1997年10月18日(土) 

 今日は生まれて初めてクルマの運転というやつを体験した。東京生まれ、東京暮らしで、もともと生家にもクルマはなかったし、ナンパにも興味がないので、必要を感じなかったのだが、やはりカリフォルニアでは、クルマなしではちと辛いものがある。たまたま、いま週に2回通っている Visiting Scholar のための英会話コースで知り合った人(日本人)が教えてくれるというので、お言葉に甘えてみたのである。
 昼下がりのスーパーマーケットの、広大な駐車場で練習したのだが、いやー疲れますね。人の運転で乗っているときには感じなかったけど、自分が運転するときの時速20キロの速いこと! しかも教えてくれた人が剛毅な性格で、3、4回駐車場をぐるぐるしたら、いきなり人が横断したり対向車が来たりする道(駐車場への出入りのためのコース)に出さされて、1周させられた。後続車をしこたまため込みながら、なんとか一人も殺さずに戻ってきましたが。それにしても、プレステのFormula1で、「ジャン・アレジ」として奮闘しても、一回も最下位から抜け出すことのできなかった私に、果たして免許が取れるのだろうか。

 ぼくはいつも、トイレ(というか、古いアパートなので、いかにも「便所」という感じ)に本を置いて、のんびり用を足している。常備しているのはパソコン雑誌だが、文庫本を持って入ることも多い。しばらく前は、柄谷行人が昔書いた文芸時評を集めた、『反文学論』(講談社学術文庫)が定番だった。このところは、『隠喩としての建築』(講談社学術文庫)をぱらぱら読む。どちらも以前に繰り返し読んだものだが、何度読んでも発見があるのはさすがだ。たとえば、レヴィ=ストロースの議論とそのエピゴーネンについてあれこれ調べているときに、たまたま後者をめくると“レヴィ=ストロースの民族誌に対しては実証的な追試が行なわれて批判されているが、そんなものは彼にはこたえもしないだろう。構造主義はいわば、多様性に対する嫌悪のようなものに突き動かされているのだから。”なんて意味のことが書いてあって、なんだか、かえってほっとして実証的批判について勉強できたりするのだ。
 個人的には、柄谷氏の最高傑作は『内省と遡行』(講談社学術文庫)だと思っている。『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)もいいが、もっとミもフタもない書き方の前者の方が迫力があった。学生時代に読んでめくるめくような思いで圧倒されたのだが、不思議なことに、その後読み直しても、何にめくるめいていたのかが全然わからないのだ。あえていうと、すべて当たり前のことしかかいてないように思えてしまうのだ。これはすごいことである。読者としては、あんまり良いことではないかもしれない。思考する姿勢を、根本から規定されてしまった、ということなのだから。
 それにしても、“どこまで行っても「内部」であり、どこまで行っても自らが投影したにすぎない「意味」に閉じこめられている”ということを突き詰めることで「外部」そして「無意味」をかいまみようとした『内省と遡行』あたりの内容と、『隠喩としての建築』の「あとがき」で著者が告白している「プラトニスト」であること(これもまた隠喩であるはずだが)とが、矛盾するどころか、一方を欠いては他の成り立たない二つの条件である、ということを本当に肉体的に分かっているのは、ニーチェの真理愛と人間愛について語るときの永井均氏ぐらいだな(『〈魂〉に対する態度』勁草書房『ルサンチマンの哲学』河出書房新社)。稲葉振一郎氏の『ナウシカ解読』(窓社)も、真理の相対主義がむしろ全体主義の起源である、という筋の議論を展開していたな。
 そういうことがいまだにわからずに、なんでもかんでも「好みの問題」にして遠ざけたがるオタクどもや、反対に相対主義というレッテル貼りをすればなんでもかんでも堕落として否定できると思いたがっている右翼・保守主義者・共同体主義者が、しぶとくはびこっているのはなぜだろう。