1997年12月27日(土)

 今でもあるのかどうか知らないが、少し前に富士通HABITAT(だったっけ?)というヴァーチャル空間が話題になったことがある。ネット上に架空の町があって、そこで参加者は架空の住民として暮らすことができる、という仕掛けだったと思う。
 そのとき僕が考えたのは、そういうヴァーチャル・スペースやシミュレーション・ゲームがどんどん複雑になっていったらどうなるだろう、ということだった。もう少し正確に言うと、それらはどういう方向に発展していくのか、いくことができるのか、という問題だ。

 もっと具体的な問いとしてはこうなる。たとえば『A列車で行こう』みたいなシミュレーションがどんどん複雑化して、ついに「現実」世界と同等の複雑さを獲得するに至ったとしたら、人はそれをやるだろうか? 富士通ハビタットの場合も、ヴァーチャル・スペースの住民が増え、気をつけなければならない事柄がどんどん増えていき、ついに「現実」生活と同等のやっかいな社会になったら、人はそこに住みたいと思うだろうか?

 ここから逆に、人はなぜシミュレーション・ゲームをやるのか、と考える。『ダビスタ』でも『電車でGO』でも、どんなに見かけが違っても、簡単に言えば「現実」では体験できないことを疑似体験できる、ということでは共通している。それらは、疑似体験の興奮を与える程度には、リアルにつくられていなければならない。しかし、本当にどこまでもリアルだったらどうなるだろう? たとえば馬を育て、レースに出したり、売ったりするのに伴う手間が、ほとんど「現実」に行なわれているそうした作業と変わらないまでに複雑になったとしたら。(それでも、ゲームはどこまでも「現実」とは異なる、ということは主張できる。レフェラント(指示対象、この場合は要するに生きている馬たち)が存在しない、という一点で。しかしそのことは、決定的であるとは思えない。)

 要するに、ヴァーチャルなものが、「現実」と同等の複雑さを備えるに至ったとき、人はそれを求めるだろうか?
 ぼくには、どうもそうは思えない。シミュレーション・ゲームが、実人生と同等の複雑さ(=諸要素間の相互制約関係)を持つとき、それはすでにゲームであることをやめているのではないか。これに対して、いわゆる実人生だってしょせんはゲームじゃないか、という反論もあり得るだろう。実際に、「ゲームのようにして」実人生を生きている人もいるかもしれない(ある種の業界の人々)。
 だが、その場合の「ゲーム」とは何なのだろう。「ゲーム」がすでにゲームでやることをやめ、もう一つの複雑な「現実」と化しているときに。「人生はゲームだ」というレトリックは、実は「現実」とヴァーチャルなものとの絶対的な区別に依拠している。「現実」を安定して受け入れられる人間ほど、それをことさらにゲームだとうそぶいて見せたがるだけのことだ。ぼくが言っているのはそんなことじゃなくて、どこにも「ゲーム」が存在しないような世界のことなんだ。

 久しぶりにこんなことを考えたのは、松本大洋『花男』(全3巻、小学館)、『鉄コン筋クリート』(全2巻、小学館)をはじめて通して読んだからかもしれない。今まで、松本大洋の作品では、例の「ドラえもん」に震撼させられてはいたものの、長編はどうもピンとこなかったのだ(『スピリッツ』連載時に『ピンポン』も読んではいたのだが、何だかよくわからなかった)。
 けれども、今度2つの作品を続けて読み通してみて、やっと彼の魅力も弱さも少しわかった気がした。これらは最高に爽快なマンガだが、松本大洋は現代のマンガ家としては、たぶん優しすぎるのだ。よしもとよしとものように嫌な野郎になりきれれば、『鉄コン筋クリート』も本当にハード・ボイルドな作品になっただろう(それにしても、この作品のラスト部分はまるっきりマンガ版『ナウシカ』ですね)。でも、第1巻ではキレた暴力フリークだったはずの木村が、第2巻ではいきなり藤竜也みたいな渋くて優しい良い男になってるし、クロの心の闇も何だかよくわからない。どんなに部隊設定をハードにしてみても、いやそれだからこそ、このほんわか暖かいムードは隠せない。その意味で、『花男』は文句なしの名作だ。これほど淀みなく、運動しながら最後まで突き進むマンガはそうそうあるもんじゃない。いや、いまさらですが。

 ついしん。最近は忙しくて、なかなか更新できませんでしたが、これから数日間は、気軽にいろいろ書いてみたいと思います。読んでくださっている少数精鋭の読者のみなさん、ありがとう。(午後4時50分)