1998年1月18日(日)

 再開。再会。ちょっと事情があって、一週間ほど日本に行ってきた。着いた日の夜に泊まったホテルの部屋で、久しぶりに『SMAP・SMAP』のスペシャルを観た。ぼくは何を隠そう、スマップの大ファンで、かれらの出る番組はなるべく観るように心がけている。全部はとても無理だけど。
 スマップの良さはいろいろな角度から挙げることができる。まず、もちろん、美しいこと。これは見ればわかる、いうまでもないことなんだけど、いやあ美しいってやっぱりいいもんですね、といつもしみじみしてしまう。特に「セロリ」をギター弾きながら歌ってるときのキムタクは素晴らしい。
 それから、これは番組にもよるが、面白いこと。そりゃあダウンタウンのようなわけにはいかないが、コントをやっても猿岩石とかとは比べものにならないおかしみがあるし、中居君がミニスカの女の子を見ながらいきなりしゃぶしゃぶを食うまねをして盛り上げるという余裕感もいい(註・中居君はノーパンしゃぶしゃぶで働いている女性と週刊誌ネタになって、テレビで釈明した)。
 だけど、この面白さはもっと微妙なものなのだ。たとえばV6とか河村隆一とかだと、「ガキがちゃらちゃらしやがって」というオヤジ心がオレの心にむくむく沸き上がってしまうんだけど、スマップではそういうことが一切ないのだ(Kinki Kidsも、わりといい感じだけど、スマップほどにはキャラが立ってないし、SPEEDはたいへんよろしいけれど、まだちょっと芸が足りない)。なんか、さわやかなのだ。文体がなんだか妙になってしまうぐらい、それが不思議なところだ。たぶん、自分のやってること、芸能界における自分たちの地位、女の子に追いかけられること、そういったもろもろの状況との距離の取り方がいいのかな。だからといって熱くなってないわけではないし、明らかにいちばん弱いメンバーだった草薙君を他のメンバーがもり立ててきた風情もいい。
 とまあ要するに、たいへん美しいルックスの人たちが、けっこう面白くて、なかなかいいやつだったりするのだから、観ていて心地よいに決まっているのだが、そうしたバランスのよさの裏面としてそこはかとなくただよう疲労感、虚無感、どこかこれ以上のところへは行けないとあらかじめわかっている(意識しているというのではない)世界のなかにいることの決定的な「弱さ」の感覚が、かれらの存在に奥行きのある陰影を与えていて、それが魅力の核心になっているのかもしれない。僕はほとんど共産党無謬説ならぬ「スマップ無謬説」論者になりつつある、今日この頃です。

 大学時代から大学院の修士時代にかけて、たいへん切れ者のアルチュセーリアンが身近にいた影響で、僕はずっとルイ・アルチュセールという人に関心を持ってきた。「矛盾と重層的決定」をはじめとして邦訳されている論文はだいたい読んだが、僕にとってはたいへん難解なものばかりだからきちんと消化できた気はまったくしないし、『資本論を読む』(ちくま文庫)はとてもじゃないが読みこなせなかった。それでも、いわゆる「理論と実践」の問題をめぐっては、毛沢東以後、アルチュセール以上に決定的なことを言っている人は誰もいない気がしているし、あのいつまでたっても良くわからない「構造的因果性」の概念にしても、フーコーを提灯代わりに掲げながらその実やっていることは超旧式の実証主義そのまんまというアホども(とくに「セクシュアリティの歴史」なんかをやってる連中に多い)がはびこる最近の日本では、繰り返し見直す必要がある。(ちなみに、「構造的因果性」とはごく大ざっぱに言えば、「構造がその効果の産物である」という「矛盾」を概念化したもので、精神分析から本質的な発想を得ているので、その筋の本が参考になる。たとえば、ジェーン・ギャロップ『ラカンを読む』(岩波書店)なんかは、とっつきやすいけど、決してレベルは低くない。)
 いまは彼が晩年に書いた自伝が読みたいのだけど、なかなかまとまった時間がとれないので、代わりに対談・書簡・講演を集めた『哲学について』(今村仁司訳、筑摩書房)を読んだ。『批評空間』U―5,6号に翻訳紹介された草稿「唯物論のユニークな伝統」ともあわせて僕がその内容をちゃんと理解できるのはかなり先の話になると思うので、理論的な内容については今回は書かないでおこう。僕が感動したのは、アルチュセールの人柄(それは絶対に思惟の内容と切り離すことはできない)をうかがわせるような部分だ。もともと、彼がたいへん魅力的な人物であったことは、まだ大きな著作のないうちから彼のまわりに優秀な学生たちが集っていたことなどから察せられることだった。以前、『ニュース・ステーション』のコメンテーターをやっていた和田さんという朝日の編集委員が、フランスに赴任していた時代、アルチュセールをたずねてインタビューしたときのことを短いエッセイに書いていたが、社会主義国家の現状にかんする素朴で厳しい質問に誠実に答える姿、帰り際、和田さんのコートを肩にかけてくれる仕草、そうした優しい物腰ににじみでるものなどからも、この人はどういう人なのだろうという興味は深まった。
 今度の本にも印象的な箇所はたくさんあるが、僕がほとんど胸をつかれるように感じたのは、対談相手のメキシコ人女性、フェルナンダ・ナヴァロが序に当たる部分にかきとめた、次のような証言だ。

 いまの僕は、この証言をフェイクではなく、まったく本当のことだと信じることができる。アルチュセールの仕事のたぐいまれな抽象性、言語における論理の極限をずっとたどっていくようなあの緊張感は、できあいの概念や諸前提のうえで素朴にはしゃいでいる実証研究という名の好事家趣味とは1000億光年も離れて、真に「現実」を見据えたものなのだろうと、ささやかな、けれども苛酷な予感に精神が震える気がする。
 そんな彼が、たぶん実践的にも理論的にも「敗北」したように見えるのは当然のことだ。そうでしかありえないだろう。けれどもそれは、アルチュセールが、勝ち目のない場所で、しかし闘ったこと、そしてそれが伊達や酔狂ではなく「必然」であった、そうでしかありえなかったということからすれば、ほとんどどうでもいいことだ。アルチュセールが生涯を賭けた哲学としての唯物論と社会構想としてのアソシアシオンという二つの理念をないがしろにするなら、すべては考えるに値しなくなってしまうのだから。

 デジカメを買ったので、さっそく『哲学について』の表紙をとってみました。まだ下手だなあ。(午後11時28分)