1998年2月28日(水)

 忙しくて、なかなか更新できません。せっかく覗いてみてくださっているみなさん、ごめんなさい。この日記は、あまり力まず、趣味や必要で読んだ本からの走り書きメモみたいな感じでやっていこうと思っているのですが、論文を書きながら文献を参照していると、本を一冊まるごと読むということがどうしても少なくなってしまうんで、ご紹介しにくくなってしまうんですう。(; _ ;)

 ……とはいえ、いちおう「日記」と銘打っているページを、一週間以上もほったらかしているのはちょっとまずいし、読者に失礼だ。というわけで、読みかけの論文についてですが、書くことにします。

 さっき読み始めた論文は、スティーヴン・ヒース「男のフェミニズム」(Stepen Heath. "Male Feminism." Jardine, Alice. & Smith, Paul. (eds.) Men in Feminism. Methuen. 1987)。前にも読んだことがあるが、今回、書いている途中の文章と関係があって、読み直している。大ざっぱに言うと、「男は決してフェミニズムの主体にはなれないし、なれるような振りをすべきではない。フェミニズムはあくまで女たちのものだ。しかしそれは、男はフェミニズムとは無関係でいいということを意味しない。男もフェミニズムから学べるし、そうしなければならないが、しかしあくまでもその主体ではない、不安定な地位を余儀なくされるということなのだ」という主張を、著者の専門である精神分析批判の素材も織り込みながら展開している。男とフェミニズムとの関係ということでは、僕はこの精細な文章に付け加えるべきことをほとんど持たない。

 こういう作品がすでに1986年に書かれていながら、どうして日本では、「フェミニズムは女だけのものではない、男を敵視することをやめて、誰でも参加できる人権思想へと脱皮すべきだ」などともっともらしく声を挙げる男がいた(いる)のだろう。もちろんフェミニズムは普遍的な質を内包しているが、それはあくまで潜在的なものとしてであり、フェミニズムがその固有性を捨ててまるごと普遍的人権主義に解消されてしまうということとは別である。このことは、フェミニズムのみならず、およそまともに考慮するに足るすべての「抵抗の思想」に当てはまることだ。そうでなければ、どうしてフランツ・ファノンは、黒人の固有性にこだわるネグリチュードと、サルトルが横殴りに持ち出してきた普遍主義への脱皮というビジョンとのあいだで、あれほどの緊張した思考を強いられなければならなかったのだろう。この緊張を失ってしまえば、考えるべきことなんて何もない。すべての現存する思想は未熟なのであり、より普遍的な次元での一致へ至る過渡的段階である、ということになってしまって、眼前の現実すなわち固有の歴史状況ととりくむ必要なんてなくなるからだ。

 しかも、たとえば江原由美子が「もうフェミニズムを女だけのものにしておくのはやめよう」(江原由美子『装置としての性支配』勁草書房、だったかな?)と言ったのはもっともだし、そのように言うとき必然的に自己批判を経なければならない江原氏の苦渋も伝わってくるから、発言に重みがある。しかし、別に当事者としてフェミニズムを担って傷ついてきたわけでもない(それは不可能だ)男がそれをいっちゃいけないよ。発言者のポジションと、発言の内容(意味)とは切り離せない。なぜなら、ある言葉の意味とは、究極的には、社会という場における、その介入の効果でしかありえないのだから。フェミニズムについてだって、「やっぱり男の書いたものはよくわかる」とか、同じことだけど「ルサンチマンがなくて冷静だから、女の書いたフェミニズム本より生産的だ」とか言われてしまうことは十分あり得るし、実際にその類の言説はありふれているではないか。
 どこかで柄谷行人が、正しいことでもそれを言っちゃいけない立場というものがある、みたいなことを冗談半分で言っていて、「罪を憎んで人を憎まず、と被害者の遺族に書き送った死刑囚」の例を持ち出していたけど、倫理的に言えばそういうことかな。

 もちろんヒースは、本当はさっきの要約なんかには収まらない、もっと示唆的な議論を展開している。ひとつ印象に残ったのは、彼に対してロラン・バルトが、「君は自分が欲望しているものを研究しているのか、それとも恐れているものを研究しているのか」と問うたというエピソード。ヒースはフェミニズムの専門家ではないが(ぼくだって本当はちがうのだ)、フェミニズムについて、またそれにかかわる様々なテーマについて書いてきた。それでは、自分にとってフェミニズムは欲望の対象なのか、それとも恐怖の対象なのか? それとも二つは同じことなのか。これはいかにもこじゃれた精神分析理論っぽさも漂う議論だが、他方でヒースは、何でもかんでもファルスと去勢を持ち出さないと気がすまないラカン派に対してもたいへん地に足の着いた批判を繰り広げていて、たんなる軽薄な現代思想屋さんではないことがわかる。

 ところで、この「男のフェミニズム」は数年前に『現代思想』に翻訳されたことがあったのだけど、その当時の僕の英語力でもあきれるほどに、ひどい訳だった。訳者は英文学専攻の院生みたいだったけど、その後、名前をあまり見ないのでよくわからない。なにせ、「ポルノグラフィーは理論であり、強姦は[その]実践である」(Pornography is the theory and rape the practice)という、ロビン・モーガンによるポルノグラフィー批判の超有名なマニフェストを、「ポルノは理論であり、実践を陵辱する」と訳してるんだもん。"rape"を動詞にとったって、三単現の"s"がないじゃないか。これは単に象徴的な箇所であって、その翻訳はほんとに間違いだらけだったけどね。こういうのは語学力もさることながら、「不誠実」という非難がまさに当てはまる例だろう。当時、僕は怒って『現代思想』を出している青土社に抗議のハガキを送ったものだ。

 ただ当時は、ヒースの文章はとんでもない悪文だと評する英文学者なんかもいて、自分で読んでも確かに難しいし、仕方のない面もあるのかな、なんて思っていた。しかし、今回読み直してみると、確かにクセのある文章だけど、そんなに難しくない。ちゃんと論文の論理的な筋が追えていれば、そんなに誤訳だらけにはなりようがない、ということがわかった。やっぱりあの翻訳に容赦する必要などなかったのだ。げにおそろしきは、不誠実で無能な訳者による翻訳なり。稲葉振一郎氏の掲示板にも前に書いたけれど、デビッド・ハルプリン『同性愛の百年間』、レオ・ベルサーニ『ホモセクシュアルとは』(どちらも法政大学出版局!)とか、セクシュアリティものには訳に問題のあるものが多すぎる。フェミニズムも、昔からそうだった。ジュリエット・ミッチェル『精神分析と女の解放』なんて、邦訳で読んでいたら何がなんだかほとんどわからなかった。どれもこれも、訳者の無能以上に、なんの必然性もない人がいいかげんに頼まれ仕事でやるから、そういうことになるのだ、という典型例ばかりである。訳者は、どういう事情であれ仕事を引き受けた以上、自分が紹介する本に最低限の愛情と敬意を払って、翻訳にとりくんでほしいよね。(午後11時52分)