1997年12月16日(火)

 1993年に『フェミニズム・コレクション』(1〜3、加藤・瀬地山・坂本編著、勁草書房)を編集したとき、ぼくは「日本の女性解放思想」というセクションを担当して、収録論文の選定(一人で決めたわけではないですが)と解題の執筆を担当した。その作業の途上で、山川菊栄が1924年に発表した短い論文「人種的偏見・性的偏見・階級的偏見」(『山川菊栄評論集』岩波文庫)を読んで目を見開かされて以来、山川の仕事をいつかまとめてきちんと読みたいと思いながら、目先の忙しさにかまけてなかなか果たせないできた。

 だが、鈴木裕子『フェミニズムと朝鮮』(明石書店)で山川について簡単に触れられている箇所を読んでいると、いよいよこれは放りっぱなしにしておくことはできないという思いが沸き上がってきた。山川が先の論文を発表した前年、1923年は、関東大震災が起こり、そしてそれがもたらした惨禍のただ中で、数千人の朝鮮人が虐殺された年である。山川も震災によって住居を失ったが、それによって所在不明となったため、甘粕大尉に殺された大杉栄・伊藤野枝たちのような運命をかろうじて免れた。陳腐極まりない表現だが、運命のいたずらとでも言いたくなってしまうような出来事だ。そうした恐怖と混乱の余波のなかで、しかし山川はひるむことなく、朝鮮人の大量虐殺を実行した「無智な封建的労働者」と「社会一般の雰囲気」そして何よりも、朝鮮人が日本人に暴力を振るおうとしているという「流言を流布した者」すなわち軍部を鋭く批判した文章を書くのである。ぼくは関東大震災直後の論壇状況を少し調べたことがあるが、多くの知識人は、この天災にめげずに頑張ろう、程度のことしか言えていなかった。フェミニストのなかでも平塚らいてうなどは、震災後の社会の混乱のなかでなんとか生きていこうとする「浮浪児」の倫理的退廃を非難するようなことしかできなかった、そうした状況のなかでの山川菊栄の冷静な分析眼は、これは本当に凄い。これが本当に「頭がいい」ということなのだと思う。

 山川は、フェミニズムの思想史の中では、1918年に平塚らいてう(および山田わか)vs与謝野晶子という構図で始まった「母性保護論争」に介入し、母性保護vs女子労働者の自立という議論の枠組みを「社会主義」的に止揚した(資本主義下における劣悪な労働条件の変革、保育の協同化等、によって、だったと思うんだけど、細かいところは忘れました)という扱いになっている。平塚らいてうの情緒とひらめき一本やり、与謝野の高らかな個人主義(ぼくは個人的にはこの人は大好きだが)に対して、ちょっと次元が違うと言わざるを得ない高度な理論性を見せつけた人で、とにかく優秀な切れ者というイメージがある。しかし、『フェミニズム・コレクション』の作業以後、ぼくは、この人は今まで(フェミニズムの思想史/理論史の一般的な整理枠組みのなかで)処理されてきたのとはちょっと違う優秀さをもった人なのではないか、と何となく思ってきた。鈴木裕子氏の著作を読んでいて、その思いがもう少し具体化してきた気がする。そして、そのように山川を読み直し、位置づけ直すことは、日本のフェミニズムが思想的に脱皮するために不可欠の自己批判として、非常に重い意味を持つような気がしてきたのだ。

 まだまとまっていないので、直観的なことを少しだけ書くと、まず山川を「社会主義的フェミニスト」なんてレッテル貼りをして分類するのはそろそろやめた方がいいのではないか、ということ。日本だけのことではないが、フェミニズム運動はこれまで、運動および思想としてのアイデンティティを確立しようとして、純粋にジェンダーの問題ではない要素を切り捨てようとする傾向があった。「冠つきフェミニズム」批判、なんていう、論者の知性と感性の絶望的な貧困を示す以外に何の意味もないような主張が、公の場でなされたりしてきた。小倉千加子氏は「性差別以外の差別には興味がない」と言い捨て、船橋邦子氏も男権的な社会主義運動に足を引っ張られた過去の経験に拘泥して、フェミニズムが他の反差別運動と連携していく可能性に目を向けようとはしなかった。そんなことをしているうちに、日本国内には「じゃぱゆきさん」が溢れ、日本の女性運動はたとえば韓国のフェミニストからその閉鎖性を批判されても、生産的な対応をなしえないようなところまで追いつめられてしまった。

 そんな「雰囲気」のなかで、山川菊栄といえば、女性運動と労働運動を折衷しようとした秀才、でもいまいち情熱的な面白みがない理論家、みたいなイメージが作られてしまったのだろう。だが、鈴木氏の的確な記述を借りて言えば、山川は「性差別、民族差別、階級差別を連関的に把握し、統一的視点から反差別のたたかいに取り組むこと」(前掲書56ページ)を理論的に見通し、かつ実践しようとしたのであり、「社会主義的フェミニズム」なんていう、それ自体が折衷主義的な(=理論というものを、状況から切り離して切り張りできるもののようにみなす暗黙の前提に浸された)発想のなかにおさまる人ではないのだ。真に現実を広い視野から、かつ深く把握し分析するならば、そのような「統一的視点」が導き出されるのは必然であって、山川はただそこにまで到達できる優秀な頭脳と知的体力を備えていた、というだけのことだ。それを、各種おとりそえしてありますフェミニズムのいちタイプ、なんていう枠組みに分類して事足れりとするのは、自らの可能性を示す知的遺産を自ら踏みにじっているに等しい。

 とくに若い学生さんに説教したいのですが、日本の第一期フェミニストたちを、埃をかぶった過去の遺物のようにみなすならば、かならずしっぺ返しを受けますよ。山川や平塚ほどにアクチュアルな思想家は、滅多にいない。ぼくはガヤトリ・スピヴァックを四苦八苦して読みながら、ますますそう感じています。(午前4時12分)