1997年12月7日(土)

 Gayle Rubin, 'Thinking Sex: Notes for a Radical Theory of the Politics of Sexuality'は、最初のバージョンが1984年に出版されて以来、多くのアンソロジーに収録されてきた、強い影響力を持つ論文である。僕はAbelove, Barale, and Halperin(eds.), Lesbian and Gay Studies Reader, Routledge, 1993.という巨大アンソロジー(ぎっしり字のつまった大型の判で、650ページ以上ある)の巻頭を飾る、1992年にかなり手が加えられたヴァージョンを読んだ。

 この論文のメインテーマは、副題が示しているとおり、未だ不十分なセクシュアリティの解放理論(radical theory)を構築するための準備作業である。実際にやられているのは、セクシュアリティ全般、とりわけレズビアン/ゲイなどの性的マイノリティがおかれている現状(1970年代後半以降1982年までが中心)を、19世紀末や1950年代の状況とも照らし合わせながら、図式的に整理しつつも具体的に描き出すこと。保守派によるさまざまなセクシュアリティ規制立法の動きや、同性愛者に対する警察の恣意的な取り締まりの実態(サンフランシスコでさえ!)、また性的なものすべてを男性権力と同一視してしまうタイプのフェミニズムの陥穽など、とりあげられている事象の幅は極めて広く、'pro-sex'的な運動が直面している困難について認識するためには今もなお必読の論文であるといえるだろう。
 また理論的にも、必ずしも緻密であるとはいえないものの本質的な鋭さを随所に見せている。たとえば本質主義と構築主義について論じたところでは、まず生物学的な本質主義を批判し、ウィークス、ワルコヴィッツ(ヴィクトリア時代の売春についての研究で著名)、フーコー等の研究を高く評価しながらも、安易に構築主義を振り回すと現実にある「抑圧」の問題をとりのがしてしまう危険にも注意を払い、最終的に生物学とセクシュアリティの関係については「超越論的リビドーなきカント主義」の立場をとる、とまとめている。このあいだ読んだ『批評空間』(第何号だったっけ?)の座談会で、浅田彰氏がジュディス・バトラーに言及し、ジェンダーをパフォーマンスとしてとらえた『ジェンダー・トラブル』の極左構築主義的議論から、『Bodies That Matter』においては「身体」の物質性を改めて問題にしたというように整理したのを受けて、柄谷行人氏が「それはカント的だね」と言っていたが、ルービン氏はそうした見方の基本線をすでに提示していたわけだ。(バトラー氏の著作については、もう少し整理してから、近いうちに何か書こうと思っています。)

 この論文はセクシュアリティについて一種のラディカルな「自由主義」を主張しているのだが、そのなかで、同性愛やサドマゾヒズムにもまして蔑視され抑圧されている性行動として、cross-generationalなもの、要するに子ども・年少者の性愛を挙げている。ここはこの論文にかんして最も議論がわかれるところだろう。バトラー氏の学部ゼミでこの論文をとりあげたときにも、学生たちがひっかかったのはこの点だった。もちろんルービン氏の論旨は明確で、相手が子どもであれ大人であれ、強制的なセックスは許されない、しかし逆に関係性の内実を見ずに年齢(とかサドマゾとか同性愛とか)というカテゴリーですべてを十把一絡げにするのもいけない、ということである。
 多様な性を嫌悪し恐怖する保守派どもは、単婚の枠内における生殖のためのもの以外の性をすべて規制し犯罪に仕立て上げようとし続けてきたのだが、その際に何かと用いられる手がかりは決まって「子ども」であるという事実も、ルービン氏が執拗に注意を促すところである。変態どもから子どもを守るための法律を、という一見常識的なキャンペーンは、決してそれだけにとどまらず、逸脱的な性すべてを取り締まるという欲望を抱え込んでいるということである。
 これは日本の事情を知る者にとってももはや目新しい事態ではないだろう。成年コミック問題というかたちであらわれた保守的な性道徳の唱導は、日本のフェミニズムにもほぼ同じ問題を突きつけることになったのだから。それにかんしてぼくはすでに、「〈性の商品化〉をめぐるノート」(江原由美子編『性の商品化』勁草書房)という論文を書いている(これはまだまだ不十分なものだが、根本的に書き直す時間もないので、4月に出る予定の論文集にはほぼそのまま再録することになると思う。)これはそれなりに複雑な内容を持つ論文なのだが、大ざっぱに言ってそこで主張したことは、〈性の商品化〉批判の可能性を「性道徳」談義に回収してはならないということだった。この、実は全く位相の違う二つの問題平面を混同している限り、フェミニズムのセクシュアリティ論は足下をすくわれたまま右往左往するしかない。「性の〈解放〉を、そして(それゆえにこそ)〈性の商品化〉批判を!」というテーゼの意味が理解されて初めて、フェミニズムはより積極的にセクシュアリティを語る、次のステップに進めるのだと思う。

 さて、それでは子どもの性、また大人と子どもの間の性関係をどう考えるべきか。まず、子どもを性そのものから隔離しようとするような試みは、誰にとっても百害あって一理なし、極めて危険なことである。この点についてはぼく個人として疑いを抱いたことはない。
 問題は後者だ。これについては、ルービン氏の危機感もわかるものの、ぼくとしてはやはり何らかの規制が必要だと思う。すなわち、ある年齢以下の人間と年長者が性行為をした場合には、たとえ子どもの口から同意の言葉が得られても犯罪になるというように。子どもの証言があてにならないことはよく知られているし、あまりに確実な証言を子どもに求めることは、それ自体が暴力になる。ただし、これは性道徳の観点からではなく、あくまで性犯罪防止の観点から言われなければならない。ルービン氏がこのような意見を批判するとしたら、幼児性愛を皮切りにありとあらゆる逸脱的セクシュアリティを危険だと喧伝し規制しようとする保守派の「ドミノ理論」を持ち出してくるだろうが、しかしぼくには、少しでも性の規制を許したらそれは全ての性の管理統制につながるという危機意識も、裏返しのドミノ理論にすぎないように思えるのだ。
 たしかにある局面では、そのような危機感の煽り方をすることにも意義があるかもしれない。そのような戦略的判断をぼくは否定しない。だが、それでも目指すべき方向だけは見失ってはならない、と思う。それは、性暴力という家父長制的形態や、〈性の商品化〉という資本性的形態に組み込まれたのではないやり方で、さらにはフーコーのいう「セクシュアリテ態勢」からも遁走しつづけるような、〈性の自由〉をどこかに見出すこと。それ以外に何がありうるだろうか。

 今日の日記を書く前に、大島弓子『バナナブレッドのプディング』(選集第7巻)を読んだ。何十回目だろう。「バナナブレッドのプディング」を読まずに、他者とか愛とか言っているやつを、決して信用してはならない。これは経験し得ない経験を生きるための、この上なく苛酷で限りなく優しいレッスンである。 (午前2時1分)