1997年10月21日(火)

 昔読んだ(といっても途中で挫折して、最後まではたどりつかなかったのですが)ドストエフスキー『悪霊』(新潮文庫ほか)に、シガリョフという変な男が登場して、キリーロフやスタブローギンといった主要な登場人物たちを前に、一席ぶつシーンがある。それは一種の優生学的な政治哲学とでもいうべきもので、うろおぼえで申し訳ないですが、たしかこんな話だった。
 ――社会を統治するのにふさわしい能力をもった人間は、人口の1/10しかいない。残りの9/10が統治にかかわってもロクなことはない。にもかかわらず、へたにそいつらが権利をもとうとするから、混乱が起きる。そこで、劣った9/10の人間は、何代かにわたる緩やかな退化を繰り返して、原始的な天真爛漫さに帰らせるべきだ。それを知的にも道徳的にも優れた1/10が統治すれば、うまく行くだろう。それが、統治される民衆たちにとっても幸福なことなのだ。――
 この演説は誰からもまともに相手にはされず、そのままにされる。その後のストーリーの中で重要な布石、というわけでもなかったように記憶している。ではどうして、ドストエフスキーはこんな場面を書いたのだろう。たぶん、執筆当時の社会的背景と絡めた研究がきっとあるのだろうが、怠慢な私は探したこともなく、ただ高校生の頃からこのシーンが妙に頭に焼き付いているというだけなのだが。

 何か考えるきっかけがあると、繰り返しこの男のことが頭に浮かぶのだが、最近で言うと、それは川本隆史さんの『ロールズ』(講談社)を読んでいるときだった。
 ロールズは、社会的な平等を核心とする「公正」という理念をなんとか正当化しようとするのだが、それは逆に言うと、どうしても否定しきれない各人の能力の差を、いちばん問題の少ないかたちで社会構築の前提に組み込むにはどうすればいいか、という努力としても読めるように思われたのだ。
 そうだとすればロールズは、あのシガリョフと、絶対的に隔てられているわけではない。どんなに遠く離れていても、彼ら二人の認識は連続しており、その違いは相対的なものにすぎない。で、そう考えたとき、ぼくは、ロールズという人のやっていることが、愚直なんていう言葉を遥かに超えて、ほんとうにものすごいことなんじゃないかという感じを初めて抱いたのだ。
 「みんな平等」とか「多様性を認めよう」とかなら、誰にでも言える。そこから先に進むには、不当に抑圧されている人たちをひとりひとり助けていくという行動の方に行くか、「いや、しかし、、、」というように、そんなスローガンだけでは片づかないややこしい問題をひとつひとつ検証していくという理論構築をめざすか、二つに一つしかない(実はこれらが一つのことなのではないかと、心の片隅で疑い、願いつつ)。そしてこの後者の道を行って、なおかつ問題の本来の複雑さに見合った根気で仕事をやり遂げている人というのは、そんなにいない。ロールズも、理論を洗練させていく過程で、かえって微妙な問題をそぎ落としてしまってきているのではないかと川本さんは示唆しているが、さもありなん。矛盾と多元性に耐え続ける知的体力と気力は、そんなに持続できるはずがないのだ。それでも彼がその方向へ歩み出た、ということは、やっぱり偉い。ちゃんと本人の書いたものも読まないとなあ。

 オクラはOKRAで、アメリカ原産の野菜だそうです。なんと。