1998年1月20日(火)

 今日から新学期(Spring Semester)が始まった。ジュディス・バトラー先生の学部生向け「レトリック理論」講義は、100人くらいが定員の中教室で座り見も出る盛況ぶり。ルソー『言語起源論』、ニーチェ『この人を見よ』、あとハナ・アレントを読んでいくようだ。先学期は自分の仕事で手一杯で、講義はただ聴いているだけだったけど、今学期はアサインメントもできる限りちゃんと読んでから出席したいものだ。

 『言語起源論』は読んでいないが、ルソーでは『人間不平等起源論』(岩波文庫)が抜群に面白かった。とくに、オランウータンは今のところ猿だと思われているがそれはわれわれがかれらとのコミュニケーション法を知らないだけで、将来は彼らも人間の一員だということがわかるかもしれない、などというところには、さすが!天才!をいう感じがしたな。議論の進め方も無駄がなく、小気味いい。それに比べると、『エミール』(岩波文庫)は冗長だし、どこがいいのかわからなかった。
 ニーチェも『この人を見よ』は読んでいない。大学生の頃に『ツァラストラかく語りき』(岩波文庫)を読んで強い印象を持ち、その後も『道徳の系譜』(岩波文庫)の読書会をやったりしたが、読みふけるというところまではいかなかった。ニーチェから本当に衝撃を受けられるのは、前提として、キリスト教が内臓にまで染みている人だけじゃないのだろうか。そういうわけでもないのに、なんか元気にニーチェを持ち上げている「体育会系頭脳」の人たちは、どうも信用できない気がする。そうした漠たる疑念は、永井均『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)を読んで、いっそう深まった。永井さんが示唆しているように、もはやキリスト教という一宗教ではないほどまでに精神の見えない囲いと化した、西欧におけるキリスト教への、その内側からの対決がニーチェのすべてだとすれば、それを、たとえば僕という文字通りのキリスト教とは縁の薄い日本人が無媒介にかつぎまわっても仕方がない気がする。もっとも永井さんは、「見えないキリスト教」というかたちで、日本人にとってさえ、それはすでに精神(というか道徳)の条件そのものになってしまっている、と論じるのだが、本当かな。「見えないキリスト教」による世界の覆いは、まったく外部を許さないまでに、すでに完璧になっているだろうか。僕は案外、それはもろい幻想なのではないか、という気もしなくもない。永井さんは、実はニーチェの側から、倒錯的にキリスト教を大きく描きすぎている、という可能性がなくもない、と僕は思っている。まあいまの段階では単なる直観にすぎないのだけれど。
 しかし、小柄で「中年の妖精」っぽいジュディスさんが、プロレスラーのような大男の学生を見上げながら、質問に答えている図はなんだか笑えます。

 日本でCDを何枚か買ってきた。なかでは、奥田民夫『FAILBOX』がずば抜けて良い。いい音楽の条件とは、新しい感情を創造するものであるということだ。悲しいとかうれしいとかで片づけられるものは、たいした曲ではない。たとえばビートルズの曲が喚起する感情は、ビートルズ以前には存在しなかったものなのだ。本当はそれは当然のことで、感情も歴史的なものなのだから、その時点ごとに創造されることをまっている感情は、決して同じではない。それに耐えられず、僕らの感情を古い鋳型にはめるべく襲いかかってくるのが、反動的な音楽というものだ。たとえば演歌のほとんどはそうだ。ロックと称するものも、いまはたいてい、そうなってしまっているし、どの時代においても、多くの音楽はそんなものだろう。しかし、奥田民夫は確かに新しい感情を創造してきた。それは、奥田民夫のレコード(あるいはライブ)を聴く以外の場所では、決して遭遇することのないものである。僕は桑田圭介が好きだが、残念ながら彼はそこまで行っていない。スピッツの草野正宗くんは一瞬そうした未知の地平を確かにかいま見せてくれたけれど、少しそれ自体が枠組みになりはじめている気がする。それに対して奥田民夫は、PUFFYも含めて、一作ごとにほんの少しずつ、確実にいままで存在しなかったものを聴かせてくれていると思う。すごい。
 ほかには、ソウルシャリスト・エスケイプこと中川敬氏のソロ・シングル『短距離走者の孤独/おんぼろの夜明け』が、ニューエスト・モデル後期のような感じで、なかなか良かった。コーネリアス『ファンタズマ』は、まえのやつ(『69/96』)の方が好きだな。そして何よりぶっ飛んだのが、ザ・フォーク・クルセイダーズ『紀元貳阡年』。かれらの曲をアルバムで聴いたのははじめてだが(いくつかの曲は、子どものころからずっと大好きだったが)、いやあすごい。こんなものをすでに68年以前に作っていたのに、どうして僕らは「日本のロックはダサイ」などと信じ込まされていたのだろう。サディスティック・ミカ・バンドの『黒船』は、僕としては「ふむふむ、よく出来とるなあ」という関心の仕方だったのだが、フォーク・クルセイダーズは実際モニュメンタルな傑作である。加藤和彦もとんでもない美少年だし。曲調やアレンジは変幻自在。才能とは自由のことだ、と久々に痛感した。いまはなん だかよくわからない趣味人になってしまっている加藤和彦は、やっぱり掛け値なしの天才だったのだあ。(午後8時22分)

おまけ。「自由主義史観」ネタです。どうでもいいけど、いやな話だな。