1997年11月27日(木)

 今日のアメリカはThanksgiving Dayという祝日。各家庭では、親類縁者が集まり、七面鳥を焼いたりしてお祝いしているらしい。TVニュースで観ると、できあいの七面鳥料理を売っているスーパーの前には長い列ができていた。
 日本にいるときにも、ベルリッツの教科書にこの祝日のことが出てきて、いったい何の祝日なのかを先生に質問したことがあったのだけれど、その先生はカナダ人だったのであまりよく知らないようだった。今回、新たに英語コースの先生(スコットランド出身だが、アメリカには30年以上住んでいる)から教わったところでは、いわゆるPilgrim Fathers(巡礼始祖、と訳されることもある。1620年、アメリカ大陸にイングランドから最初にやってきた開拓者たち)がどうにかこうにか生き抜いた1年を振り返って祝った、というところから来ているらしい。とすると、当然、白人たちに「やって来られた」側の人たち(Native Americans)の立場はどうなるの、と思うわけだけど、その先生の配ったプリント(どうも、もともとは小学生向けみたいなやつ)では、未知の土地にやってきた始祖たちをインディアンたちもよく援助し、食物なども提供したことになっている。まあ、そういうこともあったのだろうけれど、それにしても本当かな。

 なんてことを考えながらTVをつけたら、日本にいるとき大好きでいつも観ていた連続ドラマ『Northern Exposure』(『たどりつけばアラスカ』という邦題で、WOWWOWで放映してた)の再放送で、このことにまつわるエピソードをやっていた。これは、アラスカの田舎町を舞台に、奨学金受給の条件としていやいや赴任したニューヨーク出身の青年医師と周囲の人々が引き起こす「涙と笑い」の数々、というドラマなのだが、今日の回ではこのドクターがいきなりインディアン系の若い友達からトマトをぶつけられる。ドクターは茫然とするが、友達はニコニコして行ってしまう。他の人に聞くと、これは白人に土地を奪われたインディアンの歴史的怒りを象徴する行事で、かの地のサンクスギビングにはかかせないひとこまだという。たしかに町のあちこちで、同じことが起こっている。それにしても、なぜトマトなのか? トマトは血の色で、しかし安全な道具だから、という。
 実際どこかの地方にそんな風習があるのかどうか、ぼくは知らないが、いくらなんでもちょっと甘ったるすぎる話だよな。しかしそれはそれとして、このドラマはたいへんよくできていて、何度観ても楽しい。いま現在、毎週観ているTVドラマは例の雛形あきこちゃんの『ストーカー』とか『毛利元就』とか(どちらも日本人向けチャンネルでやっているのです)、なかなかクドいものばかりなので、ちょっと一服できる。そうそう、『ひとつ屋根の下2』も始まったんだった。いまのところ、第1作の方がおもしろかった気がする。

 イヴ・セジウィク『クローゼットの認識論』(Eve Kosofsky Sedgwick, Epistemology of the Closet, California University Press, 1990)が本質的に優れているのは、言説状況の理解を補助するためのシャープな図式化を怠らない一方、論じられている事柄そのものについては決して安易な図式化をせず、図式的な議論を必ず相対化していくことだろう。
 たとえば、ゲイ(英語では男性同士も女性同士も含む使い方をされることが多い)の本質主義/構築主義をめぐる例の議論について、1990年という時点で、単純な構築主義的主張が陥っていく罠について鋭く指摘されている。つまり、ゲイが社会的・後天的構築物なら教育で変えられるし、何より子どもがゲイになるのを「防げる」だろうということで、80年代のアメリカには実際にそういう巧妙なアンチ・ゲイの動きが巻き起こったという。こうした現実の厄介な問題を、構築主義の(ゲイという言説の誕生に照準する)系統発生的バージョンと(個人がゲイになるのは先天的か後天的かという問いにかかわる)個体発生的バージョンの区別という分析用具を用いて的確に解剖していくのである。
 また、いわゆる「アイデンティティの政治」(ジェンダー、人種、階級、、、)が必然的にはらむ、あるカテゴリカルな集団内部の緊張という問題の描き出し方も鋭い。セジウィックはこれを、to identify as/withの相克として把握しているのだが、つまり、たとえばフェミニストがフェミニスト「として」ある主張の下に、ある集団の一員として自分を見出すことは、必ずしもその旗の下に集う具体的な他者たち、諸個人たち「に」自分を同一化させることと一致するわけではない。政治的運動において、このことは隠蔽される傾向があるが、しかしセジウィックによればこれは「アイデンティティの政治」に携わる集団的なムーヴメントにとっては余計な不純物のようなものではなく、むしろそれを構成する作用そのものなのだ。だから(ここから先は、ぼくの付け加えだが)フェミニズムは、そうした差異性とそれゆえの緊張をはらみつつ、しかもそれを隠さずに見据えつつ、いかにねばり強く(粘菌のように?)闘いつづけていけるか、をつねに模索していくほかはないのだ。
 こうした示唆的な議論を、セジウィックさんは具体例や自らの経験談も含め、実に繊細かつ暴力的な手続きで展開してゆく(その分、英語はぼく程度の読解力の者にとってはたいへん難しい! 同じところを何度も読み、わからない箇所は日本語訳しながら読み直さなけりゃならん)。もちろん、基本的には同じ水準のことを、ぼくは自分なりに考えてきたのだけれど(それは今度出す論文集に示してある)、でもだからこそ、自分の考えを繰り返し吟味し直し、さらには一歩一歩前進させていくための手がかりが見つかるのはうれしい。あ〜あ、でも、ちゃんとこの本が出版された当時にすぐ読んでいれば、ぼくももっと遠くまで到達できたのだろうに。それは、ジュディス・バトラーさんの議論にも言えることなんだけどね。(午後8時5分)