1997年10月19日(日)

 『ダウンタウンのごっつうええ感じ』が打ち切りになってしまった。日本に帰る楽しみがひとつ減った。
 お笑いの歴史のあらゆる時点を自在に引用し、最高の前衛性を完全に消化して単なる素材のひとつとして余裕で使いこなし、しかもあくまで大衆的でありながら、決して危うい狂気を失わないダウンタウン(松ちゃん)の芸能人としての格は、音楽でいえば、U2やオアシスやプロディジーに匹敵する。いや、それでも狂気が足りないぐらいだ。かれらのやっていることを具体的に分析しつくすのは至難の業である。俺にもやれる自信はない。たぶんそれはなされないまま、やがてみんな歳をとり、すべて忘れられていくのだろう。音楽は、音楽の記憶とともに音楽そのものも生き延びていくけれど、笑いはその記憶がかろうじて残ったとしても、笑いそのものは決して残らない(それは、記録が残るということとは違う)。そして、記憶と笑いとは、少しも似ていない。ちょうど、戦争の記憶と戦争とが、少しも似ていないように。

 今日は一日家にいて、まったく外に出なかった。週に一回はこういう日がある。いつ日が昇って、いつ沈んだのかもわからない。家の中にいて、日がな本を読んだり、テレビを見たり、パソコンに向かっていたりした。あるきっかけがあって、脳死・臓器移植について、久しぶりに考えを整理していたら、何時間もかかったわりには、うまく行かなかった。ただひとつはっきりしているのは、「死」の原理的定義なんかできるはずがない、ということである。なぜなら、そもそもその前提となる、「生きている」ということがどういうことなのか、まだ満足な答えを出した人はいないのだから。たいていの人は、医者や生物学者も含めて、いまだに「生命」なんていうフェティッシュにからめ取られている段階じゃないか。前に読んだ、長野敬さんの『生命の起源論争』(講談社メチエ)では、さすがにその辺のことがしっかり押さえられていた。「生きている」という事実性は、「生命」なんていう胡乱な観念とは、何の関わりもないことなのだ。

 あいまに、安達哲『キラキラ!』(講談社)を、あちこち読み返す。この作品を読むと、何となく、坂口安吾のいくつかの作品を思い出すんだな。ストリーとか素材とかではなく、文体的なレベルで。なぜかはまだよくわからない。確かに安吾の「白痴」は、『キラキラ!』や『さくらの唄』(講談社)のように素晴らしかった、ということしかわからない。少しずつ考えていってみよう。