1997年11月13日(木)

 11月1日から11日まで、東京に行って来ました。驚いたのは、あたりまえなのだけど、人の多さと歩く速度。もともとぼくは速く歩くのが好きで、日本にいたときはむしろのたのた歩いている人をうざってえと思っていた方だったのに、今回久しぶりに新宿を歩いたら、自分のすぐ脇を猛スピードですり抜けていく人たちが怖くて、人混みのなかを歩くのがとっても疲れた。あの猥雑さはやっぱり、何がなんだかわからないけど凄い。アジアやなあ、と思った。もっとも、ぼくはまだ日本以外のアジアの国に行ったことはないので、欧米と対比する限りでの東京=アジアってことなのだけれど。
 11日の朝、サンフランシスコ国際空港からドア・トゥ・ドアの送迎バンに乗ってアパートに帰ってきたら、バークレーは雨が降った後らしく、秋めいた樹々が冷たく濡れていて、とてもきれいで、少しほっとしました。

 今回の旅では、もちろん、『もののけ姫』を観た。その感想。
 まず、あの作品を、ナウシカのリテイクに「すぎない」とかいってすませられるオタク批評家(オタクを批評するのではなくて、自分が単なるオタクである連中)どもは、オタクというよりもただのオヤジだ、ということをはっきりさせておきたい。単に、何かに感動したり、誰かを信じたり、そうしたことができなくなっている(あるいは、もともとできなかったのだが、そのことに開き直っても恥ずかしくなくなっている)干涸らびた感性の肥溜めのようなやつら。サッカー日本代表が韓国代表に勝ったとき、「負けてもらった」としか書けない『週刊文春』の感性および知性と、それはまったく同質のものだ。そして、言うまでもないことだけれど、人間解放の真の敵は、右翼でもなく、左翼でもなく、それらのなれの果てとしての「オヤジ」である。

 『もののけ姫』は凄まじい傑作である。冒頭近く、タタラ神と化したイノシシの映像は、『ナウシカ』における王蟲の登場シーンに匹敵するショッキングなものだし、それ以外の映像も、アニメがアニメでありながら実現しうることの極限に迫る素晴らしいものだ。
 人物造形が平板、といった評があるが、それは当たらない。日本の中世が舞台なのだから、近代的に「深く屈折した内面」みたいなものを抱えた人物なんかが登場したらおかしい。エンターテイメントとしての節度を保ちながら、宮崎駿はここでも要らぬアナクロニズムを注意深く排しただけのことである。アシタカが、ナウシカと違って、人を殺してもあんまり悩まないのも、当然である。そうしたものどもとして、すべてのキャラは立ちまくっている。
 少年・アシタカともののけ姫・サンが結局結ばれないことへの不満も目にしたが、ぼくはこれも違うと思う。もしもそうした評が、宮崎作品に性描写がみられない、という見方の延長上にあるとすれば、二人の「絡み」は描かれた部分だけでこの上なく官能的であり、何もつけくわえられる必要はない、ということを言っておきたい。この点では、ある意味で確かに性なき世界であった『ナウシカ』と『もののけ姫』は対極に位置するといってもよい。もちろんこのことは、セックスとは棒を穴に突っ込むだけのことだとしかイメージできない「オヤジ」(不倫ドラマばやりで不安になって、子どものDNA鑑定をやってもらったりしている連中ですね)たちには永遠に理解できないかもしれないけどね。
 ナウシカの撮り直し、という点について言えば、まったく間違っているわけではないけれども、強いて言えばマンガ版『ナウシカ』の映画化と言った方が少しは近いのではないかと思う。ちゃんとした分析はこれからのことになるけれど、明らかに映画版『ナウシカ』よりも複雑な世界認識が示されている。そのために、カタルシスは少ないだろう。だがそのことは映画『もののけ姫』の欠陥ではない。いわば、『ナウシカ』がベトナム戦争的な感性に対応しているとすれば、『もののけ姫』は湾岸戦争以後の感性に忠実に対応しているのだ。そこにカタルシスなんかがあってたまるものか。
 アメリカのロックが、グランジのネガティヴィティからベック的なポジティヴィティへ、しかしそれもちょっと何だか……という移動の右往左往を瞬時にリポートしつづけてきたとすれば、宮崎駿はそうした移動の可能性の全てをひとつの多様体として、この一作に封じ込めてしまったのだ。

 上の最後のところは、飛行機の中で読んだ、ティム・オブライエン『カチアートを追跡して』(新潮文庫)生井英考『ジャングル・クルーズにうってつけの日』(ちくま学芸文庫)の残響です(ただし、後者はまだ読んでいる途中)。ぼくのベトナム戦争イメージは、ほぼ完全にあの『地獄の黙示録』(フランシス・フォード・コッポラ監督)によって規定されてしまっているので、これらの本はちょうどいい解毒剤になる。だけど、『カチアート』についていえば、むかし大江健三郎が紹介していたのでずっと気になっていた作品なのだけれど、ちょっと名作とまでは言えないな。おもしろいことはおもしろいけど、『万延元年のフットボール』のような普遍的なマスターピースとまではいえない。まあそれはないものねだりのたぐいですけれども。
 (午前1時52分)