1997年12月1日

 ぼくが洋楽(ロック)を聴き始めたのは、小学校4年生の時だから、1973年。『明星』の付録の歌本に、ミシェル・ポルナレフやスリー・ディグリーズなんかが載っていた頃ですね。それまでも(それ以後も)歌謡曲は好きで、思い出せる限りいちばん最初の愛唱歌は「ブルーライト・ヨコハマ」だった。これは小学校に上がる前から歌っていたと思う。シュキとアビバ(「愛情の花咲く木」)とかベッツィ&クリス(「白い色は恋人の色」)なんかも好きだった。他に歌手では西城秀樹(「薔薇の鎖」や後の「ブルー・スカイ・ブルー」)や森進一(「冬の旅」)が好きだった。ルネ・シマール(「緑色の屋根の家」「アヴェ・マリア」)という美声の美少年に(同世代なのだが、、、)はまったこともあった。アイドルは山口百恵、岩崎宏美。あの素晴らしいフィンガー5については言うまでもない。「リルケの詩集」という曲を歌っていた女の子デュオの名前がどうしても思い出せないことは、いつも少し寂しい感じがする。

 、、、てな話は今日のところはどうでもよくて、ロック体験の話だったね。小学4年生だから10歳になるかならないかの頃、ある日ぼくは、長い坂を上りきったところにある友達の家に遊びに行って、中学生のお兄さんの持ち物であるビートルズのレコードを聴かせてもらったのだ。今まで聞いたこともないようなメロディーのイントロにつづいて、歌が始まるとともに何だか突然回転数が狂ったような展開になる、奇妙な曲が、なぜか半分しか開けられていない襖(ふすま)の向こう側、隣の部屋の小さなステレオから聞こえてきた。それこそがぼくが初めて聴いたビートルズの曲、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」だったのだ。
 今思えば、その頃はまだビートルズが解散して3年ほどしかたっていなかったのだから、中学生や高校生たちにとっては、かれらはまだ生々しい存在だったのだろうと思う。しかしぼくにとっては、名前は知っていても遙か遠くの存在で、それが突然自分の生活のなかに雪崩れ込んできた、というようだった。最初の出会いからすぐに、秋葉原の石丸電気3号店に行って、「イエスタディ」「ヘルプ」「ヘイ・ジュード」のシングルを買った。

 それが始まりで、そのときにすべてが決まってしまった。残りの3年間は、お小遣いを貯めて、ビートルズのレコードを少しずつ揃えていった。中学生になると、ポールやジョージのソロ作を聴いたが、ジョン・レノンは(これはビートルズ友達みんながそうだったのだが)よくわからん変人というイメージが先に立って、あまり興味は湧かなかった。それがひっくり返ってしまったのは、中学3年生の夏の終わりごろだったと思う。NHKでやっていた『ビートルズとその時代』という題の特別番組を観ていたら、エンディングに「イマジン」が流れて、それを聴いた(観た)ぼくは番組が終わった瞬間に自転車に飛び乗って、二駅離れた繁華街に『イマジン』のアルバムを買いに走ったのだった。『ジョンの魂』には、とりわけ冒頭を飾る「マザー」には、途方にくれてしまった。ジョン・レノンについて書き始めると長くなるのでやめておくけれど、「マザー」はぼくにとってすべての新しい基準になった。ほんとうにすごいこと、本当にとんでもないこと、本当に未来を指し示すこと、本当に本当のこと、そして本当にかっこいいこと、いったいそれは何かという基準が、この数分間によって示されているのだ。ぼくが、その後のあらゆる音楽や映画や文学に求めてきたもののすべては、きっとこの曲のなかにある。

 「日本語のロック」という言い方とそれに込められた問題意識は一つ上の世代のもので、ぼくにはあまりリアルではない。しかし、確かに高校生の頃までは、「日本のロック」とは基本的にダサく、一段劣ったものという感じが蔓延していたと思う。ロックとはイギリスの、そしてアメリカのもので、その両者の違いは「違い」として認識されていたのだが、日本のロックは日本の情況(conjonctureというやつですね)に固有の表現であるよりも前に、英米の笑えるイミテーションという雰囲気があって、あまり真剣に聴くべき対象だとは、少なくともぼくには感じられていなかった。相倉久人が、日本のロックには闘いの犠牲者がいない、という意味のことを言っていたように記憶している。その言葉にはリアリティがあった。日本には、ロバート・ジョンソン(毒殺)やバディ・ホリー(射殺)の前史もなく、ジミ・ヘンドリックスも、ジャニス・ジョプリンも、シド・バレットさえいなかったのだ。
 それが一種の甘さの帰結だったとしても、もちろんそれは、ミュージシャンだけの甘さではなかっただろう。英米ロックに基準を求め、それに近づいているかどうかだけで日本のミュージシャンを判断するファンの側にこそ、自分のおかれた情況のただ中から「これしかない」ところまで突き詰めた表現を爆発させるという態度が欠けていたのである。言うまでもなく、中学までのぼくもその中に含まれていた。そういう情況を変える契機となったのは、やはりパンクだったと思う。

