サイエンス・フィクションの終焉
          ──ある歴史哲学についてのノート──

西村豁通・竹中恵美子・中西洋編著『個人と共同体の社会科学』ミネルヴァ書房、1996年3月、所収

                                 稲葉 振一郎 

1 サイエンス・フィクションの死

 歴史哲学としてのサイエンス・フィクション
 サイエンス・フィクションが死に瀕している。
 ここではサブカルチャー、ポップカルチャーとしてのサイエンス・フィクション、つまりミステリーなどと並んで、20世紀の通俗文学、エンターテインメントの一ジャンルを構成しているそれのことのみをいっているのではない。そのようなジャンルとしてのサイエンス・フィクションはまた同時に、我々のより普遍的な世界イメージの根底にあるものを分かりやすくデフォルメした形で表現してくれているものであるが、そうしたイメージのプロトタイプ、いわばサイエンス・フィクション的なるもの自体が、今や根腐れて、解体しつつある。
 原イメージとしてのサイエンス・フィクション、ユング心理学の用語でいえば「元型(archetype)」としてのサイエンス・フィクションというときにここで考えられているのは、宇宙の中での人類の位置についてのあるイメージである。同時にそれはもちろん、「宇宙」というときに何を指し、「人類」というときにどこからどこまでを含み、またそれがどのような性質のものであるかということについての前提的な認識をも含む。
 あまりくだくだしくなってはいけないので、大幅に単純化して示そう。それは一つの歴史哲学として考えると分かりやすい。それは「人類」についての歴史哲学である。とりあえず「人類」が生物の一つの種であるとしよう。サイエンス・フィクションは「人類」という生物種を、現時点(というのは近代、もっというと20世紀のことである)における生物進化の過程の終点に位置するものと考える。その楽観的ヴァージョンにおいては、この「人類」を生み出した生物進化の過程はより複雑で、洗練された、性能の高いものの創出へ向けての改善の過程であり、当然「人類」は地球上のすべての生物の中でもっとも複雑で、洗練された、性能の高いものと位置付けられる。そしてこの進化の過程は、現時点で終点にきているわけではなく、更に未来に向けて続く、とされる。一方サイエンス・フィクションは「人類」という生物種が、現在あるような形に出来上がってからもすでに一定の時間を経て、生物進化の歴史に比べればとるに足らない短い時間とはいえ、それ自体の歴史を持っているとする。そしてその歴史もまた、より複雑で、洗練された、性能の高いものの創出へ向けての改善、つまり進歩の過程であるとされ、当然に「人類」が現時点(当然20世紀のことである)において到達した状態は、「人類」の歴史の中でも、最も複雑で、洗練された、性能の高いものであり、しかもこの進歩の過程もまた、現時点で終点にきているわけではなく、更に未来に向けて続いていく、とされる。楽観的イメージには当然に悲観的、批判的なそれが随伴して、上に述べたようなイメージをそっくりそのまま価値的に逆転したり、若干の留保を付けたりするのだが、それはせいぜいが気分の問題であって、基本的な構図が変わるものではない。重要なのは「人類」の歴史を未来へ向けての進化、進歩といった尺度で測るという構図それ自体である。
 だからサイエンス・フィクションが死につつあるということは、ただ単に人間の未来についての楽観的イメージが解体しているということのみを意味するのではない。「人類」の破滅、終末は、単により良い未来の実現のための、現状への批判と警告というものにとどまらず、デカダンスの快楽という観点からしても、サイエンス・フィクションお気に入りのテーマであった。だから解体しつつあるのは「人類」の歴史についてのオプティミズムとペシミズムの両方である。既存の言葉でこれを形容するに一番相応しいものを探すなら、「ニヒリズム」あたりが順当だろう。
 今現にサイエンス・フィクションが死につつあることを例示することはさして困難ではないが、相応の紙幅を要するのでここでは駆け足とならざるをえない。文芸ジャンルとしてのサイエンス・フィクションが解体しつつあることは明らかだろう。サイエンス・フィクション特有のガジェットであった、舞台としての未来世界や宇宙、テーマとしての高度テクノロジー、等々はもはや一部のサイエンス・フィクション専門作家とマニアックなファンの独占物ではなく、ミステリーや純文学においてもごく普通に使われるものとなった。しかしこれが一時そう見えたようなサイエンス・フィクション的なるものの普遍化などではなく、その稀釈化と解体であることは強調しておかねばならない。ガジェットは普遍化していったが、「人類」の歴史についてのスペキュレーションというテーマ自体はむしろ陳腐化した。むしろテーマの陳腐化それ自体がガジェットの普遍化を促進したともいえる。
 「人類」の歴史、ことに未来についてのスペキュレーションが陳腐化した、と何故言いうるのか? それは一見すると、現実がサイエンス・フィクションに追い付くことによって生起した事態であるかのようだ。社会主義ブロックは崩壊し、コンピュータリゼーションは家庭に入り込み、地球環境破壊は現実の政治課題となった。そうしてサイエンス・フィクション的想像力が、現実の歴史の急速な展開についていけなくなったかのように見える。しかしことはそう単純ではない。  はっきりさせておこう。陳腐化したのは、「人類」の歴史についてのスペキュレーション一般ではない。我々が歴史の中で造り上げてきた、進化と進歩を特殊な形で連動させて歴史の尺度とする、サイエンス・フィクション的な形でのスペキュレーションが陳腐化したのだ。サイエンス・フィクション的想像力の失調の原因は、単に現実の歴史の展開と比較しての速度の不足にあるのではない。
 しかしこの陳腐化の意味についてより深く考えるには、このようにサイエンス・フィクションのいわば外側から迫るのではなく、むしろ内側から、つまりその内在的な論理を丹念に辿ることによって、あらかじめ潜在していたその可能性と限界を測定することが有効である。そこで節を改め、サイエンス・フィクションの思想史に取り組むこととしよう。その場合、本章では紙幅の制約から、検討対象を二つに絞る。第一に、ポップカルチャーの領域から、ジャンルとしての、通俗文学としてのサイエンス・フィクション。そして第二に、ハイカルチャーの領域から、アカデミックな意味での社会思想史、ことに経済思想史。

