1998年1月22日(木)

 『現代思想』1997年12月号(特集 「女」とは誰か)はなかなか面白い。多くの論文、インタビュー等が載っているが、ピカイチは岡真理「Message in a Rolling Pumpkin――応答するということについて」。イスラエル勢力に爆殺されたパレスチナの作家ガッサーン・カナファニーの作品を素材にして、「小説」を「手紙」と同じように、本来的に誰かに宛てられたメッセージとしてとらえるところから、それが宛先とは別の人間によって読まれること、すなわち「誤配」されること、そしてそのように誤配されたメッセージを受けとることによって読者の側に生じる「負債」は、かれ(ら)がメッセージの要求に応じて行動することによってしか返済されないこと、という複雑に折れ曲がった一連の関係について論じている。そこに、小説における作者=主体と記述された対象との関係の問題が重ねられ、さらに最後は映像作品『ナヌムの家2』へのオマージュで締めくくられる。

 岡さんの議論は主として植民地と階級の軸に沿って展開されているが、ジェンダーの軸についても適用することができるだろう。男性のジェンダーを与えられながら、本来は男に対して呼びかけられたものではないフェミニズムのメッセージを受け止めてあれこれものを考えてきた僕は、まさにフェミニズムを「誤配」された者として生きているということになる。そこであっさり懺悔してすませることは、むしろ負債(この場合は性差別への責任の一端、ということ)をなかったことにしてしまうと岡さんは言う。書くということ、読むということにまつわる責任の問題を、最近、これほどまでに突き詰めて考えている人は少ないだろう。そしてそれが同時に、具体的な文脈(国際的な経済・政治・文化的支配-被支配関係)におけるポスト・コロニアル批評の実践と重なっているところが重要である。

 ただ、彼女の論調は、僕にはいつも少しばかり重苦しく感じられてしまうことも告白しなければならない。たとえば上の論文の次のような一節には、レヴィナスのエキセントリックな倫理学の残響、あるいはそれ以上の、ほとんど過剰なまでの誠実さがみなぎっていて、読む者を圧迫する。

 もちろん、その通りなのだ。そしてここで僕が感じてしまう重苦しさは、僕が他者の苦しみとそれに対する自分自身の責任から目を背けようとしているからだ、というのも、まったくその通りだ。また、同じ号に載っているサラ・スレーリさんへのインタビュー(これもまた文章自体としてたいへん面白い)にも出てくるが、日本のフェミニズムが自らの帝国主義的な差別性に無自覚だったという、岡さんがあちこちで繰り返している批判も完全に正しい。
 けれども、それは字面だけなら「フェミニズムなんてだめだ」ということにしか読めないことがあるし、あまりにも正しい彼女の「正義」は、意味内容の正しさとはまったく別の次元で、どうしても僕を息苦しくさせてしまう。それが、僕個人の特殊な問題で、僕だけが不誠実でだめな読者、ということで一喝されれば片がつくようなことにすぎないのなら、むしろ望ましいことなのだが。

 けれども、同じ方向へ進むにも、たとえば日本のフェミニズムが内包してきた、不十分ながら潜在的な可能性を積極的に引き出す、というやり方で論じていくことはできないのだろうか、と思ってしまう。たとえば上野千鶴子さんが繰り返し「フェミニズムは限定された一つの視角にすぎない」ことを強調してきたことを看過するのは議論の姿勢として不当だと思う。岡さんはスレーリへのインタビューで「主流フェミニズム」と揶揄的に言っているが、しかしあえてフェミニズムの当事者を装って反論するなら、そういう十把ひとからげではなく、論者の個人名を挙げてきちんと批判して欲しいと思う(実際に、性差別以外はどうでもいい、ということを言うフェミニストはいた/いるわけで、ちゃんとそういう議論そのものへの的を絞った批判にしてほしい)。また、そもそも日本では未だ社会に根付いてもいないマイノリティの思想であるフェミニズムについて、その内部で主流とか周縁とかいってみせたって仕方がないのではないか。それは古色蒼然たるセクト争い的な発想なのではないか。

 とはいえ、僕の言いたいことを誤解しないでほしい。日本のフェミニズムが、かつての山川菊栄や上野らの視野の広い問題提起を、十分に発展させてこられなかったことは、個々人の誠実さや努力を超えた運動総体の問題として、当然批判されてしかるべきだし、僕もそういうことを書いてきた。ただ僕はそれを、フェミニズムの内部から見れば外部(的)だが、外部(性差別的社会)から見ればフェミニズムの自己批判として見えるような場所でやりたいし、やるべきだと思っているのである。つまり重層的な(長期的な)意味で、フェミニズムのために、日本のフェミニズムがもっとふくらみのあるものに脱皮してゆくために貢献したいのである。だからジェンダーというフェミニズムの核心的な課題とは別の観点から、丸ごと切って捨てるような批判はしたくないし、できない。それは岡さんも同じだとは思うのだけれど。

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 ゆうべ、眠れなくて何気なく萩尾望都『スター・レッド』を読み出したら、何十回目かの再読なのに、面白くて止まらなくなり、つい最後まで読んでしまった(以下、ストーリーをばらしますので、未読の人はご注意を)。数年前に読んでいたときは、深みのある抜群のエンターテインメントという感じだったが、今回はほとんどポスト・コロニアル文学として読めたので驚いた。考えてみればわかりきったことなんだけどね。なにしろ、かつて地球の植民地でありながら、やがて地球人とは異質な火星人の故郷として独立した火星の覇権をめぐる、一大叙事詩なのだから。主人公の少女が、地球で育ちながら火星を恋いこがれるという、周縁的存在であるのもぴったりはまっている。彼女は火星を再び植民地化しようとする地球勢力と、地球人たちを皆殺しにして追い出そうとする火星人たちの狭間で、命の危険にさらされながら迷うのである。ただ、最終的には、異形の生命としての火星人たちのサイコ・パワーによって火星が破壊されるという決着になっているので、その問題が物語のなかできちんと解決されたとは言えない。ただ萩尾望都には、異形であるために流浪を宿命づけられたものへのロマンティックな憧憬があって、あえて火星をぶっ壊して主人公を流浪の民にしたような気もするのだけれど。そのおかげで、いかにも続編が書けそうなエンディングになっているのだが、書かれていないなあ。僕が知らないだけなのかな。
 ともあれ、「自分と同じ超能力の持ち主を数千年の孤独に耐えながら探し続けてきた」エルグが、まさにその希望をかなえる少女・レッド星(セイ)に出会いながら、引き裂かれて生命なき星に封印され、再び永遠の孤独を生きてゆく、という第3巻(小学館フラワー・コミックス版160頁以下)のあのシーンは、何百回読んでも感動します。(午後7時54分)