1999年8月10日(火)

 とうとう七月は一回もこの日記を書かなかった。何度も更新されてるかどうかをチェックしてくれた方々、ごめんなさい。どうも僕はフォーマットにこだわりすぎて、「ちょっとしか書くことがないから更新するのはやめとこ」なんて考えがちなんだよね。本とかレコードを買うときも、「なんか一枚(冊)だけだと寂しいから3枚(冊)ぐらいは買いたいな」っていう感じで、それほど欲しくも必要でもないものまで買ったりして。貧乏性というやつなのだろうか。そんなわけで、妙に構えちゃって、こんなどうでもいいスペースでもなかなか書けなくなってしまうのだ。で、ネタがたまればたまるほど、よけい書けなくなるという悪循環に陥ってしまう。でも今日は久しぶりに家にいて、雨が降っているので、こんな日はうまくいい加減な気分になれて、読書日記を書くにはうってつけの日なんです。
 

 日記は更新しなかったけど、いろいろと読んだり見たりしていなかったわけでもない。七月は、何と言ってもブライアン・ウィルソン先生の来日公演。いやーイカッタ。東京国際フォーラムAホールの初日に行ったんだけど、あんまり楽しかったので、公演が終わった後にその翌々日のチケット(けっこう余ってたみたい)まで買って、また行ってしまった。

 ブライアンはすでに大阪公演を終えていたはずなんだけど、東京の初日では明らかにナーバスで、最初はほとんど音痴状態。声は出ないし、音程はしょっちゅうはずれる。しかし鉄壁の素晴らしいバックバンド(ほんとに最高だった!)に支えられて、MCもなく次々にあの美しい曲の数々を繰り出していくと、観客の雰囲気もよくなって、だんだんリラックスしていくのが、後ろの方の席からでもよくわかった。

 ちょっと意外だったのは、ビーチボーイズ・ナンバーが圧倒的に多くて、二枚のソロ作品からの曲が少なかったこと。それより先に、公演のまえに「ブライアン・ウィルソン・ヒストリー」的なビデオを30分にわたって上映し、観客を少々辟易させ、疲れさせたこと。たぶん彼は、自分が日本の観客にどんなふうに認知されているのか、そもそも認知されているのかどうかさえ、不安でしかたがなかったんじゃないかな。過去のヒット曲に頼ったのも、そんな不安の顕れなんじゃなかったかと思う。

 だけど、演奏を進めていくうちに、そんな不安感はだんだん氷解していったのだろう。初日でも、最後にはそれまでずっとキーボードを前に座っていた椅子を離れて、マイクを持って立ち上がって踊り出したし、最終日はけっこう最初からノリノリ(笑)だった。僕の周囲に座っていた観客は、会話の内容からしても、じゅうぶん彼の過去と現在を理解しているように思えたし、それにあの天上の音楽とバンドがいれば、たとえブライアンについて何も知らない観客でも、音楽の力だけで酔いしれさせることができるに決まっているのだ。実際、僕もビーチボーイズの曲はそんなに知らない。だけど、その場ではじめて聴くような曲のめくるめくような色彩に包まれて、ひたすらうっとりする二時間あまりを過ごすことができたのだった。そして、「サーフィンU.S.A.」や「ファン・ファン・ファン」といったビーチボーイズならではの無意味系ロックンロール・ソングが、あの奇跡のような『ペット・サウンズ』の曲たちに負けないほど唯一無二の美しさを湛えていることを、おそれながら僕はこの日はじめて理解したのだ。

* * *

 このひと月半ぐらいのあいだに読んだ本で抜群に面白かったのが、山内志朗『普遍論争』(哲学書房)。僕は以前から「唯名論」とはほんとうのところ何なのかが気になっていて、それは直接には、M・フーコーが自分の歴史の方法論を「唯名論的歴史」と呼んでいたりしたこと(『性の歴史1 知への意志』新潮社)もあって、社会構築主義のちゃんとした理解をつくるためには唯名論/実在論という哲学史上の伝統的な対から見直さなければいかんと痛切に思うようになったせいなのだが(構築主義的観点にも諸水準があって、大きく分けると唯名論的な構築主義と懐疑論的な構築主義とがあり、両者を混同していると生産的な議論が出てこないような気がしている)、むしろ根本的には、L・アルチュセールがどこかで「唯名論こそが唯物論に至る唯一の道だ」と言っていたこと(たぶん『批評空間』のどの号かに市田良彦氏が訳していたエッセイ)に刺激されたこととか、もっと遡ると、学生時代に柄谷行人『探究1』(いまは講談社学術文庫、かな)から読み始めた固有名をめぐる議論への関心とか、吉田戦車『伝染るんです』(小学館)に出てくる「犬ください」っていうネタにうならされたこととか、とにかくけっこう持続的な関心は持っていたのだ。とは言え、怠け者なもんでちゃんと勉強して考えたことはなかった。それがこのところ、身体という主題をめぐってあれこれ考えているうちに、どういう経路をたどったのかは自分でもよくわからないのだが、やっぱり少しきちんと考えてみようと思って、前から気になってはいた山内さんの本を開いてみたのである。