2 サイエンス・フィクションの臨界

 ステープルドンとハミルトン
 ありがちな話だが、ジャンルとしてのサイエンス・フィクションの可能性と限界も、その草創期における先駆者の中にこそよく現われており、その後の展開のほとんどはその反復にすぎない。通俗文学としてのサイエンス・フィクションの成熟は第二次大戦下のアメリカ合衆国において見られたが、それにわずかに先立ち、30年代の世界不況に時代に活躍した2人の作家をここではとりあげよう。イギリスのオラフ・ステープルドンとアメリカのエドモンド・ハミルトン。
 大学の哲学教師であったステープルドンの小説における代表作『スターメイカー』は生物と人類の進化のヴィジョンを全宇宙的なスケールで展望するものであるが、そこにおいて我々地球「人類」はほんの端役を演ずるにすぎない。『スターメイカー』に先立つ彼の処女小説『最後の、そして最初の人々』は20世紀以後20億年間の人類の歴史を描くものであるが、どうにか20億年間かそこらの歴史を持つに至ったその地球人類も、『スターメイカー』においては、宇宙に数多生じては滅びていく様々な人類──知的生物のたかだか一種、宇宙的な自然選択の過程の中で振り分けられていく一つの可能性としてしか扱われない。ヘーゲル的にいえば、絶対知への歩みの途上における、せいぜい否定的媒介項でしかないのだ。後の成熟期サイエンス・フィクションにおける進化と進歩の形而上学の代表的イデオローグであるアーサー・C・クラークがどうしても地球人類に主役を割り当てずにはいられないのと比べれば、彼の冷厳さは際立っている。
 また遺伝学的突然変異の結果として生まれた、人類をはるかに凌ぐ知性と様々の超能力を持った超人類の生涯を描いた『オッド・ジョン』を見てみよう。多数派たる現存人類に迫害される少数者である超人類、というストーリーはことに第二次大戦後、ヒロシマ・ナガサキ・ホロコースト以後の時代、マッカーシズムの時代のサイエンス・フィクションがあたかも罪滅ぼしのごとくに繰り返し語ってきたものであるが、『オッド・ジョン』はそうした迫害、受難と救済の物語などではまったくない。
 ある意味では、迫害される超人類。という構図は、アドルノが禁じた「アウシュヴィッツを詩にすること」に他ならない。大半の超人類を描く物語において、超人類が迫害されるのは、現存人類による彼らに対する嫉妬と恐怖ゆえであるが、そうした迫害は同時にまた、彼らが未来の担い手、現存人類の後継者となるために必要な試練として位置付けられている。その限りにおいては、敵役たる現存人類にも欠くべからざる役割が与えられており、結局この構図の中ではすべてが意味付けられ、救済されている。しかしアドルノが批判したのは、ホロコーストに対するそうした手前勝手な意味付けではなかったか。(1)
 『オッド・ジョン』においてそのような迫害の物語が成立していないのは、何もそれがアウシュヴィッツ以前に書かれたものだからというわけではない。上述のごとく、後に量産された超人類の受難物語において、迫害とは結局のところ、コミュニケーション、相互理解の一形態であった。超人類が迫害されるのは、ただ単に彼らが現存人類より優れているからではない。現存人類に「あいつらは恐ろしい」と理解できる程度と質において、優れているからである。超人類の現存人類に対する優越性は、せいぜい現存人類によって理解可能な程度のものでしかない。『オッド・ジョン』における超人類はしかし、そのような理解可能性の外側にある。もちろん理解の試みはなされる──物語の語り手は主人公ジョンを幼少時から知る年かさの友人(「おじさん」ないしはペット?)として、彼を恐れつつ愛するし、物語終盤では超人類のコロニーは列強との抗争に突入しかける──が、しかしその本質の部分においては、超人類は現存人類にとって理解不能なままにとどまる。彼らにとっては迫害もちょっとした迷惑以上のものでは、いわんや悲劇的受難などでは決してないのだ。この超絶性によって、『オッド・ジョン』後に書かれるであろうすべての超人類物語をあらかじめ無効にしてしまった。
 そしてハミルトン。通俗エンターテインメントたるサイエンス・フィクションの中でも更にまた通俗的な、三文西部劇(ホース・オペラ)の宇宙版たるスペース・オペラの量産作家として知られた彼はまた、機知に富み、詩情溢れる短編作家でもあった。
 まず「反対進化」を挙げておこう。これは題名通りのワン・アイディア・ストーリーで、かの形而上学の構図を単純に逆転し、人類を進化の絶頂ならぬ退化のどん底に位置付けるだけの話であるが、このアイディアをここまであからさまにポンと提示したのは彼ハミルトンをもって嚆矢とする。
 あるいは「世界のたそがれに」。地球人類最後の一人となった科学者が、人類復活のためのあらゆる試みの果てに、最後に地球生命の進化の過程を第一歩からやり直す、という手段に訴える。そして数億年を冬眠して再び目覚めた彼が見たものは、新たな進化のサイクルの果て、新たに生まれた人類が、またしても辿り着いた滅びの姿であった。「反対進化」が進化と進歩の形而上学の構図を逆転してみたとすれば、こちらはその構図を徹底的に拡大、延長することによって、ステープルドンとはやや似た仕方で、ほとんどその外側に出ることに成功している。
 最も重要なのは、「何が火星に?」という一見地味な、しかし驚くべき一編である。ただ資源採掘だけを目的に行われた、索漠として地獄のような火星探検行から帰還した青年が、無意味で悲惨な死を遂げた同僚たちの遺族や、彼を郷土の英雄として歓呼とともに迎える故郷の町の人々を前に、遂に真実を語りえず、でっち上げの美しい思い出話、虚構の英雄譚を紡ぐことしかできない様を描くこの物語は、そのままサイエンス・フィクション的なるものの自己批評となっている。
 この物語において、火星探検へと若者たちを駆り立てるのはサイエンス・フィクション的なロマンティシズムであるが、現実の火星において彼らを待っているのは、凡庸で悲惨な現実である。火星に目新しいもの、驚異は何もない。探検隊のなすべきことといえば、地下資源の探索のみである。しかし探検行はただ退屈なわけではなく、風土病が彼らを苛み、高まる緊張は反乱にまで発展する。しかし悲惨なことに、そうした苦難にヒロイックな色彩は毛ほどもない。風土病は原因も治療法も不明であり、彼らにできるのは、ただじっと耐えて自然治癒するのを──あるいは死ぬのを待つことでしかない。そして反乱はもちろん、ただ自暴自棄の破壊行動でしかない。火星の上で、サイエンス・フィクションは現実によって裏切られるのである。
 だが運よく生き延びて地球に戻った主人公は、そうした現実について遂に一言も語ることができない。彼は生き残りとして、悲惨な、苦痛に満ちた死を遂げた仲間たちの、遺された両親、恋人を訪問して回り、仲間たちの最期について語って聞かせねばならない。しかし彼は真実を告げることができず、みんな英雄的に頑張った、余り苦しまずに死んだ、と嘘をつく。そして最後に、ようやく辿り着いた故郷でも、彼は正直になるチャンスを与えられない。ここでも彼は、自分にロマンティックな宇宙の英雄を見る人々の幻想を壊すことができず、ヒロイックな演説をぶつ。そして演説の後で、彼は人々に夜空を、火星を眺め、仲間たちに弱々しく弁解する。かくして、幻想の保護膜としてのサイエンス・フィクションは守られる。
 ここには、想像力の投企としてのサイエンス・フィクションが、極限的には常に現実に対して敗北を喫すること、其れにも拘らず、というよりそれゆえにこそサイエンス・フィクションは生き延びていくこと、しかしその延命は時間稼ぎ、緩慢な死の過程に他ならないであろうこと、が容赦なく示されている。

