1999年6月11日

 しかし、全然「日記」じゃなくなっていますね。この先もますます忙しくなるし、バークレーにいたときのように日本語に飢えているという感じもなくなってしまったし、とてもじゃないがこのままのスタイルで更新頻度を挙げられるとは思えんので、近々、実状にあわせてリニューアルするつもり。一回分を短くして、文章も箇条書き的なやつに変えます。といっても、文章中にリンクを挿入するのも面倒くさくて怠りがちな私ですから、それもいつになるかわからないのですが。

 とりいそぎ、最近、読んだり聴いたりしたものについて。

 6月3日、東京国際フォーラムAホールにて、ジェフ・ベック。いやーやっぱりジェフ・ベックが最高! とにかく別格! レコードでも彼の最近のプレイはなかなか良くて、ニューアルバムも良かったし、特にジョージ・マーティン引退記念アルバムでの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」は全身をリビドーがしぶきを上げて駆け抜けるような超名演だったんだけど、ライヴではそれを遙かに超えて迸りまくるエモーションの嵐だった。深くなった顔の皺に55歳という年輪を感じたけど、体型や佇まいは全然変わってないし、肝心のギターの方はといえば、もう信じがたいほど円熟とか老成とかとは無縁の世界なのだ。過去のどの時代よりも太く突き刺さるトーン、年々上がり続けるスピード。ジェフ・ベックほどエモーショナルなギターを弾く人は昔からいないのだけれど、彼のエモーションの正体というのは言葉では表わしにくい。哀しみとか怒りとか暴力性とか、そういう感情の範疇をあてはめるにはあまりにも乾いていて透明なのだが、しかしヴァン・ヘイレン以後の馬鹿テク・ギタリストたちのようにただ単に無機的で、3分聴くともう飽きてしまうような演奏とは100万光年離れた爆発的なエモーションが貫いている。なんというか、強いていえば「突き抜けたいぜ!」みたいな感じなんだけど、驚異的なのは、それが若いときから現在に至るまで一貫して、しかも少しずつパワーアップし続けていることだ。そうだ、そうなんだよ。50歳を過ぎたから「大人のロック」(おえっ!)だなんて構えて、椅子に座ってアコースティック・ギターを「チュイ〜ン」なんてやり始めなくてもいいのだ。

 僕はこのあいだ、ふと「寿命ってなんやねん?」という疑問に駆られてあれこれ考えた結果、そんな統計的概念を物象化して具体的な人間にあてはめるのは馬鹿げているということに気づいて、年齢を必要以上に気にするのはむだだなあと改めて思ったのだけれど、ジェフ・ベックを見てますますそういう確信を深めた。いっしょに行った相棒は、ギターを弾くわけでもないし、そんなにジェフ・ベックを聴き込んでいる人ではないのだが、ライヴの印象をひとこと「自由」とまとめていた。そうだ、ジェフ・ベックはどんどん自由になっている。こだわりから解き放たれることと、理想の旋律を創造する能力という自由の両義性を、ジェフほど高い次元で生き抜いているロック・プレイヤーは他にいない。

 電車のなかではいつも文庫本を読んでいる。いま持ち歩いているのは、講談社文庫に入っている伊藤整『日本文壇史1』。これはほとんど1ページに1回は笑える楽しい本だ。冒頭、明治三年の仮名垣魯文がネタに詰まって思案したあげく、本屋で見つけた福沢諭吉の『世界国尽』ほか一連の西洋事情ものをネタ本にして、十辺舎一九風の『西洋道中膝栗毛』をでっちあげるエピソードから始まり、明治初期の文人や政治家たちの出鱈目きわまりない生態が調子よく書かれている。『新体詩抄』成立をめぐるエピソードなんかを読むと、西洋帰りの秀才たちの暇つぶし趣味がいつのまにか歴史的出版物になってしまったという風情で、なんだか妙に得心がいく。

 それにしても、この本に限らず明治期の思想を扱った何を読んでも否応なく見せつけられるのは、福沢諭吉と中江兆民の歴史上に屹立する姿だ。この二人の仕事を少しずつ眺め始めているのだが、少なくとも彼らだけは時代の勢いと幸運なポジションだけで名前が残ってしまった人ではない。福沢については丸山真男『「文明論の概略」を読む』(岩波新書)なんかがあるが、中江にはそれに匹敵する入門書がない気がする。僕が手にした中では、少年少女向けの伝記だけど、なだいなだ『TN君の日記』(岩波書店)という意外な著者の本が面白かった。

 目下、「身体」が「所有」の対象になる/ならないということの意味について原理的に考える、という仕事をしているのだけれど、この厄介な問題にかんして何かヒントをくれるのではないかと期待して、熊野純彦さんが送ってくださった『レヴィナス入門』(ちくま新書)をじっくり読んだ。新書だから問題が細かく論じきられているわけではないのだが、自分の考えてきたテーマと共振する洞察が至る所に散りばめられていて、思考を前進させるのにはかりしれず役立った。熊野さん、ありがとうございます。この本は、一見地味だけれど、思想研究として対象テクストに丹念に寄り添う姿勢を隙なく維持しながら、同時に著者自身の問題関心との間に適切なテンションを保った、模範的な一冊だと思った。僕は10年近く前、邦訳が出始めた頃のレヴィナスにはまって、特に『時間と倫理』(法政大学出版局)なんかにはかなり思考を規定されたように感じたし、『全体性と無限』(国文社)なんかも、わからないなりに四苦八苦して読んだものだが、その頃にこの本があれば良かったのになと率直に思う。当時、合田正人さんの『レヴィナスの思想』(弘文堂)も出た瞬間に読んで、とっても面白かったんだけど、あの本はレヴィナス哲学の内在的な解釈というよりは、レヴィナスを読むための膨大な準備作業という趣の本だったんだよね。
 で、『レヴィナス入門』を読んでどうしても疑問として残るのは、狭義の所有に先立つ人間の身体的あり方が、レヴィナスにおいては「原初的所有」といった意味を与えられてしまうことなのだ。ここではまだ何も書けないが、僕が少しずつつくりはじめている議論の哲学的な部分については、この問題が最大の焦点になる。熊野さんの仕事としては、『思想』に連載していたレヴィナス論が一冊にまとまるようなので、それをまたじっくり読んで、考えてみよう。

 住処のそばにある竹藪の竹が、もうすっかり伸びきって、色も薄くなってしまった。もう二ヶ月ぐらい前のある夜、遅くに帰ってきてその竹藪の脇を通りかかると、同居人が立ち止まって、僕に耳を澄ませてみろという。真っ暗ななかから、ギシギシという強い音が、間断なく響いている。まだ長さもばらばらの、まったくタケノコの形をしたやつからもうだいぶ「竹」らしくなりつつあるやつまで、いろんな竹が伸びる音。背骨の音。エドモンド・ハミルトンが森の植物たちの争いをハイスピード・カメラ仕立てで書いた古典的短編を思い出したり、その頃電車の中で読んでいた中上健次『熊野集』(講談社文芸文庫)の空間をイメージしたり。でも伸びきってしまった竹は、あんまり面白いものではない。