1999年5月12日(水)

 水曜日は2限と6限に講義、そのあいだに会議という、私としてはきつい一日。いまはちょうど6限の講義を終えて、ぐたーっとしているところです。このまま直ちに研究活動に移行できないだめなボク、というわけで、うだうだしたまま、最近観たり読んだりしたものについて、つれづれなるままに書いてみよう。

 先週の木曜日(6日)は、武道館で奥田民生のライブに出かけた(どうでもいいんだけど、こういうとき、なんか「コンサート」って言わなくなっちゃったな)。いやー、たいへんよかったっす。ほぼ定刻の午後6時40分ごろに始まって、9時過ぎまで、質量ともに充実してました。ステージの真横ぎりぎりの2階席だったので音はあまりよくなかったけど、ステージとの距離はわりと近くて、奥田氏の表情もよく見えたし。『股旅』らの曲を中心に、「人の息子」とか「カヌー」あたりもまじえて、新曲もいくつかやっていたが、意外なほどヘヴィーにロックしたサウンドで、ギターも弾きまくり。ただ、奥田氏は歌のパフォーマンスは抜群で、ライブでも分厚いバックのなかから声がスコーンと突き抜けてくるんだけど、ギター・ソロは(レコードでも)ちょっとおざなりなんだよな。曲の一部として練られたフレーズはいいんだけど。それだけがちょっと不満かな。それはともかく、来月は御大ジェフ・ベックと20年ぶりの再見、7月にはブライアン・ウィルソン先生と、おれとしては久々にコンサートが続くので、ちょっとウキウキ気味です。

 で、土曜日(9日)の昼間は、新宿で『ライフ・イズ・ビューティフル』。アカデミー賞授賞式を観てばくぜんと予想していた以上のよい出来だと思った。あざといまでにウエル・メイドな父と子のおとぎ話、たるみのない笑い泣きネタの畳みかけで、2時間があっという間に過ぎてしまった。楽しめる。これに何で強制収容所が出てくる必要があんの?という疑問もなくはないが(怒る人もいて当然)、私としては、それはまあいいんじゃないか、という気がする。そもそも『シンドラーのリスト』みたいなテーマを掲げた映画じゃないんだし、これを観て「収容所って意外とラクじゃん」とか信じる人も、たぶんいないだろうし。それにしても、この「連合国万歳」のオチには、ハリウッドのアメリカ人やカンヌのフランス人も苦笑したんじゃないだろうか。しないかな。

 日曜日は、午後全部を費やして、現代倫理学研究会の月例会に参加した。今回は、まず前半が星野勉さんの「歴史と合理性」についての報告、そしてメイン・イベントは野家啓一氏をお招きして、「歴史の物語論」をめぐってのシンポジウム。野家氏が1993年に論文集『物語の哲学――柳田國男と歴史の発見』(岩波書店)を発表したとき、ぼくはその本は読んでいなかったのだが、『図書新聞』に載った上村忠夫氏の辛辣きわまりない書評を読んで驚いた記憶がある。いま手元にその文章がないので確かなことは言えないのだが、大森荘蔵の「過去=言語的制作」説などに依拠して野家氏が展開する「歴史=物語」という理論が、歴史修正主義やサバルタン(自ら「語る」ことの不可能な人たち)が議論の焦点になっている状況のなかではあまりにもナイーブに過ぎ、その政治的意味まで含めて考えると、ほとんど不愉快であるという主張だったと思う。それが『物語の哲学』に対して的確な批評だったのか否かはわからないが(いまに至るもその本を読んでいないので)、今回の研究会に参加するための予習として、もっと新しい『【岩波】新・哲学講座8 歴史と終末論』(岩波書店)の巻頭論文(というか、講義口調の文章)を読んだ印象では、上村氏の批評から予想していたよりもはるかに周到で目配りの効いた理論展開がなされているように思った。完結した「物語」と動態的な「物語り」との区別、また「新しい歴史教科書をつくる会」の坂本多加雄氏や西部氏のような「歴史なんて単なるフィクションじゃん」というような乱暴な議論との区別も、「物語り」の係留点となるべき要素(いわば出来事そのものの実在性を担保する条件)の整理というかたちで一定程度説得的になされているし、とても勉強になった。
 という感じを抱いて当日に望んだのだが、コメンテイターの人たちもおおよそそのような肯定的評価を出した上で、さらにつめるべき論点を指摘するという生産的な展開。前半の星野さんの報告からもパトナムの議論について耳学問できたし、野家さんにもいろいろ質問できたし、ためになったです。

 ほかには、ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』(邦訳・大修館書店)を、このところずっとちまちま読んでいる。西坂仰さんの『相互行為分析という視点――文化と心の社会学的記述』(金子書房、これはウィトゲンシュタイン派相互行為分析の着実な展開の一成果として、実にシャープな分析に満ちた本)を読んでいて、やっぱ「心」とか「ルール」とかについてちゃんと考え直さなきゃいかんなと打ちひしがれ、気をとりなおして源流にさかのぼって勉強し直そうという心意気で、本棚から引っぱり出してきたのだ。それにしても、院生時代に一読したときよりも、はるかに難しく感じる。何にもわかっちゃいなかったんだなあ。最近、そう感じることの、なんと多いことよ。

 あと、ゆうべは、ずっと「積ん読」してあった岩波文庫の『エピクロス』をぱらぱら拾い読みして、ぶっ飛んだ。めちゃくちゃ面白い。これについては、そのうちもう少しまとめて書きたいと思います。