 語りえぬもの
 さて、ここに紹介したステープルドン、ハミルトンの作品は、サイエンス・フィクションの臨界をその内側から示したものである、と言えよう。そこにおいても、進化と進歩の形而上学は放棄されてはいないが、それはぎりぎりまで酷使され、その限界を露呈するところまで追い詰められている。その含意は果てしなく豊かであるが、ここでは単純化して、論点を二つに絞ろう。
 第一に、量的な問題。先程来、私はたびたび、「尺度としてのサイエンス・フィクション」という言い方をしてきた。一次元的、一方向的な「進化」「進歩」という尺度によって支えられた世界観としてのサイエンス・フィクションには、当然に限界がある、というニュアンスで、論を進めてきた。しかしながら、この尺度自体を固定したままで、それに沿って想像力を限りなく延長させていくだけでも、その尺度によって世界を測り、そこへ向けて投企していく人間はいつしか追い詰められ、宙づりにされ、疎外されていくのだ。『スターメイカー』において地球人類は大いなる宇宙の進化劇の俳優ではあるが、ほんのチョイ役であり、その存在に意味はまったくの無ではないにしても限りなく小さい。また「世界のたそがれに」佇む主人公にとって、時間は初め人類を滅ぼした敵であり、続いて人類再生のチャンスを与えてくれる希望となった。しかし最期に、再生した人類の滅びに彼を立ち会わせることになった時間は、今度は果たして彼の前にどのような相貌を見せているのか。
 進歩と進化の長く複雑な歴史の中では、人類の占める位置など、ほんのわずかなものであり、その総体との関係で自己の位置を確認することなど、ほとんど不可能なのではないか? 彼らの作品は、そうした問題を提起しているように思える。
 そして第二には、当然より質的な問題の領域がある。『オッド・ジョン』で提起されているのは、「超人類は現存人類にとって理解可能か?」という問題である。現存人類にとって理解可能な程度の能力的卓越性ならば、それをわざわざ超能力だの、超人類だのと呼ぶ必要はあるまい。ステープルドンが『オッド・ジョン』で書こうとしたのは、その更に向こう側についてである。しかしそれは、語りえぬものについて語ろうとすることに他ならない。
 だが「語りえぬもの」は超人類とか神とかいったあからさまな神秘ばかりではない。「何が火星に?」の主人公が出会ったようないたって散文的な苦難もまた、そうなのである。そしてその苦難に際してのサイエンス・フィクションの機能の仕方は大変に興味深い。まず彼らを火星探検に志願させたのは、サイエンス・フィクション的ロマンティシズムである。そしておそらく彼らは、サイエンス・フィクション的なヒロイズムが火星で出会うであろう困難と闘う武器となることを期待していたのだ。しかし現実にはそのヒロイズムは挫折した。もはや主人公はかのロマンティシズムからも醒めている。しかし彼は、依然としてそこに存在し続ける共同幻想としてのそれを破壊することはできない。彼にできるのは、というよりそうせざるをえないのは、そこから個人的に降りることのみである。サイエンス・フィクションから降りた彼にはもはや、火星での経験を伝える言語、それを自分の生の中で意味付ける方法が完全に失われている。彼にできることは、自分にとってはもはや何の意味もなくなったサイエンス・フィクションでもって、他人との間の気まずい空気を糊塗することだけだ。ここでサイエンス・フィクションは語りえぬものについて語る手段としてではなく、語りえぬものについて語らず、更に語ってはいないということを隠蔽する手段として機能している。
 以上にみてきたステープルドン、ハミルトンの達成において、サイエンス・フィクションの限界はおおむね明らかになった。ではその限界の範囲内では何が可能なのか、またその限界が破れるのはいかなるときであるのか、について考えねばならない。ここで私は、ジャンルとしてのサイエンス・フィクションからはなれて、現実の社会に対しての影響がより見えやすいもう一つのサイエンス・フィクションの様態の検討に移ろう。それは社会科学の領域である。

