1999年4月19日(月)

 開かれた世界というやつは、たしかに厳しいもんだなと思う。最近覗いてみたSF関係の掲示板で、かなりタチの悪いフレーマーが延々ずぶとくはびこっていた(いる)んだけど、それを見るにつけ(明日の講義の準備をしなければならんのに、過去ログを3時間もかけて読んじまったよ……)、インターネット(というか、掲示板)って、「自分が馬鹿であることに気づかず、思い上がったままでいたい人」の醜悪さが、否応なく公衆の面前にさらしものにされてしまうメディアだなあ、と感じ入った。インターネットのない時代であれば、自分の周囲の人たちに対して恥をかくだけか、あるいはうまくいけば「あいつはカシコイ」と周囲を騙くらかし続けることもできたかもしれない人たちの愚かさが、不特定多数の人間にばれてしまう。

 そのむかし、ぼくが一橋大学の学生だった頃、一橋の大学院を落ち続けていた人がいたのだが、それ自体は別にエラくもないが悪くもないどうでもいいことなのだが、そいつは自分が受からないことについて、言葉巧みに一橋大学の偏屈な教授や試験制度のせいにするのみならず、あまつさえ社会学(および学問業界全般)が腐っていることの証だと弁舌たくましく言い募っていたものだ。若かったぼくら(ぼくとその研究会仲間たち)は最初はそんなものかと思っていたが、あるとき「じゃあなんで、東大でも都立大でも、別の大学院を受けて出ていかないの?」という当然の疑問が浮かんだ。もちろん、そんなことは彼にはできないのだった。他の大学院を受けて、軒並み落ちたら、自分の能力の足りなさがあらわになってしまうのだから。あくまでも、自分を落とすような駄目な大学院だけを受け続けることによって、彼の「もしかしたら偉い人」という仮象と虚栄は、かろうじてたもたれていたのであった。

 そういう、昔からある言葉で言えば井の中の蛙(って、ちょっと違うけど)も、かつてはそれなりにでかい顔をしていられる空間があった。いや、今でも生き残りはいるでしょう。これを読んでいる大学生諸君、あなたのまわりにもいませんか。若い目下の人間に対しては、あの本も駄目この本も駄目とうそぶいてみせるのに、なぜか自分は一冊の本(どころか、一つの論文らしい論文)も書かない(=どこからも声がかからない)センセイや先輩。そういう人も、外部との連絡が少ない閉じた空間では、それなりにエラそうにしていられた。

 ところが、インターネット上の掲示板なんてものができたら、もうだめだ。ちゃんとした議論ができない人、馬鹿なくせに思い上がっている人、自分の誤りを認識して前進していくという能力を欠いた人、そういう人の醜態は、白日の下にさらされてしまう。あちこちの掲示板から、そういう人は排除されているらしい。そんなこと昔からあるじゃないかと言うなかれ。かつてであれば、ある空間から排除された人も、また別の空間に移動して、生き延びることができた。しかしインターネット上で馬鹿をさらしてしまった人は、かなりの短期間で、「個々の(共同体的)空間」からではなく、「公共空間そのもの」から排除される他にないのではなかろうか。コミュニケーションにおける情報の自由な伝達が進むこと、伝達される情報の量・速度・到達範囲が広がり、これまでは閉じていた各々の小空間がどんどん連結されて「開かれた社会」になればなるほど、いままでは閉鎖空間にいたおかげでそれなりにやっていられたタイプの人のあられもない真実の姿が、開かれたコミュニケーション空間においてどんどん広められてしまえば、その手の人たちの居場所は無くなってしまう。

 あるいは、フレーマー・タイプの人は、そんなことおかまいなしに悪さを続けようとするのかもしれないけど、排除する側もいろいろ策を講じるだろうから、そうもいかないだろう。かといって、そういう人たちがそういう人たち同士でより集まって、自分たちのそれなりに楽しいコミュニケーション空間をつくりあげる、っていうのも難しそうだ。実は非常識なのに、我こそは常識人と主張したがるタイプの人たちが、お互い協力しあって、継続的な凝集性をもった空間を地道につくっていけるとは思えないもの。所詮、「実は非常識なのに、我こそは常識人と主張したがる」人の生存は、「自分の常識は他人の非常識かもしれないよなあと疑うことのできる健全な反省的思考能力を身につけた上で、ときたま非常識もやって楽しむ常識人」あってのモノダネだからね。ネットでは、実際はどうなってるのかな?