 唯名論(nominalism)と実在論(realism)というと、中世の「普遍論争」において対立していた両極の立場であり、その内容はよく「個物(たとえば個々の犬)の実在だけを認めて、普遍(たとえば「犬」という種)は名称に過ぎないとするのが唯名論。それに対して、普遍がもの(res)として存在し、個物はそれを分有しているとみなすのが実在論。普遍を名称ではなく概念とする概念論が、中間的立場としてある」というような要約がなされるのだが、山内さんによると、中世の普遍論争をきちんとテクストに寄り添って解読していく限り、全然そんなものではないという。上のような粗雑な図式化は15世紀以降にでっちあげられたものであって、背景には政治的悪意さえ読みとれるのだという。だいたい、どんな極端な実在論者も、普遍がものとして実在するなんて言っていないし、唯名論の大立て者であるオッカムは「普遍=概念」としているので、そこだけとりだすと概念論者になってしまうそうな。大まかに言うと、個物のあいだに「共通本性」を認めるかどうかというところで実在論と唯名論が分かれるみたいだ。これだけみるとトリヴィアルな結論みたいだけど(確かにある意味ではその通りなんだけど)、山内さんはそこに至るまでに「事態」の概念だとか「単純代表」の理論だとかを丹念に読み解いていく。その過程で、ちょっと哲学に興味があるぐらいでは一生読むことなどないと思われる様々な中世の思想家たちの仕事がしっかりフォローされる。門外漢にはたいへんややこしい議論が続くのだが、論理的な積み重ねがしっかりしているので、あせらずに読み進めば何とかわかる。

 山内さんは「あとがき」で、ドゥンス・スコトゥスによる「存在の一義性」といったトリヴィアルで自明としか思えない主張の背後に、しかし壮大なスケールの展望が潜んでいる、と中世哲学の魅力について語っているのだが、この本自身がそういう仕掛けをパフォーマティヴに反復してみせているところに、「これは本物だ」という感じが漂う。同じ「あとがき」によれば、山内さんは「山奥」の中学二年生だったころ、東京の書店からキルケゴール『死に至る病い』、カント『実践理性批判』、あと思い出せないがもう1冊(ライプニッツだったかな)、あわせて三冊の哲学書を、通信販売で買い求めたのだという。僕と数歳しか違わないのに、まるで大江健三郎みたいだ。それで読んでみたがまったくわからず、しかしそこから次第に哲学研究の泥沼にはまりこんでゆき、学生・院生時代には誰も読まない中世哲学の原典を集めて、「ガラクタ蒐集」と呼ばれたそうな。さすが、哲学者になるひとは若いときから違う。僕が中二の頃に読みふけったものというと、筒井康隆と小松左京だった。すでに星新一とレイ・ブラッドベリは全部読み終わって、他のSFも読んでみよう、という段階だった。

 筒井さんのものでは、小説ももちろん面白かったんだけど、いちばん好きだったのは、『狂気の沙汰も金次第』という、夕刊フジだかに連載したものをまとめたエッセイ集で、若き山藤章二の冴えたイラストとも相まって、これは面白い本だった。特に印象に残っているのがその最終回。僕の世代で、世界が滅びることを心のどこかで待望したことのないひとなんていないんじゃないかと思うのだが(笠井潔氏はそういう「ヘーゲル的」夢想を近年になっても言っていて、浅田彰に馬鹿にされていたが、そういう夢想そのものの経験は浅田氏も認めているのだ)、筒井さんはすでに20年以上も前に、それは甘い!と言い切っているのだ。そんなシアワセに滅亡なんかできるわけがない。それでは話がうますぎる。戦争だの疫病だので何百万人、何十億人が死んだって、人類はきれいさっぱり滅びたりなんかできずに、ドタバタを続けていくしかないのだと。これは僕の世界観、歴史観をかなり深いところで規定する発言だったと思う。あるいは、僕が核戦争後の地球(言うまでもなく、第二次世界大戦は紛う方なき核戦争だったのだから)に生まれて生きている子供として直観的に感じ取っていたことに、このエッセイがはっきりとした言葉を与えてくれたのだと言いたい気もする。僕はその後、核兵器廃絶のような主張に対してシニカルになったことはない。けれども、もしも本当に核がすべてをすっきりと吹き飛ばしてくれるのだったら、その方がいいじゃないかという感覚は持ち続けていた。だが、現実には決してそうなりはしないのだ。むしろ、政治的用具としての核兵器が決して人類をclean upしてくれたりなんかしないということの方が、核兵器が存在すべきではない理由なんじゃないだろうか。この考えは、基本的には今も変わっていない。

 話が逸れたが、山内志朗さんが『普遍論争』のなかで何度も言及している「第二巻」が早く出てくれることを期待している(もう7年も経っているのだが……)。僕が中世哲学を踏み込んで研究することはやっぱり一生なさそうだけど、山内氏の訳したスコトゥス『存在の一義性』(哲学書房)や、清水哲郎『オッカムの言語哲学』(勁草書房)なんかは、折りをみて読んでみたいと思う。