1997年12月28日(日)

 このあいだ自転車で家の近所をうろうろしてみたとき、今まで気がつかなかったSF/ファンタジー/ミステリー専門の本屋を見つけた。その名も、“DARK CARNIVAL”。もちろん、レイ・ブラッドベリの初期の名作にちなんだものだろう。
 ここはもう、外見からして、直ちに「それ系」の本屋であることがわかる。通りに面した入り口のまわりはガラス張りになっていて、店の中がよくみえるのだが、いきなり骸骨やらタロットやらロケットの模型やら、何だかよくわからない置物がでたらめに飾りつけてあって、「こういうところです」とはっきり主張している。ドアを開けて中にはいると、間口の割には奥が深く、2階もあるので、日本のいわゆる駅前の書店よりはかなり大きい。こんな店がいきなり住宅地の中にあるというのが、アメリカの懐の深さなのだなと素直に感心してしまう。

 で、肝心の品揃えもなかなかのもので、30分ぐらいしかいなかったのだけれど、何冊か目にとまったものを買いました。以下はその紹介です。
 まず、James Tiptree,Jr.の、“HER SMOKE ROSE UP FOREVER”と題された短編集(ARKHAM HOUSE刊)。実験心理学者、元CIA研究員にして、70年代SFを圧倒的な水準の作品群でリードし、その後、男性名ながら実は女性だったことでも衝撃を与え、最期は病いに付す夫とともに猟銃で自殺した、孤高のSF作家ティプトリーの、これは代表作を集めた「決定版!」的な本。わりと手抜きな感じのイラストが何枚か添えられている。収録作品は、「エイン博士の最期の飛行」「そして目ざめると、私はこの肌寒い丘にいた」「接続された女」「男たちの知らない女たち」「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」「煙は永遠に立ち昇って」「愛はさだめ、さだめは死」など、有無をいわさないものである。これらのすべては、すでに信頼できる訳者の手によって日本語に訳されているから(早川文庫に数冊入っている)、もしもティプトリーをまだ知らない人がいたら、ぜひ読んでほしい。人間という動物とその社会を徹底して突き放して見ながら、溢れるほどの愛(としか言い様のないもの)がすべての作品をドライブするティプトリーの世界は、ぼくにとっては未だに現代SFの究極のかたちである。特にフェミニズムに関心のある人は、「接続、、、」「男たちの、、、」を読んで泣け!

 お次は、DAMON KNIGHTの本を何冊か。“RULE GOLDEN&DOUBLE MEANING”という中編二つを合わせたらしいペーパーバックと、“LATE KNIGHT EDITION”という短編+エッセイ集(これは限定800部だけが刷られたということで、ぼくのやつには「482」という手書きのナンパリングが入っている。ナイト本人が書いたのだろうか?)、“AUTHOR’S CHOICE MONTHLY”というシリーズもののISSUE21:デーモン・ナイト特集号。これにも短編がいくつか収められている。どれも80年代から90年以降にかけて出版されているが、中の作品はだいたい50年代、60年代のものである。ナイトは今でもちゃんと書いているらしく、最近作の長編はなかなか高い評価を得たようだが、SFではない。
 前にも少し書いたけれど、ナイトの作品のなかで日本語で読めるものは、『ディオ』という短編集にまとめられているものを除けば、他にはいくつかの(現在では入手困難と思われる)アンソロジーにばらばらに収められたものしかない。あとは『SFマガジン』のバックナンバーを探すとかね。ぼくも「アイ・シー・ユー」という代表作は、SFマガジン誌上でしか読んだことがない。これは、あらゆる時点のあらゆる場所をのぞき見することができるスコープが行き渡った未来の、人間と社会の変容を見事に描ききった短編で、未来になっても女の子がお茶を入れたりしている(つまりテクノロジーが社会と人間に及ぼす変容への想像力が足りない)ほとんどの日本SFにはない、クールな質感がたまらない傑作だった。「ディオ」は、今回入手した本のどれにも収められていないようだけど、おそらく「死」の問題を扱ったSFとしては最高傑作のひとつだと思う。細部までは覚えていないのだが、舞台は、「死」と「老い」の観念が情報統制と肉体管理のテクノロジーによって人々の視野から排除された「幸福」な未来世界。そのなかで、主人公ディオだけが、老いを知り、そして自らの死を自覚する。もしもスローガン的にまとめてしまえば、人生は限りがあるからこそ崇高なのだ、という類の話なのだけれど、もちろん本当はそんな要約を許さない奥行きのある作品だ。かつて小松左京は「SFでしか表現できない問題」という意味のことをしばしば言っていたが、「ディオ」は間違いなくその問題提起への具体的な解答のひとつだろう。

 最後の一冊は、EDMOND HAMILTON,“BATTLE FOR THE STARS”(TORQUIL刊)という、’61年に出た古い本。表紙からすると、宇宙もののジュヴナイルのようだが、邦訳はあるのかな。シリーズものではないようだけど。 
  この本の裏表紙の折り返し部分にはハミルトンの写真もついている。まさに、あの「何が火星に?」「世界の外のはたごや」を書いた「憂鬱な予見者」にふさわしい、暗い顔だ。主に20年代から40年代にかけて、波瀾万丈のスペースオペラを量産する傍らで、“宇宙開発の進展に熱狂する民衆のただ中で、荒涼たる火星探査の記憶に苛まれる宇宙飛行士の孤独な内面”(「何が火星に?」)や、“破滅した地球にただひとり残った人間が、新たな生命の進化と繁栄に期待をかけて数億年のコールド・スリープを試みるが、目ざめてみると、その間に再び大繁栄した地球の生命は、再び破滅を迎えていた”(「世界のたそがれに」)とかいった話を密かに(でもないけど)書き続けていた絶望の人、ハミルトン。彼にとっては、すべてはすでに終わっていたのだ。彼もまた、ティプトリーやナイトと同じように、テクノロジーの進歩が決して人間を望ましい方向に変えるわけではないことを知り抜いていた。
 しかし、彼の絶望はもっと深いところ、もっと形状学的な彼の精神の「体質」から発していたように思える。そのことは、代表作「フェッセンデンの宇宙」を読めば明らかだろう。どこかのマッド・サイエンティストが人工的に作ったミニチュア宇宙のなかに生きているのかもしれない「われわれ」を描いたこの古典的名作の不快さは、後のクラーク『幼年期の終わり』のようなヘーゲル的止揚のドラマをまったく含まないだけ、はるかに徹底したものだ。神との闘争を経た、つねにその緊張関係のただ中にある、本物の無神論がそこにはある。それはやはり、日本の庶民的智恵という「故郷」をつねに傍らに置いていた小松左京には、決して書くことができなかった、まさにSFでしかありえない孤独だっただろう。
 小学5年生の時、学校の図書室でたまたま手に取った福島正美編のジュヴナイル・アンソロジーで「フェッセンデンの宇宙」を読んだときから、ハミルトンはぼくにとって特別な作家だった。近い将来、彼についてはもう少し突っ込んで調べてみたいと思っている。(午後2時58分)