1997年12月11日(木)

 いま、スピッツのミニ・アルバム『オーロラになれなかった人のために』を聴きながら、コンピュータのキーボードを叩いている。午前2時半。時差ボケはもう時差ボケというようなものではなく、ひとつの生活習慣として定着してしまった。この頃はだいたい午前5時頃に寝て、正午すぎに起き出している。いつまでもこうしてはいられないので、なるべく早く直さなければならないのだけれど、早く寝られるようにからだを疲れさせようと思って少し運動(=自転車で家の近所を走りまわった)をしてみても、夕食後に猛烈に眠くなって、結局寝てしまったりして、なかなかうまくいかない。
 でも、家のすぐ近くに、いままで全然気がつかなかったSF/ファンタジー専門書店を見つけたのが、少しうれしい。一目でその筋であることがわかる、可愛らしいディスプレイの店だった。明日か明後日に覗いてみることにしよう。今ほしいのは、デーモン・ナイトの短編集。ネット書店で探してみても、そもそもそんなものは存在していないかのようなのだが、一冊ぐらいはあるはずだ。店の人が知っているかもしれないしね。(ナイトの作品については、いつかここで書きたいです。大野真紀氏の編訳で、『ディオ』という短編集が日本語で読めたはず。これに入っている表題作は、僕にとってのSF短編オールタイム・ベストのベスト3に入ります。「死」の問題を扱った作品はSFには多くて、あのジョン・ブアマンの映画『未来惑星ザルドス』もある意味ではそうなんだけれど、これはそのなかでも最高です。ちなみにベスト3の他の候補は、エドモンド・ハミルトン「フェッセンデンの宇宙」と、あと一つは何かな。)

 スピッツはもう6年ぐらい前、『名前をつけてやる』が出たばかりの頃に、ロッキング・オンのレビューでみて「ふーん」なんて思っていたら、そのころいっしょにバンドをやっていた(というか、やってもらっていた)ドラマーの佐々木絵美さんにテープを借りられて、すぐに好きになった。ファースト・アルバム『スピッツ』も聴いて、ますます好きになった。その頃のかれらはまだ今ほどのメジャーなバンドではなくて、ぼくはなぜなんだろうと思っていた。究極にわかりやすいが下品さのかけらもない、瑞々しくも甘酸っぱいメロディーや、曲を引き立たせるためにあくまで抑え気味ながらも実はなかなかシャープな演奏はもちろん、草野正宗君の声と歌詞は、これはもう世界に前例のない素晴らしいものだった。たとえば、ファーストに入っている、当時シングル・カットもされた「夏の魔物」は、二十歳前後に多くの人が経験する、あのエゴイスティックで激しく傷つけあうような恋愛への追憶を描いた歌として、歴史上最高の作品だと思う。古いアパートのベランダから「僕」を見おろす「君」、風にたなびく白いシーツ、自転車の二人乗りでドブ川をふらふら越えていく、という最初の光景は(まったく無駄な言葉のない、極めてすぐれた描写ではあるとしても)ほとんど四畳半フォークなのだけれど、この曲をたとえば「神田川」なんかから決定的に決定的に隔てているのは、そうした生活とその記憶が何を意味するのかが、語り手によっても枠づけられないままに投げ出されているところだ。サビの歌詞はこんな風なんだ。

   幼いだけの密かな 掟の上で君と見た/夏の魔物に会いたかった
         …………
   殺してしまえばいいとも思ったけれど 君に似た/夏の魔物に会いたかった

 ここには、子どもと大人の境目にあるような人間同士が接し合うときに、必然的にはらまれざるを得ないような危うさ、もっとはっきり言えば関係の「暴力性」みたいなものが、この上なく鋭く結晶化されている。「殺す」という言葉が、本来のきわどさをちゃんと含んだまま使われている。もちろん、殺してしまいそうな暴力性こそが、否定しようもなく実在する「愛」という感情の必須の条件なのだから、セカンド『名前をつけてやる』のラストを飾る名曲「魔女旅に出る」が、限りなく優しく、でもふわりと「軽い」ラヴ・ソングであることは不思議じゃない。旅だってゆくオンナの子を勇気づけ、見送るオトコの子という構図を、おそらくこの歌が発明したのだと思うのだけれど、それ以上に画期的なのは、この歌が(そういう言葉を使わずに)「別れ」という歌謡曲の伝統的な概念をひそかに変造してしまっているところだと思う。

   ほら苺の味に似てるよ/もう迷うこともない/僕は一人いのりながら/旅立つ君を見てるよ
         …………
   ラララ 泣かないで/ラララ 行かなくちゃ/いつでもここにいるからね

 ふつう、別れを織り込んだ歌は、「また会う」か「もう会わない」かが、明示的にであれ仄めかしによってであれ、なにかしら示唆されているものではないだろうか。それによって別れという現実は、たとえ現在形で書かれていても、すでに意味の明確なものとして、終わった視点から振り返られることになる。
 ところが、この曲はそうではない。ここにあるのはそうやってすでに意味を枠づけられ、凡庸な聴き手どもの貧弱な感情の引き出しに見合うようにトリミングされた別れではない。「君」が旅立った後どうなるのか、「僕」は本当に「いつでもここにいる」のか、それは全然わからない。聴き手は、だから、何となくちゅうぶらりんな感じで戸惑うだろう。けれども、そうやって解決されないまま鈍く響き続けるところに、この歌のリアルがあるのだ。
 草野正宗は、そんな優しくも悪意に満ちた、ヒヤリとさせるような曲を書き続けてきた。途中、『CRISPY!』『空の飛び方』は、本来の資質である変態性とポピュラリティをどういうふうに折り合わせるかという実験の過渡的な産物で、ぼくにとっては面白くない作品だが、『ハチミツ』以降はうまくその両者のバランスをとった境地を確立したみたいだ。でも、ぼくとしてはやっぱり、「僕がプレゼントしたハンティングナイフを、きゃしゃな君が握りしめているイメージを、毎日思い浮かべながら過ごしているよ」とか、「骨の髄まで愛してよ、僕に傷ついてよ」とか、「僕のペニス・ケースは人のとは違うけど、どうでもいいさ」とか、草野正宗の変態性が爆発していたかつての作品群の方が好きだなあ。

 小田切明徳、橋本秀雄著『インターセクシュアル(半陰陽者)の叫び』(かもがわ出版)を読んだ。本としての完成度は、正直に言っていまいちだけれど(平易な言葉づかいなんだけれど、日本語としてよくわからないところが多かったり、そうかと思うと医学的説明のところは言葉足らずでわかりにくかったり)、オビにもあるように「インターセクシュアルによるインターセクシュアルのための本」として日本では「はじめて出版」された本であるという価値は、何ものにも代え難い。「半陰陽」ってなんだろう、男でも女でもないって、どういうことだろう、と少しでも疑問のある人は必読。