1997年11月20日(木)

 この3日間の出来事。日本代表がイラン代表を破り、ワールドカップ本大会に出場できることになった。おめでとう。原将人監督、広末涼子主演『20世紀ノスタルジア』の本編はまだ観ることができないものの(98年1月にビデオが発売されるようだ)、そのメイキング・ビデオ『インフィニティ』を観ることができた。素晴らしい時間。バークレイでは冬は雨期で、ぼくがこちらに戻ってきてから、夜には必ず雨が降る。昨日は降り出す時間が早まって、濡れながら自転車を飛ばして帰ってきた。ビジティング・スカラー向けの英語クラスで、ただいま同級生の韓国人女性Ockさんから、息子のスティーヴの写真を見せてもらう。スティーブとは夏の英語コースの最初にあった合宿で知り合い、今も道ですれ違うと挨拶を交わす。図体がでかいがおっとりしていて、いかにも良い意味で育ちのよい青年だ。

 ところで、なぜ彼はあくまで一時的に滞在する韓国人留学生なのであって、ここに定住する韓国系アメリカ人ではない。それなのになぜ名前がスティーヴなのか? 実はこれは自分でつけた英語名なのだ。彼はここではスティーヴで押し通し、ぼくも本名は一回だけ聞いたが忘れてしまった。他の韓国人も、若い人はたいてい同じようにしていた。ビリー・ジョエルのファンだからビリー、とか。いや、韓国人青年だけでなく、このあいだまで英語クラスでいっしょだった台湾人のおっさんも、本名の響きに近いということで、勝手に「デレク」と名乗っていた(どこがデレクやねん、という顔なんだけどね)。
 このことにぼくは最初、奇妙な感じを抱いた。いまも半面はその感じをぬぐい去れない。自分の名前があるのに、アメリカ人(だけではないが)に覚えてもらいやすくするために、あるいは何となくかっこいいということで、アメリカ人ぽい名前を名乗るということには、どうみても(被)植民地根性めいたものがある。でもその半面、もしも日本にくる外国人が、日本語の世界に馴染むために「イチロー」とか「アキラ」とか名乗り始めたらどうだろう、と考えたりもする。アメリカの日本人は、デビッドとか名乗ることはほとんどなく、せいぜいアメリカ人と同様に、本名を縮めたニック・ネームをつかうぐらいなのだが。日本人が固有名の響きに忠実であることは、ここでは何を意味するのだろうか。

 そんなこんなの合間に、来年3月までに出版する予定の論文集の完成へ向けて、書き直しをしている。まだ時差ボケが治らない、というか、ひどいまま定着してしまって、毎日午前7時くらいにならないと眠れず、起きるのは午後ということになってしまう。これでは講義にも出られないので、何とか直そうと工夫しているが、なかなか思うようにならない。しかし、真夜中ずっと起きているので、むしろ自分の仕事ははかどる。とは言っても、これまでに書いたものを読み直すと、展望の甘さが際だって、どれほど勉強し直さなければならないのかと思いに愕然とするのだが。
 卒論以来ぼくはこれまで、ファノンとサルトル(「黒いオルフェ」『シチュアシオン3』人文書院)とのやりとりを表面的に参照し、被抑圧者の運動を、「抑圧者の支配的文化への追従」→「被抑圧者独自の文化の再発見と賛美」(ファノンの場合はネグリチュード、フェミニズムの場合は「女性性」を顕揚するタイプの議論や分離主義)→「普遍主義」という弁証法だけで考えていたが、このことの問題点は、いったん「普遍主義」へと運動の過程を止揚してしまったら、あとはそれを広めるだけ、邪魔するやつは人類の的、という発想に陥りやすいこと。もちろん、そこまで単純に考えていたわけではないが、このような問題をうまく言語化することはできてはいなかった。ここに、鵜飼哲の示唆的な論考「沖縄とポストコロニアリズム」『抵抗への招待』みすず書房)に引用されているガヤトリ・スピヴァックによる議論を参照する余地がある(Spivak, Outside in the teaching machine, Routledge. この本は、例によって持ってはいるがちゃんと読んでなかった(^^;))。スピヴァックが脱構築を不可避的な契機として導入しつつ定式化する運動の可能的軌跡は、より屈折している。それは、「あらゆる人間的現実を男=人間の名で呼ぶ人間主義」を第一の運動とし、「その様態のまま男を女の名で置き換える」第二の運動に続けて、「この女を引用符に入れる」第三の運動を措く。このとき、男も同時に引用符に入れられているはずだから(つまり、男女の二元性は脱構築されているはずだから)、これは一段高い次元における「人間」の再発見であるとも読める。しかしスピヴァックによれば、これは「総合」ではなく、第二の運動と取り違えられがちな、「暫定的な、半分だけの解決」であるという。 「それゆえ、この運動は、第二の運動を引用符に入れつつつねに第四の運動を、けっして起こらないがつねに起こりそうな運動を待望している」のだと、スピヴァックは言う。これがもはや楽天的な普遍主義ではありえないことは明らかだろう。それは、第一の運動が乗り越えられることによって、すでに批判されているのだから。したがって、これは確かに弁証法ではない。諸矛盾はけっして「総合」されたり「止揚」されることはなく、「交渉」を通じて不断にずらされ、組み替えられてゆく。このようなスピヴァックの議論は、卒論から修論を経て、デビュー作「〈性的差異〉の現象学」(1990年)に至る線上では、国境を越えたフェミニズム運動の可能性と困難性について十分な注意を払ってはいなかったぼくの思考に鋭い反省と見直しを迫るものだ。その時期、ぼくは、フランスのフェミニズム運動について、そこでは「〈私たち=女〉とは、すでに実在するものではなく、しかし否定されるものでもなく、ひとつの投企である」という見方を書きとめていた。いまもそのテーゼを捨てる必要はないと思う。しかし同じテーゼが担うべき意味は、はるかに繊細に語られなければならないだろう。あと1ヶ月あまりのあいだに、どこまでやれるだろうか。(午前1時57分)