3 サイエンス・フィクションの社会史

 とりあえず、サイエンス・フィクション的な進化と進歩の形而上学を念頭に置きながら、マルクスに至るまでの経済学史のおさらいをしてみよう。その含意は行論の内に明らかとなるであろう。

 古典派経済学あるいはのどかな進歩
 思想史的に見るならば、日付の上では「進歩」は「進化」に先行する。「進歩」の観念は18世紀啓蒙思想の産物である、といって大体間違いはないだろう。例を挙げると、いわゆる人口論争における、歴史と共に人口は増大し続けているというヒュームの立場、挫折した改革官僚であるテュルゴーの思想、あるいは逆にルソーの『学問芸術論』『人間不平等起源論』における反進歩の思想をもここに含めることができる。しかし社会進歩の理論としての経済学の中にこれがきちんとビルトインされるには、アダム・スミスの『国富論』を待たねばならない。  例えばスミス以前の経済学、カンティロンやスチュアートにおける歴史理論は、一方向的な進歩についての理論ではなく、興隆から衰退への循環の反復についての理論であった。またモンテスキュー『法の精神』におけるいわゆる風土決定論も、国富とその増進スピードという一つの尺度で様々な社会を比較するスミス『国富論』のそれとは大いに異なっている。
 自由な交換の秩序が、社会と国制を一定の論理にしたがって予測可能な方向で不可逆的に変容せしめる、という論理は『国富論』のスミスによって明確に定式化された。更に彼の枠組においては、長期的な社会構造の変容に関する歴史理論と、より短絡的な社会経済活動の日常的再生産の理論──資本蓄積論とが有機的にリンクしていることも重要である。歴史とは数百年のタームで測られる巨大な変動のみならず、今日から明日へのささやかな営みの中の推移をも含み、巨大な変動も小さな変化の蓄積として生起するものであること──これはほとんど後述するダーウィン的な進化の理論と呼んでよいものである。だが差し当たりここで確認しておくが、こうした歴史の変化の方向はスミスによって一方向的に、かつ価値的にプラスの方向として評価されている。その評価の尺度となっているのは、社会全体での、また人間一人一人にとっての富の量である。
 しかしスミスによって切り開かれた社会進歩の理論の視界は、後の我々の目から見ればむしろ牧歌的と言いうるものであった。何となれば、そこには終点がある。スミス『国富論』は、ヨーロッパを凌ぐ先進文明社会とされる中国を、富の増進の限界にきて停滞している社会である、とした。そしてここではなお不分明であったイギリス、ヨーロッパ文明、あるいは人類社会全体の命運については、フランス革命以降の時代になって、スミスの弟子を自称する一派、いわゆる古典派経済学によって正面から取り上げられることになった。周知のマルサスの人口理論、リカードの差額地代論・利潤率低下論は、地球上の土地面積、そこでの農業──食料生産力に限りがあるという前提の下で、社会的な富の増大、人口の増加に限界があることを論証した。

