1999年10月31日

 福岡ダイエー・ホークス優勝おめでとう。僕は王貞治の大ファンなので、しみじみうれしい。物心ついたときから現在に至るまで、あくまでも「王道」好きの僕が読売巨人軍を最終的に見限ったのは、やつらが王貞治をボロ雑巾のようにうち捨てたあの瞬間だった。監督としてリーグ優勝した翌年、リーグ二位に終わったとはいえ、それまでの球団側の発言からファンの誰もが「王続投」と思いこんでいたなかでの、なんの交渉も経ない突然の解任。かつて王貞治の引退セレモニーに長島監督解任をあえてかぶせ、王への世間の注目をあくまでも拒んだ読売という病的な企業の所業であることを思えば、ああまたやったかというため息程度ですませるしかないようなことだったのかもしれないが、僕には許せなかった。企業だろうが個人だろうが、そういうことをしてはいけないし、大人がそういうものであるということを、子どもたちに見せてはいけない。信頼と友愛という価値を嘲笑する転向者(ワタナベツネオ)は地獄に堕ちなきゃならない。そういうわけで僕は巨人ファンをやめた。

 いつの頃からか、蓮見重彦あたりの悪影響なのかもしれないが、長島や落合を自由や解放や創造性の側に置いて、他方に辛気くささや全体主義や官僚制の権化として王貞治をおとしめるという構図が、何もわかってないくせにプロ野球についてちょっと気取った風なことだけは言いたくてたまらない輩の共通了解になってきたように思える。監督として、抑えに鹿取を使いつづける王監督の石橋作戦がさかんに非難された。今、同じことを権藤博や星野仙一がやって、「勝利の方程式」とかいって持ち上げられているというのに。当の鹿取選手自身が、「まわりはいろいろ言っていたけれど、自分としてはあれでリリーフ投手として鍛えられたと思っている」と淡々と語っているというのに。

 そう、王貞治は、たとえ栄光の読売巨人軍の押しも押されもせぬ看板選手であったとしても、今日まで優雅で感傷的な日本プロ野球における「異物」でありつづけたのだ。それはむしろ、誇るべきことなのだろう。思えば、日本のプロ野球をリードしてきた選手の多くは外国人、あるいは外国系の選手たちだった。記録をみればよい。最多勝利投手は金田正一、最多安打は張本勲、そして最多本塁打は王貞治。しかしかれらはみな、最高の選手でありながら、最後までどこか異物として孤高の存在感をあらわにしていたではないか。それは彼らがみな日本人の考える純粋の日本人ではありえなかったことと、どこかでつながっている。王貞治は「世界の王」と呼ばれてきた。中国人のラーメン屋の息子がそこまで登りつめた、といった成功談など問題ではない。王において、「世界の」という形容詞は、日本代表というナショナリズムの感情によって押し上げられた名誉の称号であったことはなかった。それはどこまでも、「異物」に対する疎外の無意識が語る、体の良い排除のラベルでしかなかった。

 もちろん王貞治自身がそうした状況への抗議を口にしたことはない。彼は別に聖人ではなく、ピアノを弾くのが趣味のちょっと気のいいおっさんにすぎないだろうから、憤懣は猛烈にあっただろう。まだあるのかもしれない。しかし彼はそれを口にはしない。そこに、青筋立てて我慢する陰湿な精神を見て取るとしたら、そのように見る側がそういう人間だというだけの話なのだ。それがルサンチマンというものだ。まったく反対に、僕は王貞治という人にたいして、柔らかい春風のような印象を持っている。それはやはり彼が至高のホームランバッターであったことに根ざしている。野球の試合においてホームランという現象は、もはや誰も手の届かない次元へとつかのま試合を押しやり、あらゆる緊張をへなへなと解いてしまう。それはまるで大きな天災のように、たとえば隕石が落ちてきて明日地球が滅んでしまうというときに人が感じるであろう明るい開放感と同じ質の感情を、観る者にもたらす(別に隕石でなくても、かつての戦争のなかでも、坂口安吾はそれを感じていた)。でもそれを別にしても、選手として新人だった当時の王貞治の、あのくりくりっとしたまん丸な目は、なんと愛らしかったことだろう。王貞治がクラい人間なのではない。王を辛気くさく老いた者に見えさせてしまったのは我々であり、問題なのは、何がそうさせたのかということだ。自らの精神に潜む澱んだ沼の瘴気のような否定性を、王という異物に投影して排除して片づけたことにしようとする、そういう精神を、僕はそぎ落としたい。王貞治が好きだという人に会うと、とてもうれしい。

 おとといビデオで観た『プリシラ』というオーストラリアの映画は最高!だった。あとで知ったが故・淀川さんも絶賛の、オカマ三人が改造スクール・バスで砂漠を疾走するロード・ムービー。オーストラリアの埃っぽい砂漠を走る、ラベンダー色に塗り替えられた大型バスの屋根の上で、全身銀色のドラァグ・クイーンが銀色の吹き流しみたいなものを風に広げるシーンはとてつもなく綺麗だった。楽しくて上品で切ない。

 あと、いま電車のなかで読んでいるのは藤枝静男。いや滅茶苦茶面白いですね。『田紳有楽/空気頭』を読み終わって、いまは『欣求浄土/悲しいだけ』(いずれも講談社文芸文庫)を読んでいるのだが、「田紳有楽」のあらゆるネジがゆるみまくってはずれまくっていつのまにか別の何だかわけのわからない新しい機械が出来上がっていたという風情の「自由さ」、糞尿單に弱い人には決して読めない究極のアバンギャルド私小説「空気頭」の深遠さ(かどうかはよくわかんないのだが)はただごとではない。一転して、「欣求浄土」のまさに私小説としか言いようのない私小説における煌めくような発見性も凄い。おもしろい読み物ってのはまだまだあるんだなあ。僕はこれまで自分がたいした読書家でなかったことに何となく後ろめたさを感じてきたが、最近は中年男にすっかりなりきったので、何となくこれからが楽しみという気がしてきた。少なくとも老後が退屈ということはなさそう。