 もちろん、これはインターネットによって加速されたとはいえ、いきなり始まったことじゃない。近代社会というものの特質の一つが、ますます覆いようもなくあらわになってきただけなのだ。社会が開かれれば開かれるほど、共同体や身分制度が解体され自由で平等になればなるほど、本当にどうしようもない人たちに対する排除はますます過酷に(これは、「洗練される」って意味にとってほしい)なるしかないってことだ。(永井均『〈魂〉に対する態度』勁草書房、には、このあたりのことに触れた論文がいくつか収められている。)

 ちょっと違う話かもしれないけど、「結婚」なんてのも、同じ流れの中で変質してきている。明治維新以前、大多数の人間にとって結婚とは、共同体のなかで祝言をあげて、「私たちは所帯をもちました」と宣言することにほかならなかった。ところが明治政府が人的結合と人口の国家管理をするために、届け出婚制度をつくり、明治期を通じて徐々に浸透させていった。そうしてもう大正期には、「結婚」とは国家に正式に届け出ることだという観念がかなり広まっていたという。そうして結婚がひとつの国家領域内で一元的に管理されるようになると、それまでのように、「田舎に家族がいるが、流れ流れていった先でも別の女(男)と所帯を構えて子供もつくった」なんて男や女は、存在できなくなってしまう(このあたりについては、諫山陽太郎『家・愛・家族――近代日本の家族思想』勁草書房を参照のこと)。かつては、相互に分断された空間をまたぎ越せばまた別の人的結合が可能だったのだが、今日ではそれは難しい。戸籍を調べてしまえば、そいつが誰かと結婚しているかどうかがわかっちまうんだもの。閉鎖的な小空間同士が連結されて、単一の大きな空間ができるとき、それが中央集権的な国家のような〈中心〉をもっているときに、このようなことが起きる。さて、インターネットは、ある種の議論において言われてきたように、本当に〈中心なき〉メディアなんだろうか。というか、〈中心〉っていうことの意味自体を考え直してみなきゃいけないのかもしれない。仮にだよ、ひとつの掲示板から排除された人が、またたくまに悪質なフレーマーとしてその名を馳せ、どこの掲示板からも相手にされない、という事態を想定してみよう。そんなことは起こり得ないのかもしれないが、あくまで仮定として。そのとき、排除された側にとっては、中心なきインターネット全体が巨大な中心として、自分を不可触賤民化したように感じられるのかもしれないのでは?

 それにしても、困難とはいいながら、いまでもあちらとこちらで二つの家庭を持ち、二重生活を維持している人ってのがいるらしいのだな。このあいだ、NHKのドラマでも、そんなのをやってたし、自分のつきあっていた男がそうだったという体験談を日記に書いている人もいた。別に憧れはしないけど、ちょっと魅力的ではある。全然別の名前、全然別の職業、全然別の性格……を使い分けて、二つ以上の小社会で、まったく無関係な「二人」として生きてみるってのは、ちょっとやってみたい気もする。ネット上で、いくつものハンドルを使い分けるというのと似ているが、結構「あれは同一人物だ」なんて見切られやすいのではないかな。むしろ、ネット外とネット内との使い分けが、現在のところ、多いパターンだろう。でもこの場合、ネット内での知り合い同士は、相手がネット外の別の人格をもっているということを前提にしているのであって、ぼくが興味を惹かれる二重生活とは異質である。

 全然関係ないけど、松方弘樹とか、石田純一とか、ああいう人が前の奥さんを捨てて新しい女とつき合うとき、新しい方も古い方の人に似た感じなのが、ちょっと哀愁漂う感じがする、今日この頃です。

 追記

 上の文章にかんして、玲奈さんから御批評をいただきました。最初のがこれ。私のお返事がこれ。さらに、玲奈さんの追求がこれ。
 玲奈さん、するどい突っ込み、ありがとう。僕自身も発見がありました。