 マルクスあるいは「機械」の二つの顔
 この19世紀における「成長の限界」論に最も果敢に異を唱え、とりあえずの成功を収めたのはマルクスである。この成功の最大の要因は、古典派経済学が結局は農業経済の理論だったのに対して、マルクス『資本論』は工業主導の経済理論を構築したことにある。古典派経済学は、工業もその原料を最終的には農業、鉱業に依存しており、それゆえ工業の発展にも限界がある、と推論したが、これに対しマルクスは、工業の発展可能性を無限とし、それが逆に農業をも規定すると考えた。
 マルクスが発見したのは、『資本論』の用語で言えば「相対的剰余価値の生産」、その中でもとりわけ、後にシュンペーターが「技術革新」と呼んだものに当たる、生産方式の改変による生産力の上昇である。工業における生産力の発展可能性の高さはスミス以来強調されてきた論点だったが、マルクスの出現までその原因は主に分業の深化、すなわち生産における作業単位の細分化と、それに対応しての作業単位間の相互依存の複雑化に求められてきた。マルクスも当然分業を重視するが、その捉え方が大きく変わっている。彼以前には分業はどちらかというと全体社会のレベルで、市場における商品交換を媒介として、自然発生的に進行するものとして捉えられてきた。これに対してマルクスは、社会的分業と工場内分業との区別を設けたことからも分かるように、個別経営のレベルで意図的に引き起こされる分業の新たな組織化に注目した。それは従来の生産方式の単なる細分化と複雑化ではなく、従来とは質的に異なる、新たな生産方式の形成であるのだ。
 しかし「相対的剰余価値の生産」においてより重要なのは、「機械制大工業」なる概念の創出である。工場に導入された機械はただ単に人手を省くのみならず、作業能力を人間の身体的能力の制約を超えて量的に拡大する。更に、機械は生産組織に新しい性格を与える。それは今日我々がなお普通に「機械のような」という形容で表す様態、「決まりきって正確な」「精密な」「間違いのない確実な」性格である。機械の導入によって分業の組織化はより精密に、確実に行なわれるようになった。そのイメージは金属、とりわけ鋼鉄の剛直さと、この時代急速に実践技術面への応用範囲を広げた自然科学の厳密さ、客観性によって規定されている。「機械」のイメージは、無機的な自然、客観的な物理法則のそれと言ってもよい。
だが機械はそのような革新を工業にただ一度だけ持ち込むのではない。この時代の科学は、正しく機械性大工業との共犯関係の下で、厳密な「硬さ」と同時に「軟らかさ」、すなわち無限の成長可能性のイメージをも帯びていた。機械はそれ自体、科学と技術の進歩に従って次々に新しいもの、より大きく、強く、早く、正確なもの、より性能の高いものへと変態し続け、更なる生産力の増大をもたらし続ける。そのようなものとしての機械は、工業のみならず農業にも進出し、食料生産力を増大させ、マルサス的人口法則を打破する。
 かくして、機械制大工業下の工業主導経済においては、革新が常態化する。そして、生産力の増大の果ての限界は、革新の過程が無限であるとすれば、予想がつかない、つまり実質的に無限である。マルクスの提示した「機械」のイメージは、科学と同様の、剛直な不動性と無限の可塑性との二重性を帯びている。
 19世紀後半から20世紀半ばにかけて、世界はこのマルクス的「機械」イメージに魅了されてきた。マルクスの議論が自由市場経済体制(資本主義)の批判と社会主義の賞賛として提出されたこともその障害にはまったくならず、反マルクスの熱情はむしろこの「機械」イメージを資本主義の中にうまく消化することへと向けられた(シュンペータ、ロストウ)。しかしこのマルクス的な「機械」の物語は、良くも悪くも私が言うサイエンス・フィクションにほかならなかったのである。
 マルクスの「機械」的工業経済の歴史理論は、二段構えの構成をとっている。スミス『国富論』にみられる、長期の理論と短期の理論の有機的な連関付けがここにもみごとに成立している。「機械」が基本的に資本家の財産として運用されている資本家的経済においては、「機械」の進歩のダイナミズムは究極的には科学の進歩に規定されるとはいえ、差し当たり資本家たちの自己利益志向のてんでんばらばらの行動によって規定されている。そのことが、経済全体の運行の不安定性──恐慌を伴う景気循環を生みだし、その最も大きな犠牲──失業を被るのが、資本家たちに雇われて、「機械」と共に工業生産システムを構成する賃金労働者たちである。
 しかし資本家的経済の下での「機械」の運用によって虐げられる労働者は、同時にその一方で、工場において「機械」と共に働くことによって、「機械」に体化された科学技術、機械制大工業下の工場における強力な組織の論理を学び取り、資本家から経済社会のヘゲモニーを奪うに足る能力を蓄えつつある。
 景気循環の過程はかくして、同時に、体制転換──革命の準備過程でもある。そしてその両者を「機械」のイメージが深く貫いている。「機械」は他のほとんどの商品に比べて高額で、耐用年数が長く、市場経済の敏速な調整を阻害するがゆえに、景気循環の主因となっている。しかし市場経済のくびきを取り外せば、「機械」は本来の剛直さと安定性、客観的な信頼性を取り戻す。そうした「機械」の本性は、その所有者たる資本家たちによりもむしろ、それと共に働く労働者たちにこそ味方する。なぜならば「機械」に体化された科学は、資本家によって私的に占有されることが不可能であるからだ。
 さらに「機械」の無限の可塑性と成長力は、革命によって獲得されるであろう労働者たちの未来を保証する。そうした「機械」の可能性を支えるのは、不変の自然法則を日々明らかにしていく科学研究の営みである。「機械」の作動原理はその素材である金属と同様の強固な安定性のイメージを持つ、科学によって解明された不動の自然法則によって支えられる一方で、科学的探求の無限の広がりが、それに応じての「機械」の変態、技術革新を可能とする。こうした「機械」と科学の二重イメージに依存した未来構想として、「科学的社会主義」はある。
 科学的社会主義=マルクス主義と、その対抗イデオロギーとしての様々な産業社会論(典型的には、カーらの収斂理論を想起されたい)とは、この「機械」と科学の二重イメージへの依存において共通している。その意味で、この両者はいずれもマルクスの直接的な継承者なのである。両者の間の相違といえば、市場経済機構、私有財産制度が科学と「機械」の発展にとって深刻な障害となると考えるかどうか、である。つまりそこにあるのは、市場、あるいはまた国法は、科学と「機械」にとって障害であるがゆえに廃棄されるべきとされるか、それとも障害ではないがゆえに二次的な問題とされるか、の相違であり、いずれにとっても社会のありようを根本的に規定するのは科学と「機械」なのだ。従来「技術決定論」と呼ばれてきたものがこれである。
 しかしこうした幸福な歴史哲学を、なぜサイエンス・フィクションと呼べるのか? それは確かに前節で見てきた、ポップカルチャーとしてのサイエンス・フィクション、進化と進歩の形而上学と非常に似ている。サイエンス・フィクション文学における、科学、技術、「機械」のイメージは科学的社会主義とその対抗思想におけるそれと別のものではないだろう。しかしだからと言って、科学的社会主義と対抗思想そのものをも「サイエンス・フィクション」と呼ぶことができるだろうか? ポップカルチャーとしてのサイエンス・フィクションはマルクス主義と産業社会論に依存しているかもしれないが、逆にマルクス主義や産業社会論の方もサイエンス・フィクションに依存している、などということはあるだろうか? マルクス主義や産業社会論もまた、サイエンス・フィクションのごとき弱い根拠の上に立つ形而上学である、となぜ言えるのか? 
 それはマルクス主義や産業社会論の科学、「機械」イメージにおける「硬さ」と「軟らかさ」との、つまりは安定性、客観性と可塑性、発展性とのイマジナリーな両立、同居がごく不安定な足場の上に乗っているにすぎないものであるからだ。そしてその足場こそ正しくサイエンス・フィクション的なものに他ならないのである。
 先ほどから強調している「硬さ」と「軟らかさ」に「強さ」「巨大さ」を加えれば、マルクス主義的、産業社会論的な「機械」イメージの骨格の素描は完了する。同時にそれは、「機械」を支える自然科学のイメージでもある。そしてそこに見えてくる「自然」とはしかし無機的な自然であって、古典派経済学までの社会思想における、人間の生の条件を制約しているものとしての有限なる大地の生物的、有機的自然ではない。それは例えば蒸気機関において熱エネルギーが動力に変換される、その過程を支配する物理法則のごとき自然、言わば無機的自然である。

