1999年6月25日(金)

 昨年秋に東京に帰ってきた後、秋から冬にかけて、水木しげるの作品を集中的に読んだ。きっかけは夏目房之介の好著『マンガと戦争』(講談社現代新書)で、主に手塚治虫にとっての戦争について考える参考にと思って目を通してみたこの本の中で手塚と対比的に論じられていた水木しげるの戦記物が、強く頭にひっかかったのだ。僕はそれまで水木氏の作品をあまり読んだことがなかったのだが、それは幸運だったような気もする。それからしばらくのあいだ、取り憑かれたようにむさぼり読んだ『コミック昭和史(全8巻)』『総員玉砕せよ!』(以上、講談社文庫)、『劇画ヒットラー』『幽霊艦長』(以上、ちくま文庫)などの作品群は、マンガという表現形態のの底知れない肯定的な力について、本当に久しぶりに再認識させてくれたのだから。

 一兵卒として死ぬことの「つまらなさ」を信じがたいほど淡々と描ききった水木氏の「戦争」については、夏目氏が簡潔に、しかし的確に分析してくれているので、ここでとりたてて付け加えることはない。手塚の「戦争」との対比をめぐる記述も極めて示唆に富んでいる。ただ、「単純化をおそれずにいえば、手塚は終生恐怖から「死」を拒否して「生きること」を選んだが……」というあたりは、それ自体が間違っているとは思わないのだが、手塚のあの戦争嫌悪についての説明としてはちょっと違う気もする。手塚のあの観念的に鋭い戦争への恐怖と嫌悪、憎悪は、死への恐怖の昇華され結晶化したものとは違うのではないか。僕も夏目氏と同じように単純化をおそれずにいえば、むしろ手塚は死への漠然とした恐怖といったものからは最も遠い表現者の一人であり、『ブラック・ジャック』のいくつものエピソードが執拗に示しているように、不条理としての死に対する強烈な憎悪はあったとしても、むしろそれは、肉としての人間が死に、腐ってゆくことそのものを、恐怖から目をつぶることなく見据えるがゆえに沸き上がってくる種類の憎悪だった(もちろん、それは彼が医師としての経験をもったことと深く関係しているだろう)。手塚が死そのものを、とりわけ自己の死を、恐怖したとは思えない。彼の戦争への嫌悪は、それが「死」とつながっているがゆえのものではない。そうではなくて、戦争が「殺す」からであり、さらに明確にいえば、不正なやり方で「殺す」からだ。それは、問題を「死」というように抽象化してしまえば消えてなくなるような水準の問題だ。手塚治虫は、「不正な世界など消え去ってもかまわない」というたぐいの青臭い紋切り型を口にしたりはしないかもしれない。けれども彼はまた、ヘーゲルやそれを解説する加藤尚武氏のように、「正義のために世界が滅びるなんて本末転倒だ」とも言わないだろう。

 話を戻さなくちゃ。ここまでに読んだ水木さんの作品の中で、僕がいちばん胸打たれたのは、実は『昭和史』や『総員玉砕せよ!』ではなくて(それらも抜群に面白くマンガ史的にも重要な作品だが)、『のんのんばあとオレ』(講談社漫画文庫)という作品だった。「馬車屋の松っちゃん」という女の子と遊んだ幼年時代から始まり、貧乏ゆえに女衒に売られてゆく初恋の少女「美和」との別れで閉じられるこの短い幼少年期の濃縮された「自伝」を貫く線は、題名にもあらわれているように「のんのんばあ」という住み込みの女中のお婆さんとの触れ合いによって与えられる。しげる少年に妖怪の話を倦むことなく聞かせてくれる「のんのんばあ」は、彼にとって此界と異界とをつなぐ存在である。そして「松っちゃん」から「美和」に至る少女=女性たちもまた、しげる少年にとって「異界」へのつなぎ手である。彼女たちそのものが異界であるというのではない。いくぶんかはそうした感覚も描かれてはいるが、ここには「女」なるものの神秘化といったような、ありがちな辛気くささは微塵もない。「松っちゃん」は幼くして肺炎で死に、「美和」はしげる少年の思いもむなしく、自ら遊女となり、去ってゆくのである。死、そして少年がまだ見たことのない遠い都会や、無力な少年には手のとどかない圧倒的な大人たちの「現実」は、親や学校からではなく、まず「松っちゃん」や「美和」という少女を通してしげる少年に与えられるのだ。そして、それを現実として受け止め、自分の力で癒していかねばならないという教えは、のんのんばあから与えられる。水木氏の作品世界では、いつも女性たちが等身大に生き生きと描かれているが、そうした穏やかで水平な視線の原点が、『のんのんばあとオレ』のなかにあるような気がする。

 僕は子供の頃、東京の十条というところで、母方の祖父母の家に(母の兄弟姉妹たちの家族といっしょに)住んでいたのだが、そこに下宿していた大工の兄ちゃんになぜかなついて、よく焼き鳥を買ってきてもらっていっしょに食ったり、スマート・ボールをやりに行ったり(といっても僕は見てるだけだったけど)、ときどきその兄ちゃんの部屋でいっしょに寝たりしていた。その兄ちゃんが、火のついた煙草を舌ベロで消すという芸をよくやって見せてくれるのを、何度も感心しながら見ていたのをよく覚えている。4歳頃のことだったはずだ。5歳になってから僕らの家族は郊外に引っ越したこともあり、いつしかその兄ちゃんとはもう会うこともなくなった。家のなかに親戚でもない人がいっしょに住んでいて仲良くしてくれるというこの感覚は、とてつもなく懐かしいのに、どこか非現実めいた感じがする。『のんのんばあ』を読んでいるあいだ中、僕はそのことをずっと思い出していた。