き継がれたのである。いわゆるニューディール・システム(29)における労働者の/としての「人格」は、単に先導理念であることに止まらず協約中にジョブとして、すなわち職務と処遇についての明確な規定として成文化される必要があった。いやむしろそれは「人格」などと呼ぶべきではなく、正しく「人格」から分離された「労働力商品」であろう。そこまで厳密に規定することによって初めて、組織間関係としての労使関係をも確立することができたのである。しかし日本の場合はそうした成文化の必要はなかったし、できなかったのだ。
 戦後期日本において労働組合は国法上の地位を得ることによってある明確な形を獲得したが、労働者の/としての「人格」はそうはならなかった。戦後期における歴史過程が他の先進社会には見られないこのような不均斉をもたらしたのである。そして労働者の/としての「人格」を巡る労使間のコンフリクトも労働者の/としての「人格」に関する「マギレのないルール」を確立する方向にではなく、「能力主義管理」を基軸とする人事労務管理システムと、労働組合システムとの間での、可能な限り広範囲の従業員の、より包括的な労働者の/としての「人格承認」を目指してのゼロサムゲームの様相を呈していった。その結果が今日の「団体交渉制の労使協議制化(30)」、あるいは労働組合の企業内化、すなわち労働組合があたかも経営の下部組織、下位システムであるかのような様相を呈するに至ることとなったのである。もちろんここでの経営側の「勝利」は、日本の労働組合が企業別組織を採ったことの必然的な結果であった、とは言うべきではないだろう。問題はあくまでも、労働者の/としての「人格」に関する「マギレのないルール」志向の労使双方における不在にこそあったのである。
 高度成長期の労使関係の一局面に例を採って、この仮説の試運転をしてみよう。 興味深いことに、先述の戦後的特質は高度成長化の企業と産業の急速な合理化にとって機能的に作用した。ここでは「能力主義管理」の根底をなすいわゆる「職能給制度」について考えてみよう。戦後期日本の重工業大経営は設備合理化の中で、アメリカ流のテーラー主義的な職務給制度を導入しようとして失敗した。職務給制度は生産設備体系と職務体系と労働者の処遇の体系を一対一対応させようとするものであったが、急速な合理化の下での設備の連続的更新、職務研究に必要なインダストリアル・エンジニアリングの知識と人材の不足などによってその確立は間に合わなかった。替って現れた職能給制度はこの一対一対応の設定の断念の上に成立していたが、そうすると賃金決定の原理が消滅して宙に浮いてしまう。しかしながら職務給導入によって解体された「電産型賃金」、年功的生活給制度に復帰することはできない。何となればそれは、産業報国会の遺産の上に立脚してではあったが、戦後初期の労働運動の高揚の中で形成されてきたものであり、それに安易に復帰しては賃金決定のヘゲモニーを労働組合に奪われることになりかねなかった。そこで職務とは別に、戦前からあった資格制度(当初は職位職階と対応したものであったが、やがてそれとは分離した)が見直され、職務と資格とを融通無礙に組み合わせて賃金・処遇を決定する「職能的資格制度」が案出される。
 しかしそこに原理は不在であった。むしろ原理……ルール不在の賃金決定メカニズムがそれに伴って形成されていったことこそが、職能給制度の定着をもたらしたのである。それが人事による査定である。これは人事部門の独裁を意味するものではない。職場レヴェルの下級職制による日常的な評価の情報が人事部門によって総合されて、各従業員の賃金・処遇が決定されるのである。つまりここでは公式組織的契機のみならず対面的相互作用的契機が広汎に動員されているわけである。この結果人事労務管理の機構と生産管理の機構とが相対的に分離され、互いに制約となる度合が大いに低くなった。このことが、合理化に対する労使関係の制約を小さくしたのであるが、重要なことはそのような「マギレのないルール」不在の労務管理と労使関係に従業員が耐えられた、ということである。反面こうした労務管理体制の下ではほとんどあらゆることが「職務遂行能力」として評価の対象となり得るし事実なってきた。これを石田光男氏は、「この場合、日本的「能力」概念は「人柄」「人格」とほとんど同義である(31)」と述べておられるが、正確には「人格」という語の方にも「日本的」という形容を付加する必要があろう。