 ダーウィンあるいは自然の二つの顔
 古典派経済学までの人間と自然との関係についての構図は簡単にいえば、人間を取り囲み、支える有機的、生物的自然が存在し、人間はその恩恵と制約の下で生きる、というものである。これに対してマルクス主義、産業社会論におけるそれは、有機的、生物的自然を更に無機的、物理的自然が支え、この無機的自然の秘密を人間は科学の力で説き明かし、自らのものとして、それを支配する。のみならず、それを通じて有機的自然、更に人間自身とその社会をも支配する──いわゆる還元主義──、というものとしてまとめられる。
 有機的自然と無機的自然の分離はここにおいて決定的な意義を持つ。ニュートン力学の形成自体は17世紀だとしても、有機的なるものと無機的なるものとの分離──無機物のシステムをも含めたトータルな自然史=博物学 natural historyから独立した分野としての、語の正確な意味での生物学 biology の成立、生物を生物たらしめているものへの固有の関心、例えば有機構成 organisation の概念の形成はちょうど19世紀初めのことである。
 古典派経済学までの構図では、有限な人間存在を更に大きいがやはり有限な自然が取り巻いている。これに対してマルクス主義、産業社会論においては、自然が潜在的な無限性を獲得しているのだ。無機的な自然も地球上が問題である限りは有限であるには違いないが、人間の科学知識が増大するにつれて、新しく発見された法則性に基づいての、その利用可能性も広がる。かくして問題は、科学技術の発展による生産性上昇の速度と大地の淘尽の速度とどちらが速いか、となる。前者が後者を凌駕する、との予料は、しかしアプリオリには成立するはずがない。この意味で、こうした構図は不確かな虚構、サイエンス・フィクションに他ならないのである。文学としてのサイエンス・フィクションにとって常にペット・テーマであった宇宙空間への人間の進出は、科学技術が地球の有限性という制約を引き伸ばすに止まらず、それ自体として否定することへの願望であったことは見易い道理である。
 おりから独立科学として成立しつつあった生物学における、今日に至るもその生命を保ち続けているダーウィン進化論の登場は、こうしたマルクス主義・産業社会論的サイエンス・フィクションの成立にあたって決定的な意義を持つ。ダーウィン自身がマルサスからの決定的な影響を明言したように、この進化論の形成はマルクス主義・産業社会論にとって決して単なる外在的偶然ではなく、それをスミス的社会進歩の理論の応用編として位置付けることは十分に可能である。現在では進歩と進化の概念は明確に区別せねばならず、後者の射程は前者よりもはるかに豊かであると言えるが、当面はこの進化の理論が人間の進歩のサイエンス・フィクションの柱として機能したという側面を強調せねばならない。生物学的進化論と経済学的進歩主義が結合して、無機的自然ー有機的自然ー人間のヒエラルキー構造が成立したのである。人間は「人類」という生物種として明確に自然の中に位置付けられると同時に、自然のヒエラルキーの中でのヘゲモニーを付与された。これはまさしく本章初めに述べた、サイエンス・フィクション的なるものに他ならない。
 やがて19世紀末以降、いわゆる帝国主義の時代、巨大企業の時代、科学の体制化の時代、社会改良主義の時代に、こうしたサイエンス・フィクションは本格的な体制化に時代に突入する。文芸ジャンルとしてのサイエンス・フィクションの創始者の一人とされる H.G.ウェルズが、この時代の社会改良主義者の一人であったことは言うまでもない。ジャンルとしてのサイエンス・フィクションとは、サイエンス・フィクション的なるものの体制内的自己省察に他ならないのである。 こうした脈絡についての更なる検討は、ここでは紙幅の関係から省略せねばならないが、一点だけ、社会改良主義の中に深くビルトインされていた優生学的欲求には言及しておかねばならない。
 フェビアン主義の中にその典型を見ることができるが、この時代の社会改良主義、社会福祉思想の中には、経済力、軍事力などトータルな国力増進のための、国民の福祉重視、という発想が根強くある。それがどの程度にまで本音であり、どの程度にまでレトリックであったのかはケース・バイ・ケースであるが、国力の源としての──労働力、兵力としての一般大衆の健康への関心がこの時期急速に高まった。そしておりから学問として形成途上にあった遺伝学は、通俗化したダーウィン主義と相俟って,「人類」の育種改良学とも呼ぶべき優生学という学問を──と言うより、そういう学問形成への欲望を成立させる。そしてこの優生学的欲望ほど、サイエンス・フィクション的なるものの下劣な側面をあらわに示すものはない。しばしば指摘されることに一点だけ触れておこう。優生学のイデオローグたちはほぼ例外なく、自らは「人類」という生物種の中の、選択によって排除されずに残されるべき優れた部分の代表者の側であって、選択されずに排除される側ではない、と根拠なく信じ込んでいる。
 おそらく最良のサイエンス・フィクショニストとは、前節で見たステープルドンやハミルトンのごとく、自らが進化の過程で排除されていく側でもあるかもしれないことを見据えられる者のことであろう。しかしそうした臨界点を具現しえた者は数えるほどしかいなかったし、そうした臨界もまた例えばステープルドンやハミルトンなどによって一度具現化されてしまえば、後のその反復はデカダンスの快楽として消費されるだけのものとなったのである。それは今日ニーチェ的ニヒリズムが、「現代思想」としてパッケージ商品化されていることに似ている。

