1998年1月10日(土)

 きょう、生まれてはじめてクルマというものを買った。中学生の頃はクルマが好きで、毎月『月刊自家用車』や『モーターマガジン』、それからたまに『モーターファン』と『カーグラフィック』を買って読んでいたのだが、家にはクルマなんかなかったし、中学生では自分では買えないし、ほかにも欲しいものはいっぱいあったので、買えないクルマにはだんだん興味が薄れていったのだった。
 大学にいるあいだは学費も稼がなきゃならなかったし、免許をとるために教習所というものに行くのが何だかいやだったし(これは今でも多い意見だと思いますが)、そしてどうも、自家用車というものはエゴイスティックな気がして、自分ではクルマを持とうと思ったことはなかった。免許も持っていないし、日本(というか、東京)にいる間はあまり不便を感じたことがなかった。

 しかし、ここはカリフォルニア。クルマなしでも生活できないことはないけれども、スーパーに買い出しに行くのも一苦労ではかなわない。電車が発達していないので、クルマがないとほんとに決まった場所にしか行けない。バスはあるが、遠出はしにくいのだ。
 そういう事情と、まあどうせならアメリカにいる間に免許をとった方が安上がりなので(ぼくは知人に運転を教わっているので、ほとんどお金はかからない。それで十分いけるはずだ)、滞在も残り数ヶ月となった今、あえてクルマを買ったのです。アメリカでは自分の車に乗っていって(学科試験を受け手、仮免をとっておく必要はある)、それで路上試験になるので、クルマを買うことが免許に先行するわけです。

 買った車種はTOYOTAの’89年製カムリ。アメリカでは最も売れている車種なので、帰国するときも売りやすい。それに運転を教えてくだっさっている知人の乗っている車種と同じなので、素人としては安心感がある。これを日本人から個人売買で買った。大阪生まれの知人に一緒に行ってもらって、ふたりで何のかんの言って値切ったので、なかなか良い値段で買えた。相手の人には少し悪かったけど、IBM勤務の高給取り(確かめたわけではないが)の人なのでまあいいだろう。
 とは言っても、まだ仮免さえない僕には、このカムリを運転することはできないのだった。でも路上で駐車位置は直しちゃったけど。

 論文集の直しも大詰め。気がついた点をあちこち直していたら、思ったよりずっと手間取ってしまった。いまは、Gayatri Spivak,Outside in the Teaching Machine (Routledge,1993)を繰り返し拾い読みしながら、何年か前に書いた論文ではうまく言えていなかったことを、スピヴァックの暴力的なまでに繊細な記述を読み解く作業を媒介にして、少しずつバージョン・アップしている。前にも書いたけれど、スピヴァックによって利用されたディコンストラクションは、僕が知らず知らず陥りがちな、「あるべき理想郷に向かう単線的弁証法」っぽい思考パターンをきびしく解体してくれる。たとえば、抵抗運動の主体が「女」という名を用いることの必然性を全面的に肯定し、それに本質主義というレッテルを貼れば批判できると思っている理論家たちの浅はかさを攻撃しながら、しかし女たちの「団結」といった細やかな差異を見逃しがちなスローガンにも距離をとり、「女」の内部の絶対的な分割を決して忘れないようにしようと呼びかける。もちろんそれは矛盾だが、現実のなかでは解消することができない必然的な矛盾である。なぜなら女たちの分割を言うためには、前提として「女」という名が必要であり、またそれがどこまで行っても一義的な安定した指示対象を持ち得ないという認識があってこそ、「女」という名は、先進国の理論家をとりまく状況とは異なる場で闘う女たちにとっての足場になるのだから。

 こんな要約では何のことやらわからなくて当然だと思う。だけどいいわけをするなら、スピヴァックの論文はどれも極めて「試論的」と表されたりしているように、とても要領よく整理されたものとはいえない。どの論文にも同じようなことが繰り返し、しかし少しずつ言い方を変えて出てくるし、文脈も一読しただけではとりにくい。何よりも、英語圏のものもヨーロッパのものも、膨大な哲学史的知識をさりげなく駆使して論じられる内容のレベルが高いので、そう簡単には核心がつかめない。しかし、その文章の呼吸に惹きつけられて苦労して繰り返し読んでいると、だんだん話が見えてきて、それは実際新たな視界が開けるような開放感があるのだ。

 スピヴァックはある問題を解決することは少なく、解決し得ないということと、どうしてそうなのかということを言っていく、ということが多いように思うのだけれど、そう書くとどっちつかずに見えてしまうその文章が、なんとも逆説的に、最も「実践的」に有益な示唆を与えてくれているように思えるのだ。
 僕の本の中でも、少しだけ彼女の議論に触れているが、できれば上の著書を全訳して出版したいものだなあ。彼女の以前の本は2冊邦訳されているが、どちらも訳が悪いことで定評があるし、論文もぱらぱらと訳されているけれど、『現代思想』とかにしか載らないので、いまいち広くは読まれていない。しかし彼女の仕事が届けられなければならないのは、大学生や大学院生ばかりではないと思うんだ。ああ、もっと英語ができれば、、、。

 ところで、今後1週間ぐらいは更新できません。少数精鋭の読者のみなさま、ごめんなさい。また下旬にお会いしましょう。f(^^;) (午前2時14分)