1999年12月10日(金)

 きのうは初めて試写会というものの招待券が当たって、『シュリ』という韓国映画を観に行った。これはもう、いきなり北朝鮮特殊部隊の血みどろの訓練シーンから始まって、最後の最後まで、時計をちらっと見る暇もない怒濤のアクション・エンターテイメント。途中で何カ所か、「おいおい、そこで敵を逃がすか?!」と思わず突っ込みたくなる膝カックン的シーンもなくはなかったが、オーケー、許す。祖国統一問題というベースの上に、暴力とメロドラマを力わざでミックスして盛りつけた、雑だけど最高にパワフルな映画であった。限りなく陳腐ではあるが、キムチ&焼き肉パワーという言葉が頭の中をぐるぐる旋回してしまった。

 あいかわらず「身体と所有(権)」という問題について考えている。いわゆるバイオエシックスの遡上で議論をするのは暇さえあれば造作もないことなのだが、歴史的な問題、哲学史的な問題に一歩踏み込んで考えると、とたんに難しくなる。ある対象にたいする所有権はその自由な処分権を実質的な内容とするのだが、それでは自由と所有は同じなのか、というあたりの思想史的問題をふまえながら、それをラカン的な「在ること」(e^tre)と「持つこと」(avoir)との関係(J・バトラーも『ジェンダー・トラブル』でとりあげている)と重ねて、身体であることと身体を持つことの関係を、ジェンダーに関連づけながら整理しきるという線を考えているのだけれど、ぼくには難しいなあ。とそんなあたりで逡巡しながら、今は前から気になっていた、赤間啓之『監禁からの哲学――フランス革命とイデオローグ』(河出書房新社)を読んでいる。ガブリエル・タルドは「所有」によって「存在」を制圧しようとした云々など、とても示唆的な話が出てくる。それにしてもこの人の本は相変わらず読みにくい。しばしば、何を言っているのかほとんどわからないのだが、何か凄い指摘をしているような気がして、どうしても読むのをやめられない。『ユートピアのラカン』(青土社)は、滅茶苦茶面白いけど、何がわかったのかは自分でもわからない(断片的な記述はたくさん頭に残っているのだが)本だった。やっかいな書き手だ。

 この1ヶ月半は、けっこうたくさんの映画をビデオ/DVDで観た。びっくりしたのは、レオス・カラックスの『汚れた血』。これは最高。ぼくはいつも「おフランス映画かよ、ケッ」と思いながらついついフランスの映画を観て、不覚にもはめられて泣いてしまうことがありがちなのだが、これには爆発的に泣かされた。やっぱり食わず嫌いをしてはいけない。後から『ポンヌフの恋人』も観て、これもなかなか良かったけど、『汚れた血』に比べるとちょっと冗長な感じがした。クサさの一線を微妙に越えたセリフが多かった気がする。『汚れた血』の的確にチープな設定(愛のないセックスで感染する致命的なウィルスが蔓延しつつある近未来、なんだけどね。。。)と雰囲気と映像、ジュリエット・ビノシュ可愛すぎ、主人公のドニ・ラヴァン君も唯一無二の存在感、どこをとっても素晴らしい。
 
 全然違うタイプの映画だけど、『ブラス!』というイギリス映画も良かった。閉鎖に追い込まれることがもう見えている炭坑町の、炭坑夫たちのブラスバンドが主人公。労働者が、日々のきつい生活のなかでいかに誇りを失わずに生きるかという、実にイギリス映画らしいテーマで、ストレート極まりなく力強い脚本と演出にほのぼのする。故・淀川さんは「大甘な映画と言えば言えるけど、登場する男たちの顔が実にいい」と評していた。的確なコメントだと思いますが、女たちもかっこいいよ。

 ずっと観たかったのになぜか観そびれていた、ヴィクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』をようやく(ビデオでだけど)観た。期待にまったく違わない美しい作品。スペイン辺境の広漠とした風景、主人公の子どものかわいさ、大人たちの空虚さが、いっさいの饒舌な説明なしに、しずけさのなかに立ち上らせられる。せつなすぎる。『エル・スール』とまったく同等の名作だと思った。