1999年9月20日(月)

 暗闇が怖くなくなったのはいつからだろう。僕は子どものころ、夜、ひとりで家の二階に行けなかった。どうしてもいかなければならないときは、いつも何のかんのと妹に声をかけて、いっしょに行ってもらっていたのだ。そのころ僕は暗闇がとてもとても怖くてたまらなかった。家の者たちやその話を聞いた親戚の人たちは、何と臆病なと笑った。もちろん、信じがたい臆病さだったと自分でも思う。けれども夜の暗闇のなかには、どうしても、何か得体の知れないものが潜んでいるような気がしたのだ。何か禍々しいもの、薄気味悪い笑みを浮かべながら、僕の首筋を舐め回そうとしているものが。

 小学四年生になって勉強部屋をもらい、夜もそこでひとりで寝るようになってから、僕はだんだん暗闇に慣れていったが、それでもかなり後までやっぱり暗い場所は怖かった。何年かして、レイ・ブラッドベリがまったく同じような体験を書いているのを読み、ちょっとほっとしたような、なんだか誇らしいような気持ちがしたものだ。レイ少年が夜ひとりで家の階段を登っていくと、いつも暗闇のなかに不思議なものたちが潜んでいて、少年をおどかしたのだ。そして少年はわっと叫び、階段を駆け下りて、両親たちのもとへ戻った。だが両親たちを階段の上に引っ張っていっても、彼らは決してその不思議なものどもを目にしたことはない。やつらは、両親が灯りをつけると、必ずぱっとどこかへ消え去ってしまったのだから。

 ブラッドベリが幼年期に確かに見た得体の知れないものたちは、やがて「集会」のような作品に描かれることになるだろう。あるいは、「ゼロ・アワー」のような、子どもだけに見えるものが大人たちに恐怖をもたらす光景を描いたいくつかの作品に。夜そのものを描いた傑作では「黒いカーニバル」、夜の遊園地というやつはほとんど原型的な恐怖の空間だ。そしてもちろん、あの切ない「霧笛」。あれほど深い夜をイメージに定着させた小説がほかにあるだろうか。二度と太陽を見ようとしない母親と少年が登場する「ロケット・マン」も、少々変形された夜の物語だと言ってよい。ブラッドベリにとって、夜の暗闇こそは、永遠に想像力の源泉でありつづけている。

 僕は夜を描いた物語が好きだ。ブルース・スプリングスティーンの歌たちがそうだ。「銀河鉄道の夜」や「月夜の電信ばしら」や「ポラーノの広場」がそうだ。殿谷みな子のあの素晴らしい「求婚者の夜」。「アメリカン・グラフィティ」が永遠の名作になったのは、夜の街を走り回る車のテール・ランプが描かれていたからだ。僕は今でも、やっぱり暗闇が少しだけ怖い。だからといって、もう子どものころのように、みんなが寝静まった深夜にテレビを点けたら、ザーッと流れるノイズのなかから、モアイ像のような顔の宇宙人が秘密のメッセージを語りかけてくるのではないかという期待はないのだけれど。