4 サイエンス・フィクションの死:再説

 さて以上順序が逆になったが、サイエンス・フィクション的なるものの成立と、その限界、そして今日におけるその死についてざっと見てきたことになる。そこで改めて、なぜ今日それが死に瀕しているのか、それは何を意味するのか、そこから何が展望できるのか、を考えてみよう。

「成長の限界」再説
 サイエンス・フィクションの危機とは何よりもまず、マルクス主義・産業社会論が体現していたような、科学技術・「機械」――テクノロジーと言い換えてもよかろう──・無機的自然イメージの危機である。先に見てきたような、硬軟の二重イメージのトリッキーな性格が明らかになりつつある。
 かつて古典派経済学までは半ば自明のものとして予想されていた大地の制約の問題が、「成長の限界」論として再び真剣に取り上げられることとなった。大地の制約を無限に遠くに押しやると期待されていた科学技術の発展の可能性に対して、今や深刻な懐疑が寄せられている。しかしこのことを、単に見過ごされ、忘れ去られていた問題の再発見としてのみ考えるべきではない。
 かつてマルクス主義・産業社会論において、大地の制約を無限に遠くへ押しやると期待されていた科学・「機械」のイメージは、同時にまた新たな自然──有機的自然とは区別された無機的自然の、そしてそれと人間との関係性のイメージに他ならなかった。このイメージによれば無機的自然とは、それ自体は普遍的な法則性に従う不動のものである一方、その普遍的法則性は人間の知識からみれば無限に深く、知れば知るほど新しい未知なる相貌を現わす。人間の科学技術とは、こうした法則性の知識に基づく、自然現象の意図的な再現に他ならない。
 こうした自然イメージの中に、サイエンス・フィクションの歴史像が明瞭に透けて見えてくる。未知ではあるが、既にそこにある不動の自然法則は、人間にとって当面は未知であるが、しかし確実に予定され、約束されているものとしての未来の収穫物に他ならない。つまりサイエンス・フィクションの歴史像において、未来は現時点においては当然に未知ではあるが、大域的には不動のものとして定まっている。未来において認識されるであろう自然法則の総体はあらかじめ決まっている。しかし、人間によるその認識の獲得の経路が未規定であること、また、その総体がおそらくは無限集合であるらしいことが、人間を単純な決定的歴史観・終末論の閉塞感から救うことになるのである。(部屋数無限大のホテルは満室の時にも、すべての宿泊客に一つずつ隣の部屋に移動してもらうだけで、新しく空室を一つ確保できる、という笑い話を想起されたい。ここで部屋数は決して増えているのではなく、あらかじめ無限大という個数に決まっていることに注意。)地球自体は有限であっても、その利用可能性は無限である、というわけである。あるいは宇宙に飛び出してしまえば、地球の有限性は問題にならない。
 これに対し「成長の限界」論は、一見すると自然の有限性、人間による自然の利用の限界の問題のみを提起しているようにもとれる。しかしいま少し注意してみよう。科学技術の発展が資源制約を決して超越することはできない、というそれ自体もっともな主張は、上に見たような伝統的なサイエンス・フィクションとある前提を共有している。すなわち、人間と自然との関係の様態がどうであろうと、自然法則のありようはあらかじめ不動のものとして決まっている、という。この背後仮説を共有しているとすれば、それはせいぜいのところ反サイエンス・フィクションでしかなく、同じ地平での同位対立物にとどまる。
 「成長の限界」論が提起しているのはむしろ、このような前提自体の変革の必要である。ステープルドンやハミルトンはその作品によって、例え自然のありようがサイエンス・フィクションの想像する通りだとしても、その無限性自体が人間の目を眩ませ、着実な進歩の道程を踏むことを許さないであろう、と示唆した。すなわち、自然、宇宙が仮に確実な法則性によって支配されていようと、その無限性は有限な人間にとって事実上不確実性として現象し、その足元をぐらつかせる、と。ここから更に一歩を踏み出そう(いや、本当は彼らによってその一歩はすでに踏み出されていたのだ)。そうした不確実性は事実的なものというより,原理的なものではないのか? 
 今日我々が直面する困難,「成長の限界」,地球環境問題は、ただ単に既知の有限なる自然の利用をどうコントロールするか、にとどまるものではない。様々な環境破壊の多くはそもそもの初めから、人間の予想を裏切るものとして発生した。地下資源の枯渇ならばすでに19世紀に警告されていたが、ゴミ問題に CO2など、生産の制約ならぬ廃棄の制約問題はほとんど予想されていなかった。また生態系は一部のエコロジズムが主張するような、人間さえそこから除けばバランスの取れている閉鎖系などではなく、近年の進化生態学が明らかにするごとく、それ自体の中に予測し難い不均衡や無秩序を絶えずはらんでいる。それは今日、「人類」のアイデンティティを一方で支えていた「種」の概念さえも解体しつつある「種」は人間の側から見ての単なる分類カテゴリーにしか過ぎず、生態系の中での内在的な秩序原理としてはまったく作動していない。いかなる生物も「種の利益」などとは直接関係無しに生きている。無機的であれ有機的であれ、人間を取り巻く自然とは、多分に予測し難い未知なる存在なのだ。
 そもそも自然における既知なるものと未知なるものとの境界が、サイエンス・フィクションが想定したほどには自明ではなかったのである。サイエンス・フィクション的自然観では自然法則は既知の部分と未知の部分とに截然と分かたれ、既知の部分は科学知識として人間にとってほぼ完全に自家薬籠中のものとなる。マルクスの「機械」観もこうしたものであった。「機械」が社会的にコントロール不能となるのはあくまでも資本家的経済制度のせいであり、人間の自由意志に基づいて自覚的に運営される社会主義経済ではこうした問題は消え去るのである。それは人間の理性と意志への信頼の表明であったと同時に、それにたやすく従う「非有機的身体」、自然への信頼の表明でもあった。しかし虚心に実験科学や技術開発の歴史をひもとけば、こうした信頼の虚構性は明白である。大体において知識の理論的な整序化は実験的・応用的実践を後追いする。しばしば人間はなぜそれが作動するのか分からずに「機械」を作り、そしてそれに振り回されてきた。「機械」が、そして自然がサイエンス・フィクションの想定するごときものであるならば、これはありうべからざる事態である。つまりサイエンス・フィクションとは、こうした事態をあくまでも異例として扱う、という態度の別名でもある。

