1997年11月26日(水)

 大江健三郎について、補足。大江氏にはテクノロジーについての意識がない、と書いたが、これは彼の作品の機軸に核兵器がもたらす世界の終焉というイメージがおかれていることと矛盾するようにみえるかもしれない。でもそうではないんだ。まず、柄谷行人氏がかつて「原爆フェティシズム」と言ったように、大江氏が核兵器の背後にその存在を支える資本主義や国家という「関係」を見ず、逆に世界のあらゆる問題を核兵器という物神に集約するかたちでしか提示できていないという批判がありうる。ぼくなりに言い換えると、テクノロジーとは単なる個々の技術(テクニック)ではなくて、それがある「ロゴス」と不可分なかたちで展開されたものの総体をあらわす言葉であるはずなのだから、核兵器という物体とそれに直接関連する狭義の科学技術だけを切り取ってきて批判するのは、まったくテクノロジーとして核兵器を問題にしたことにはならないということだ。テクノロジーという概念には、核兵器の所有を手前勝手に正当化してきたアメリカ合州国をはじめとする「先進」帝国主義諸国と、インド、あるいは北朝鮮やイラクのように核兵器を持つことで国際関係のなかでの交渉力を確保しようとする諸政府、さらにはウランの産出にかかわるアフリカ諸国と底辺労働者たち、といった諸関係がすべて含まれなければならないのである。
 ところが大江氏の想像力はそうした方向へ展開するのではなく、なにか核兵器を近代テクノロジー以上の神話的存在として感受するのだな。これは小説だけの話ではなくて、『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)のようなルポ/エッセイでも、原爆や原爆症の話が、いつのまにか人間の「魂」の問題になってしまう。彼のエッセイ集に『核の大火と人間の声』(岩波書店)というのがあるけれど、このタイトルが彼の核兵器観念をよく象徴している。「大火」という一種畏敬の念を起こさせるような言葉を、核兵器という、一切のロマンティシズムとは本来的に無縁である物質と結びつけてしまうというこの感性は、いわば預言者的なものであって、まるで分析的なものではない。だから大江氏が書くことを、なんというか、その「思想」的な部分を取り出すというような読み方で真に受けることはとてもできないし、小説についてさえ、たとえば『懐かしい年への手紙』(講談社文芸文庫)なんかで、ギイ兄さんが故郷の村の伝承として「人が死ぬとその魂は宙を飛んで森の樹木の根のところに帰る」なんてことを話すのだが、そんなおとぎ話そのものはどうでもいいものだ。
 それにもかかわらず、少なくとも彼の小説は、読む者をして、すべてを疑い、すべてを新しくやり直すこと、そしてそれがかつてどこかにあった大いなる時間と再び一致すること(それは「revolution」の原義と重なる)を夢見させる、途方もない力に溢れているのである。その秘密を本当に解き明かした評論は、たぶん、いまだ存在しない。『万延元年のフットボール』(講談社文芸文庫)で、語り手「蜜」の弟であり、物語における主人公である「鷹」がたった一度だけ発する「本当のことを言おうか!」というあの呪文のような言葉は、この世界の現実について分析し、かつそのただ中におかれた自分の存在を凝視しようとするとき、ぼくの精神の空洞に、いつもどこかから突然に鳴り響く、ほとんど神学的な雷鳴のようだ。

 田川建三『歴史的類比の思想』(勁草書房)を読む。以前につまみぐいしたことはあるが、きちんと通読するのは始めてです。
 本書は1976年刊だが、歴史という視野のなかで現在の問題を考えるための基本的な視点は、ここにすでに十分高度なかたちで書き尽くされている、と思う。実証主義的歴史学とその反転像としての「妙な主観主義」のいずれをも唾棄し、想像力だけが現実の理解へと至る方法であると言い切る歴史学像は、まともな学者が誠実に自己の基盤を突き詰めればそうなるほかないというようなものだが、それでも繰り返し確認するに足る基本的な認識だろう(「ウェーバーと現代:日本ウェーバー学者の問題意識」)。当時のアフリカの状況を1世紀の地中海世界と「類比」するという方法を梃子にして、経済・政治・文化のすべての領域における帝国主義の極めて複雑な諸問題に、基本的な見通しを与えた「原始キリスト教とアフリカ:帝国主義の宗教思想」「ウィリヤム:宗教的世界世論の本質」は、苦い認識として言うならば、本質的な点で少しも古びていないし、語の正確な意味での吉本隆明「批判」である「『マチウ書試論』論:現実と観念の接点」には、唯物論とは何かということを透徹した言葉で教えてくれる。
 ぼくはまだよく知らないのだが、最近のポスト・コロニアリズムやカルチュラル・スタディーズという思想運動が、田川氏がここで提示した水準をふまえた上でさらに前進しているのなら、それはきっと真に重要な成果を生みだしてきているはずである。しかし、本当にそうなっているのだろうかということは、どうも疑わしい。これからの勉強で答えを出していこう。

 それにしても、本書は版元品切れ(絶版?)で、ぼくの手元にある本も、勁草書房の町田民世子さん経由で、本書を編集した当事者である富岡勝さん所有の一冊をわざわざお送りいただいたものです。こんな本こそ、どこかで文庫にして、いつでも手に入るようになっていなければならないはずなのになあ。(午前3時16分)