おわりに
 蛇足ではあるが、ここで若干の実証研究上の課題を提示しておこう。殊に中西氏による兵藤氏への批判以降、労使関係史研究は経営を単位とすることが多くなった。その負の遺産があるとすれば、労働組合を含む労働者組織を固有の対象とする研究の減少である。『賃労働論』 を『資本論』から独立させる必要について力説していた中西氏(32)の影響によってこの状況がもたらされたのだとしたら、皮肉なことである。経営を単位とする労使関係研究からは、労働者組織は固有の自立性を持つシステムとしてよりは、経営というシステムにとっての環境要因として分析されることとなってしまう。しかし本稿での検討によれば、労働者組織はその固有性において、システムとして分析される価値を十分に有するはずである。労働者の社会をその固有の自立性において把握しようとする立場は、いわゆる社会史的研究などにおいて見られるものであるが、これをシステム論の観点から読み直すことも可能であるしまた必要であろう。
 現状分析の領域においては、この観点は例えば、差し当たり多角化・分社化という経営サイドからのインパクトの下ではあれ、企業内的存在からの脱皮の徴候をわずかながら見せつつある現代日本の労働組合を分析する際にも考慮されねばならない。そうした観点なしには、今日の先進社会の労使関係に見られる「日本モデル」への注目に対して、適切な距離を保てなくなる。「日本モデル」とは簡単に言ってしまえば、労働組合をもっぱら企業システムの下位システムとして理解するものであるが、これをパラダイムとして、従来の欧米の労使関係をやがてはそこへ収斂するものと見なしてしまうことには、大きな危険が存する。それはあり得べき様々な可能性の一つ以上のものではない。
 なお付言すると本稿は組織論的、社会学的観点を強調し、経済学的、産業論的観点をなおざりにしている。しかしこれを無視してよいわけがない。本稿のシステム間関係の多様な可能性を重視する立場を踏まえ、労働市場とは一体何であるのか、等について改めて考察されねばならない。


(1)東京大学出版会、1971年。
(2)小池和男『賃金』ダイヤモンド社、1966年、他。
(3)例えば、橋本寿朗『大恐慌期の日本資本主義』東京大学出版会、1984年。
(4)「日本帝国主義確立期の労働問題」1980年度歴史学研究会大会報告『世界史における地域と民衆(続)』青木書店、1980年、所収、他。
(5)『近代日本労資関係史の研究』東京大学出版会、一九八八年。
(6)中西洋『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』東京大学出版会、初版一九七九年、増補版一九八二年。
(7)長崎については『日本近代化の基礎過程 上・中(下は未刊)』 東京大学出版会、一九八二年〜、神戸については「第一次大戦前後の労使関係」隅谷三喜男編『日本労使関係史論』東京大学出版会、所収、1977。
(8)中西上掲論文、120頁。ただし表現は若干変えてある。
(9)中西『日本近代化の基礎過程 上』、iii頁。
(10)Andrew Gordon, The Evolution of labor relations in Japan, Cambridge University Press, 1985.
(11)二村一夫『足尾暴動の史的分析』東京大学出版会、1989年、他。
(12)東京大学出版会、1990年。
(13)東京大学出版会、1991年。
(14)橋本前掲書、141頁。
(15)哲学での「民間心理学 folk psychology」なる用語に想を得た私の造語である。
(16)東條前掲書、1〜2,8〜9頁。
(17)佐口前掲書、132頁。
(18)同上書、11〜12頁。
(19)東條前掲書、343頁。
(20)同上書、11〜12頁。
(21)ニクラス・ルーマン『社会の経済』春日淳一訳、文眞堂、1991年、河本英夫「解題」、マトゥラーナ/ヴァレラ『オートポイエーシス』河本英夫訳、国文社、1991年、所収、294〜303頁。
(22)ニクラス・ルーマン『公式組織の機能とその派生的問題(上巻)』沢谷豊/関口光春/長谷川幸一訳、1992年、同『目的概念とシステム合理性』馬場靖雄・上村隆広訳、勁草書房、1990年、長岡克行『企業と組織』千倉書房、1984年、第3章。
(23)本文部分の脱稿後にラクラウ/ムフ『ポスト・マルクス主義と政治』山崎カヲル/石澤武訳、大村書店、1992年、を参看した。ヘゲモニー論史として啓発的である。
(24)John Dunlop, Industrial Relations Systems, Henry Holt and Company, 1958.
(25)Kochan, Katz and McKersie, The Transformation of American Industrial Relations, Basic Books, 1986, ch.2.
(26)例えば、井上雅雄『日本の労働者自主管理』東京大学出版会、1991年。
(27)無論、労働者組織、経営、国家が相互に対等である、というつもりはない。ノンユニオン状況に比べれば、ノンマネジメント状況はより「ありそうもない」状況である。しかしこうした非対称性は本稿での組織論的接近法の死角に入る問題である。
(28)「能力主義管理」「職能給」については、日経連能力主義管理研究会報告『能力主義管理』日本経営者団体連盟、1969年、兵藤サ「戦後日本の労使関係」『労働問題研究』第3号、1981年、同「職場の労使関係と労働組合」清水慎三編『戦後労働組合運動史論』日本評論社、1982年、所収、石田光男『賃金の社会科学』中央経済社、1990年。
(29)「ニューディール・システム」については、Kochan, Katz and McKersie, op. cit.
(30)兵藤「戦後日本の労使関係」
(31)石田前掲書、47頁。
(32)中西『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』

*本稿は1991年度文部省科学研究費補助金の交付を受けた研究成果の一部である。

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