 コミュニカティヴな自然
 歴史的に見て、サイエンス・フィクションの効用は否定すべくもない。明らかに、それは我々の現代を形作ってきた思想である。だがそれはあくまでもフィクション、今日そのリアリティを減じつつあるフィクションなのである。それは人間に自然の未知性を馴致しやすいものと見做すことを覚えさせた。しかし我々は新しいリアリティを必要としている。では一体、どのような? 
 ここで一つだけ、ハナー・アーレントの示唆深い議論を紹介しておこう。『人間の条件』における彼女の有名な人間活動の三類型論──労働・仕事・行為──を想起されたい。ここで「労働」とは生物としての人間の生存維持のことを、「仕事」とはある目的を達成するための手段的活動を、そして「行為」とは、自由な主体としての人間の、同じく自由な他の人間に対する自己表出、コミュニケーション活動のことを意味する。ところが『人間の条件』の終り近くには謎めいた記述がある。すなわち、今日では人間は自然に対して「行為」している、と。彼女の本来のフレームワークからすれば、人間と自然の関係は「労働」カテゴリーでつかまえられるはずなのであるが、これは何を意味しているのだろう? ここで彼女が意識しているのは、今日の科学技術が、伝統的に人間の物質的、生物的生存の基盤として自明なものととらえられていた自然の中に、次々と未知なるものを発見し、人間と自然との関係を「労働」カテゴリーではとらえられない不確実なものへと変容させたことである。
 アーレントによれば、自由な人間同士の「行為」はそこに不確実性をはらみ、ただ人間が一方で互いに責任を課し、他方で互いを許しあうことができるゆえに、それに耐えていくことができるのである。しかし(今日環境倫理学・環境法学などで改めて問題とされているように)、 今の我々は自然に責任を課したり、あるいはまた自然を許したり、といったことを想像できない。アーレントはそこに大きな危惧を抱いている。
 サイエンス・フィクション以後の歴史哲学、自然哲学の構想にとって、このアーレントの危惧は大きなヒントとなる。奇しくもそれは、生物を自己組織システム、ないし自己創出システムととらえる今日の生物学の前線からの問題提起とも呼応する。生物の情報処理は時間をかけて行なわれるため、外界との間には絶えずズレが起こり、生物と外部環境の間には原理的に予測可能な一対一対応が成立しない。ということは我々は生物を観察するとき、人間同士のコミュニケーションにもはらまれる原理的な不確実性に付き合わねばならないのである。
 それにしても、具体的には一体どうすればよいのか? 現在の私には「慎重に、謙虚にあれ」という常識的でネガティヴな提言しかできない。サイエンス・フィクションに死亡宣告をしたとは言っても、その遺産鑑定の仕事は必要であり、我々は決してそれを忘れるべきではないことも確かである。我々は死者たちの営為の結果であるのだから。いたずらに前向きであることは、単なる反サイエンス・フィクションとして、サイエンス・フィクションの最悪の部分を反復することでしかない。

【参考文献】
* 紙幅の関係から註はすべて省略するが、以下の2点だけは注記しておかねばならない。
(1) 本章第2節におけるアドルノの有名な言葉の解釈は、野村真理『西欧とユダヤのはざま』南窓社、1992年、に全面的に負う。
(2) また第3節における「機械」論は、樫村晴香「彼岸の強者と此岸の死者」『GS』4号、1986年、より多大な示唆を受けている。
 その他、スタンダードな古典を除いたいくつかの文献のみを以下紹介する。
[1] W.O.Stapledon,Last and First Men & Star Maker,Peter Smith,1968.(Star Maker のみ浜口稔訳『スターメイカー』国書刊行会、1990年)。
[2] オラフ・ステープルドン/矢野徹訳『オッド・ジョン』早川書房、1977年。
[3] エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』(日本版オリジナル短編集)早川書房、1972年。
[4] ダニエル・J・ケヴルズ/西俣総平訳『優生学の名のもとに』朝日新聞社、1993年。
[5] 柴谷篤弘・長野敬・養老孟司編『講座進化』(特に@AF)東京大学出版会、1991-1992年。
[6] リチャード・ドーキンス/日高敏隆他訳『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、1991年。
[7] 真木悠介『自我の起源』岩波書店、1993年。
[8] 松野孝一郎『プロトバイオロジー』東京図書、1991年。
[9] H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ/河本英夫訳『オートポイエーシス』国文社、1991年。
[10] イーアン・ハッキング/渡辺博訳『表現と介入』産業図書、1986年。
[11] 稲葉振一郎「ナウシカあるいは旅するユートピア」『季刊窓』22号、1994年。

*Web版への補注。本稿は1993年には第一稿をアップし、1994年中には最終形ができあがっていました。公刊の遅れは筆者の責によるものではありません。まごまごしてる間に拙著『ナウシカ解読』(窓社、1996年)の方が先に出ちまったい!

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