1997年10月25日(土)

 2年以内に仕上げる約束で、マンガ批評の本を構想している。とりあげる作家や作品はおおまかには決めてあるけど、まだ流動的である。内容についても、当然まとまってはいないのだけれど、『季刊 窓』に書いたナウシカ論、『へるめす』に書いた短い藤子・F・不二雄論で、雰囲気や方向性はつかんでもらえるかもしれません。

 ぼくは幼少時、母方の祖父母の下に母の兄弟姉妹の3家族が同居する複合大家族で育ったのだが、年長のいとこのお姉さんがいたこともあって、ものごころついたときから身近に少女マンガがあった。『週刊マーガレット』の表紙が金髪の外人少女の写真だった頃である。「ウルトラマン」「ウルトラセブン」や「仮面ライダー」に夢中になるとともに、今はタイトルも覚えていないバレエ(踊るやつね)マンガなんかを読みながら育ったわけだ。まあ当時は、「魔法使いサリー」や「秘密のアッコちゃん」にしても一応少女マンガだったわけで、男女を問わず子どもはそういうものを夢中で観ていたわけだけど、TVアニメではなく印刷されたマンガ雑誌となると、やはり「少年」「少女」は厳然とわかれていたのではないか。だから『週マ』を男の子が読むというのは、まだ珍しかったのではないかと思う。
 また、ぼくはなぜか小学校に上がる前から小学館の『小学一年生』を買ってもらっていて(以後、1年生の時には『二年生』というように、5年生の時に『六年生』で打ち止めになるまでこのパターンが続く)、そこにもいくつか男の子向け、女の子むけそれぞれのマンガが載っていたのだが、ぼくはどうもそのときも女の子向けのバレエマンガの方をよく読んでいたような気がする。ついでだが、当時『ドラえもん』の新連載が始まったことも覚えている。第一回ではなかったかもしれないが、始まってすぐの回で(たしか、狙った相手をゆっくりをどこまでも追いかけていく、大きな丸い鉄砲玉の話だった)、淡いクリーム・イエローの背景が妙に美しいページがあって、ため息をつくようにしていつまでも眺めていたものだ。それにしても、あれは全学年向けに同時に連載が始まったのだっただろうか。いまでも強く印象に残っているのは、3年生で『四年生』を読んでいたとき、タイム・パラドックスものでのび太(セワシ?)がたくさん出てくる回で、どうしてもパラドックスのしくみが理解しきれず、生涯初の知的挫折感を味わったことだ。
 
 と、ここまではまだ前ふりで、今日書こうと思ったのは別のこと。つまり、バークレイに来てから一番読み返している本は、『大島弓子選集』(全16巻、朝日ソノラマ)である、ということなのです。実は恥を忍んで告白すると、ぼくが大島弓子の真価に気づいたのは、わずか二年前のことである。もちろんその高名についてはずっと前から存じ上げていたのだが、どうも食わず嫌いというか、ちゃんと作品を読んだことはなかった。もう20年近くも昔になるが(……)、中学生だか高校生だかの頃に、当時出ていた『SFマンガ大全集』というあやしげな編集雑誌で、「キララ星人応答せよ」を読んだ覚えはあるが、どうもピンとこなかった。最大の問題は、いまでもそういう人はけっこういると思うのだが、彼女の絵柄になじめない、ということだったと思う。幼少時の原体験から10年後、ぼくが意識的に少女マンガをむさぼり読むようになったのは、忘れもしない、14歳(中学二年)のときに『別マ』で連載が開始された、あの素晴らしい槇村さとる『愛のアランフェス』からなのだが、それ以来ぼくは集英社系の、線がハッキリした絵柄が好きだったので、線の細い大島弓子の絵柄にはとっつきにくさを感じたのだと思う。
 まあ中学時代といえば、ぼくがまだビートルズ以外の音楽は存在するに値しないと信じていた頃だ。しかしいつしか時は流れ、ぼくも許容範囲の広い大人になっていた。そしてあるとき、どうもこれは大きな思い違いをしているのではないか、というような直観的な恐怖に襲われて、意を決して『綿の国星』(選集第9巻)を買いに行き、さっそく読んでみたわけである。
 そのときに感じたことを分節化して言葉にすれば先ほどの本が書けるのだが、残念ながらまだそれはできていない。そういうわけで、まるで吉本ばななみたいなアホな表現だけを書きとめておくことにする――「読みながら、ものすごい切なさに私は襲われて、息が苦しくなった」。それ以来、選集をひとつずつ買い揃えて、それぞれ何十回となく繰り返し読んでいる。とくに1976年頃、作品でいうと選集第6巻『全て緑になる日まで』に収められた「七月七日に」から以後の作品群は、完全に前人未踏の高みに到達していると言うほかない(もちろんマンガだけの話ではない)。しかも大島氏は、才能が枯渇したりマンネリ化したり、はたまた他の追随を許さぬ天才を持ちながらその才能を十分には発揮しないままわけのわからない仕事に傾斜していった石森章太郎のようにオヤジ化するでもなく、いまでも新しい作品ごとに、その歩みを深めているのだ。マンガの世界ではほとんど信じがたいそんな奇跡がしかし現実であることは、「8月に生まれる子供」(『ロスト・ハウス』角川書店、1995年)を一読すれば明らかだろう。

 数多くの大島作品の中からぼくが選ぶ最高の一作は、「ロングロングケーキ」(『選集第11巻 ロングロングケーキ』)である。誰かこの作品の秘密を解き明かした人がすでにいるのだろうか(何か参考になる文章でもあれば、教えて下さい)。ぼく自身は、まだ何もわかってはいない。よく、存在を肯定する、なんていい方がされる。世界を抱きしめる、なんていえば、『ロッキング・オン』風になる。それはそれで素敵だけれど、けれども何が存在で、なにが非在なのか、何が現実で何が夢なのか、世界を抱きしめる自分は世界の中にいるのかいないのか、なんてことを考え始めるしかない者たちは、そんな言葉の陰で、きっと立ちすくんでしまうだろう。それでもそうした問いかけを手ばなさず、しかももっともっと確かな肯定の中に飛び込んでいくことなんてできるのだろうか。その答えは、「ロングロングケーキ」のなかにある。この絶対的に肯定的な「答え」に見合う「問い」は、まだ誰にもみつかっていないようにみえる。少なくともぼくは、それを考え出していかなければならない。

  そうだ、マルクスがリカードたちとちがって、「答え」ではなく「問い」の方を変えたのだというが、そのためには実はまったく別の「答え」が先立っていたはずなのではなかろうか。マルクスはそれをそのまま語ることはなかったし、それは彼の任務でもなかった。たぶん、セザンヌがフロイトに先立つというのは、そういうことなのではないだろうか。……と、とめどもなくなってきたところで、例によって今回はサヨナラ。(午後7時58分)