1997年11月28日(金)

 今日はまるで読書日記じゃないので、あらかじめ謝っておきます。ごめんなさい。(^^;)

 以前、神保町の三省堂書店で本を見てまわっていたときのことだ。ぼくが下りのエスカレーターに乗っていると、ぼくの二人前に立っていた見るからに「オタク」の典型としか形容できない汚らしい巨漢の男(大きな紙袋を持っていた)が、下の階に到着するとなぜかいったん降りて「タメ」をつくったあと、さらに下の階に行こうとするぼくのすぐ後ろに乗り直してきた。ぼくは内心「なんだこのオタク野郎」と思ったが、まあそれだけのことで、下の階でまた本を見に行った。すると、いつのまにかその男がすぐ後ろにきて、別の本を読み出した。ぼくはちょっと胸騒ぎがして、場所を変えてみた。
 やっぱり、ついてくる。
 相手の顔を見ると、デブった顔に無精ひげを生やし、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。やっぱり、目つきはキレている。
 ぼくは恐怖を感じて、足早にその場を立ち去り、また上の階に上っていった。
 走ってついてくる。それからあちらこちらに場所を変えても、息をハアハアさせながらついてくる。
 ぼくは自分を落ち着かせて考えてみた。―― こいつがどうして俺についてくるのかは知らないが、少なくともまともじゃない。ここで騒ぎを起こしても無駄だろう。幸い場所が場所なので、身の危険ということはなさそうだ。好みじゃないが、ここは逃げるに限る。
 といっても、だらだらと逃げたのでは店の外に出ても追跡してくる可能性がある。ぼくは仕方なくエスカレーターを駆使して店内を動き回り、ぼくと奴の間に何人かの人がうまくはさまった時点で、店の外に飛び出した。外に出るやいなや、ぼくは全速力で走り、奴を振りきった。
 そこまでに経過していた時間は、客観的にはたぶん10分ぐらいだったのだろうが、そのときはずいぶん長く感じられたものだ。そして、後を付けられているときに感じた恐怖の余韻は、その後何時間かは続いた。

 たぶん同性愛的な意味で、やつはぼくを追いまわしたのだろう、と思っている。ただ、断言しておくが、ぼくがそのとき感じたのは、得体の知れない敵に対する恐怖であって、同性愛者に対する嫌悪では微塵もなかった(ぼくは基本的にはヘテロであるとしても)。これは単に正直に記しているだけだが、誤解のありそうなところなので、あえて強調しておこう。山崎カヲル氏はどこかで、夜の道でゲイに誘われたときに反射的に感じてしまった「嫌悪感」について自己省察する文章を書いておられたが、そしてその内容は誠実なものだったが、ぼくの場合とは問題が違う。
 とにかく、ゲイであろうがヘテロであろうが、いたずらに他人を追い回したりしてはいけないのだ。かつて『図書新聞』に、「ストーカーが増えたのは良いことだ」というくだらねえエッセイを書いていた粉川哲夫氏のような単なる「左翼なれの果てオヤジ」がどうのこうの言おうと、悪いことは悪いのだ。手前勝手な欲望を満足させるために、嫌がっているのが明らかな他人を追い回して恐怖を与える、などということは、どんな社会であっても許されない。そんなものは、資本主義の矛盾の克服や、社会的不正の廃棄とは何の関係もない。世の常識が非難するものなら何でもかんでも斜に構えて擁護してみせるというだけの、その手の低劣な自己顕示欲が、社会主義の理想に見合う感性などであるはずがない。

 、、、と、いささかヒート・アップしてしまったが、そんなことはどうでもいいのです。言いたいのは次のこと。
 たぶん、上の経験をするまで、ぼくは女性にとっての性暴力の恐怖を実感的に理解してはいなかったと思う。もちろん今は十分に理解しているというつもりはない。けれども、少なくとも、そうした恐怖の当事者になる可能性がその存在そのものにおいてあらかじめ閉ざされているオヤジやオタクどもと、自分の意志とは何の関わりもないところで日々そのような状況にさらされがちな女性たちとの間にある絶対的な断絶については、少しだけ内臓で感じることができるようになった、気がする。この感覚を想像すらできない者に、性暴力について語る資格などないということを、決して忘れてはならない。

