1997年10月24日(金) 昼

 やっぱり毎日更新はむずかしい。この読書日記は(アメリカ太平洋側時間で)だいたい深夜から未明にかけて書いていたのですが、どうも夜更かしを加速して調子を悪くしてしまうので、こんどからは一日の終わりにこだわらず、書けるときに書くことにしよう。健康第一!

 今週のバトラー先生の大学院(比較文学)ゼミは、Frantz Fanon, Black Skin White Mask をとりあげていた。ぼくは英語では読みきれなかったので、邦訳(海老坂武・加藤晴久訳『黒い皮膚・白い仮面』みすず書房)もいっしょに持っていく。
 アメリカの文学研究のひとつの趨勢でもあるんだろうけれど、バトラーさんの読み方は、つねに「誰が」「どういう資格で」「誰に」対して語っているのか、ということから入る。たとえばフロイト『続・精神分析入門』に収められた女性論の冒頭で、フロイトが(これは架空の講義として書かれているので、架空の聴衆に向かって)あれこれ「語る」ところがあるんだけど、その箇所を読む場合だと、どの部分が男に対して、どの部分が女に対して語りかけられているのか、「私」という一人称が、単にフロイトという話者を表しているのか、それとも「普遍的真理の代弁者」として位置づけられているのか、……といったところをつねにとっかかりにして、細部の読解に入って行くわけだ。いわゆる「性の政治学」というやつなんだけど、実際にそういう読みの現場に立ち会ったことがなかったので、ふむふむ……という感じです。

 ファノンの場合、当然人種の問題がテーマになっているのだが、少なくとも『黒い……』の目次(「黒い皮膚の女と白人の男」「黒い皮膚の男と白人の女」)を見るだけでも予想できるように、それにジェンダーとセクシュアリティの問題が分かちがたく被さっている。ファノン自身は、「黒人として」、本書では「白人文化に骨抜きにされてしまった黒人」「もはや黒人ではなく、かといってもちろん白人でもない」自分のちゅうぶらりんの実存にしっかりした大地を与えるものとしてのネグリチュード(黒人であることの肯定)について書いているのだが――すでにその限界を指摘していたサルトル「黒いオルフェ」(邦訳『シチュアシオンII』人文書院)に飲み込まれつつ、格闘しながら――それでは、「男」であり「異性愛者」であるかれは、「女」や「同性愛者」について何を・いかに語っているか、という問題が当然出てくるわけだ。

 だがジェンダー関係のなかにおけるセクシュアリティについて、ましてや同性愛について、字面を状況から切り離して精神医学的知見として読むだけなら、ファノンから学ぶべきことはもはやあまり多くない、といわねばなるまい。けれども、ニグロの男は肉感的だ、と白人の男がいうときに、「吐き気がする」と言い切るファノンのその吐き気が、どんな状況の、どんな社会・経済的構造の、どんなマクロかつミクロな権力関係の中から立ち上がってきたのか、ということを問うならば、すなわちファノン自身の方法をファノンの言説にも適用するならば、そしてまた今ファノンを読むぼくら自身のあり方にもそれを向けるなら、たとえばファノンの分析に姿を見せる、「強姦を恐れる女は、心の底でそれを願望しているのだ」といった精神分析のクリーシェのなかにさえ、単なる不用意さ以上の何事かを「読む」ことになるだろう。
 ……と、まあ、これだけじゃなんのことかわからないと思いますが、いい加減な日記なので、とりあえずこの辺で。上のような問題については、もっと掘り下げて、来年春に某雑誌に発表する論文に書きたいと思っています。

 フランツ・ファノンという名を初めて目にした方は、『黒い……』の他に、鈴木道彦・浦野衣子訳『地に呪われたる者』(みすず書房)が代表作です。この本(もう古本しか手に入らないかな?)につけられた鈴木氏の解説に、学生時代のぼくは極めて大きな影響を受けました。まとまった概説書としては、海老坂武『ファノン』(講談社)がほとんど唯一のものじゃないかな。ファノンに言及している文章は、日本語、英語とも、どんどん増えています。それらの評価はともかく、いわゆるポスト植民地状況における社会と人間について考えるには必読であることは確かです。