 ロンドンとニューヨークから一斉に出てきたパンクと初期のニューウエーヴの日本の文脈における功績は、英米ロックをいかにまね、それに近づくかという被植民地根性から、ぼくらを解放してくれたことだと思う。ぼくらは、ぼくらが投げ込まれているこの場所で、この時代に必然的な音と言葉を探さなければならない。パンクはそうした覚醒へとぼくらを方向づけた(そのようにして動き始めた空気のなかで、たとえば頭脳警察の再評価も始まったのだ)。誤解はないと思うが、それはいわゆる「日本的なロック」をやれということではない(それが必ずしも悪いとはいえないのだけれど)。情況のなかで、それにまっすぐ向かい合うということは、ルーツだの伝統だのを「再発見」するという陳腐なふるまいとは、むしろ正反対なことだろう(そうした意味で、ぼくは現在のソウル・フラワー・ユニオンの活動は基本的に支持しつつも、手放しで礼賛することはまだできない。いまここでにおけるポップ・ミュージックの必然性が、本当にかれらのやっているような方向にあるのかどうか、自信をもって判断することができないのだ。残念ながらぼくにとっての中川敬とは、未だにニューエスト・モデルであり、「底なしの底」である)。

 「日本語のロック」から「日本のロック」へと、じくじくと続いてきた問題(とそれを裏打ちしてきた歴史的情況)は、あのルースターズを経て、甲本ヒロトと真島昌利という二人の天才を抱いたザ・ブルーハーツによって、完全に終わったと思う。かれらの偉大さの本質と歴史的に果たした役割の重さについてはまだほとんど正当に語られてはいないい、ぼくも十分な言葉を用意することはできないけれども、この直観が覆されることはないだろう。かれら以後に登場した優れたミュージシャンたちには、一歩距離を置いたスタイルとしてやっているのでない限り、英米ロックの猿マネ的なみっともなさは微塵もない。ブランキー・ジェット・シティのようなバンドは世界のどこにもいないし、かれらの「僕の心をとりもどすために」や「冬のセーター」のような言葉(歌)は、完全にこの現在の、日本と名づけられた国家の、それによって枠づけられた情況のなかからしか吹き出てくるはずのないリアルなものだ。

 つらつらとこんなことを考えたのは、バークレイに来てから、だんだん日本のロックやポップスを聴く時間が増えているように思えて、なぜなのだろうと疑問に思ったからだ。単純に日本語が懐かしい、という要素もあるのだが、それだけではない。こちらに来てから出た新しい洋楽のアルバムは、オアシスもレディオ・ヘッドもプロディジーもプライマル・スクリームも聴いたが(しかし、全部イギリスのバンドだな)、そしてそのどれも十分に納得の行くものだったのだが、それでもそれらのどれよりもぼくが繰り返し聴き、深く感動しているのは、中村一義の『金字塔』、ブランキーの『Love Flash Fever』、Charaの『Junior Sweet』、そしてAIRの『My Life As Air』などの、日本の新しいロックなのだ。ニューエスト・モデルもブルーハーツも、変わらずによく聴いている。スピッツや友部正人は言うまでもない。かれらはみんな、もちろんそれぞれにまるで違っているけれども、もう括弧をつける必要のない現在の日本のロックなのである。ブリティッシュとアメリカ、またアイルランドやオーストラリアのロックがそれぞれ違う世界を担っているように、それらと並んで日本のロックがある、ということである。それは贔屓の引き倒しではなくて、かれらの強さも弱さもひっくるめて、そう言うのだ。
 たとえば、一挙に驚くべき作品をぼくらに突きつけてきたAIR『My Life As Air』は、滅茶苦茶カッコいいんだけど、オアシスやレディオ・ヘッドと似た質感のサウンドであるだけに、やつらよりちょっと音が細い感じがするのが不満だし、メロディにも、もう一歩手前で抑制すればずっとクールなのに、と思えるところがあったりする。英語混じりの歌詞も、音楽として聴くと歌詞カードを読むときよりもはるかに説得力があるとはいえ、ところどころには「どうかな?」という気がするところもある(ひとつだけ具体的にとりあげると、アルバム冒頭のスゲーかっこいい曲「DIE HARD」で、「西では今 左の方が勢いをつけているというのに/時代錯誤もはなはだしい奴等が唱えて止まないナショナリズム」というパッセージがあるが、これは後半はその通りだけど、前半の状況認識にはちょっと首をひねってしまう)。
 しかし、そういう弱さも、「まだまだ日本のロックは、、、」という感じの「未熟さ」としては、もはや響いてはこないんだな。これらはすべて、AIRが今ここで鳴らしうる最高の音を鳴らした結果、必然的に出てきた弱さなのであって、この作品は時代のドキュメントとして正確無比なのだ。それは、ブラーのあの閉じた音世界が、むしろオアシスという「欲望」を暴走させるイギリスの現実をよく「反映」しているように、1997年の日本そのままなのである。そうだとすれば、ぼくらはこれを安易に肯定したり否定したりすることはできない。『My Life As Air』は、この歴史的時間に投げ出されたままもがいている、ぼくら自身についての報告書なのだから。
 そして、日本のロック・ミュージシャンたちがそのような場所にまでたどりついたということは、確かにポジティヴな意味を持つ、ひとつの「解放」だったに違いない。そうでなければ、先に名を挙げた作品たちが、一様にあれほどの強度に貫かれているはずがないだろうから。けれどもぼくらにはここで微睡んでいる暇はなく、直ちに新たな前進を始めなければならないのである。 (午前1時22分)