 暴力という言葉からの連想。先日「思考する衛星・〈性〉」のページからリンクを貼らせていただいたLGNのサイトに、東京で毎年開催しているゲイ&レズビアン・パレードのことが書かれている。同性愛者の人権の確立を訴えるかれらの活動に対して最も強く警戒心を抱き、物理的暴力でもってそれを妨害しようとするのは、実は当の同性愛者たちの一部、すなわち、「ウリ専」などの売買春ビジネスにかかわって利益を得ている人々であるという。同性愛がもっとオープンになり、またその人権が確立されてゆけば、そういう連中のビジネスにも支障をきたすからであるという。

 すべての解放闘争が必ず直面せざるを得ない困難な局面に、日本の同性愛肯定運動も立ち至っているようだ。アジアやアフリカの新興独立国が陥っていった独裁体制のことは今更言うまでもない。南アフリカでも、すべての黒人たちがアパルトヘイトに反対したわけではなかった。フェミニズムは未だに、「女の敵は女」(もちろんそれは半面の真理でしかないのだが)という状況のなかで立ち尽くすように闘い続けている。すでにあった状況のなかに ―― それがたとえ、本質的にどれほど差別的・抑圧的であっても ―― 生活の足場を築き、それに寄り掛かるしかできなくなってしまっている人々は、決して状況の変化を望まない。また、主体のアイデンティティはつねに状況の効果だから、差別のなかで主体化してしまった被差別者たちは、差別がなくなればどうしていいかわからなくなってしまうだろう。「平等になったら困る、楽していられなくなる」と言い切る女たちは実在する。彼女たちには、女も男のように働けってことじゃない、男も女もそれぞれに暮らしやすい社会をつくろう、と呼びかけても通じない。そんな社会をつくるために動く、ということ自体が、そういう人々にとっては「敵」なのだから。変化を求める者と恐れる者とのあいだには、最終的な和解はありえない。

 だから、繰り返しはっきりさせておかなければならないだろう。フェミニズムであれ、同性愛者の解放であれ、変化への闘争は必ずその犠牲者を生み出す、というあまりにも当然の事実を。そこには、権力の所有者だけではなく、支配の枠組みのなかでそのおこぼれにすがって生き延びようとする被抑圧者も含まれる、ということを。誰もが住みやすい社会、といった無責任な夢想が実質的に意味するのは、せいぜい現状をパレート最適と見て、それを保守するという以外のことではあり得ない。女は男に奉仕するもの、おとなしく男に従っていればいいという「感情」から抜け出せない男たちが滅びなければならないのと同様に、男を死ぬまで働かせて自分はそのおこぼれで難しいことを考えず楽して暮らしたい、という女たちもまた滅びなければならない。(最初の話に重ねて言えば、痴漢やセクハラの加害者が最低の犯罪者であることは言うまでもないとして、被害者の女性に対して妙に厳しいある種の女たちも同罪だ。)

 いま現在この地上に存在するすべての人が幸せになる、ということと、いつかみんなが幸せな社会が実現される、ということの区別に気がつくだけでは足りない。両者は、根本的には逆立さえするだろう。両者を融和させようとすることは、結局は現状の矛盾を、現在の被害者たちに押しつけ続けること以外を意味しない。そうだとすれば、とるべきはつねに後者なのである。ここに、あらゆる革命運動の、いや思想そのものの偉大さと危険さのすべてがある。しかしそれは、どんな悲惨を結果として生み出そうとも、「みんな仲良く幸せに」という小市民感情があくまでも隠蔽しようとする、「いま幸せじゃない人たちには引き続き我慢していただいて」という欺瞞よりは、つねに(無限小の差であっても)マシなのである。
(午後7時16分)