1998年2月3日(火)

 先週の木曜日あたりからアパートの暖房が故障したままで、寒くてしかたがない。昼間はオフィスにいるからいいのだが、夜はたまらない。備え付けのオーブンの蓋を全開にして、火を入れて、にわか暖房器具にしているが、台所以外は暖かくならないので、他の部屋から椅子だけ動かして、口を開けたオーブンの前に腰掛けて時間を過ごしている。

 今日はガス会社の人がやってきて、修理してくれるはずだったのだが、おとといから昨日いっぱい降り続いた激しい雨のせいで地下室が浸水し、人が入れなくなってしまった。バークレイは大きな川がないので大丈夫だが、ここから車で一、二時間離れたサン・マテオやサンタ・クルーズというところでは、この冬何度目かの洪水のようだ。まったくついてない。しかも今日は、なぜだかお湯まで出なくなってしまって、だんだん世界からエネルギーが失われていくような錯覚に陥ってしまいそうだ。でも、そういう瞬間に奇妙なのは、自分のなかで「世界」がいつのまにか「アメリカ」と外延を等しくするようにイメージされてしまっていることだ。アメリカ人は他の国のことをまるで知らない(学校の勉強の範囲でも、世界地理が苦手)という定評があるのだが、だんだんそれが実感としてわかってきた。アメリカの各州(states)は文字通りステート、すなわちひとつひとつが「国家」であり、その国家が集まったアメリカ合衆国とは、国というよりも「世界」なのである。ヨーロッパだのアジアだのは、「外国」ではなくて「別世界」のように、アメリカに行き着いた人々には観念されているのではないか。

 それはともかく、北カリフォルニアは寒い。確かに夏は毎日快晴が続くが、Tシャツ一枚では肌寒い日も多い(もっともアメリカ人には、真冬でもTシャツ一枚で、背中が出ていても平気な人はいっぱいいるけど)。いっさいの水分が存在しないかのようだったロサンゼルスの夏とはまったく質の違う気候だ。だからこのあたりの土地は、どことなく暗く、静かで、寂しい感じがする。いつも夜のUCバークレイの構内に鳴り響いているアフリカン・ドラムのビートも、陽気というよりは、なんとなく虚ろに聞こえる。
 バークレイに惚れ込んで日本から移り住んだ、という人がときどきいるが、僕にとってはバークレイの町の魅力は、そうした人たちが語る自由な雰囲気とか明るい青空とかいうことよりも(それらも決して嘘ではないのだが)、このひっそりと沈んだ印象であるようだ。

 先週の木曜日といえば、アラバマ州バーミングハムで、妊娠中絶を行なっていたクリニックがまたしても狂信者グループ(たぶん、あのオペレーション・レスキュー?)に爆破され、医師が一人殺され、看護婦も一人重傷を負った。昨日は米軍機がイタリアで低空飛行中、誤ってロープウエイのケーブルを切断し、ゴンドラが落ちて20人が死んだという。後者はネット上の『朝日新聞』(アサヒ・コム)で知った。前者は最初CNNのラジオで聞き、後でTVのニュースでも見た。だがそれほどの大ニュースになっているわけではない。日本では、「バタフライ・ナイフ」を規制する必要があるとか言い出されているようだが、そのうち、中学生が他人を刺し殺しても、それほどみんな驚かなくなるのだろうか。それともすでにそうなっているのだろうか。

 今日はJudith Butler先生の学部向け「レトリック理論」講義の日で、引き続きルソーの『言語起源論』を読んでいる(もちろん英語版、On the Origin of Language. The University of Chicago Press. ヘルダーの同名論文と合本になっている)。まだ最初の3つの章を細かく読んでいるところだが、これも『人間不平等起源論』なみに面白い。ここでの面白いというのは、シンプルな行論のなかに、神話的な豊かさを秘めている、というほどの意味だ。

 ルソーによれば、最初の言語は体系的・理性的なものではなく、生的(vital)で形象的(figurative)なものであり、それは意思伝達の必要などではなく、人間が自分以外のものに出会ったときの感情(feeling)や情動(passion)から生まれたものである。ルソーはこのことを説明するために、まだ言語を持たない原始人を仮構し(それが歴史的実在ではなく、理論的仮構であることをJudithさんは学生たちに執拗に繰り返し強調していた)、かれが見知らぬ他の種族に出会ったときの驚きの印象から言語が始まる、という光景を描いている。相手は非常に大きかったので、原始人氏はそれをGiantと名付ける。やがて、同じ種族だが最初に出会った相手ほど大きくない別の個体を見るという経験を重ねると、記述が分節化されて、相手をManと呼ぶようになり、特に大きいものだけをGiantと呼ぶように、意味の再配置が起きる。
 このように、最初の言語はある指示対象にたいする名づけであり、その意味で対象の置き換えsubstitutionである。形象的figurativeであるとはそのような意味だ。そこからやがて、指示対象の置き換えから自立した言語らしい(literal)言語が形成されてゆく。
 
 言うまでもなく、こうした「まず名づけありき」という発想は、言語的の起源にすでに言語的に分節化ているはずの指示対象をおいているという意味で倒錯しており、それがソシュールの生涯をかけた批判の要点となったわけだ。ただ、それを、「ルソーは自己矛盾している」というようにあげつらっても仕方がない。むしろそうした論理の循環を、言語のなかで言語の起源を考えるという試みが必然的に陥らざるを得ない循環ととらえることが必要だろう。こう書くと簡単そうだが、実はそうではないのではない。たとえば丸山圭三郎は、ソシュールの引いた線上で、歴史的な端緒ととりちがえられることのない、システムとしての言語そのものの内在的な構成因をつきつめてとらえようとしたはずだが、言語の内部で言語をとりあつかうというこの不可避でしかも現実的な矛盾によって発狂することを恐れたのか、結局は未だ言語的に分節されない流れ云々みたいなことしか言えなかった。それだったら、言語以前にまず情動があったというルソーの考えとどれほども違いはしない。それさえも言語によって言えてしまう、ということが真の謎なのに。
 だから丸山の言語理論は間違っている、とか言いたいわけではない。もし間違いがあるとしたら、彼がルソーの見いだしたような循環を「言語名称説」という間違った理論とみなし、乗り越え可能な立論と考えたことだろう。だがルソーがたぶん自分でも気づかないうちに切り開いてしまった視界そのものが、もはや言語についてルソーのように素朴に語ることを禁止している、そのような空間の内部で、それを乗り越えるなんてことができるだろうか。

 いやあ、やっぱり古典はおもしろいなあ。僕は一応「社会学専攻」と自称しているし、なかば哲学、なかばジャーナリズムのような社会学のたたずまいに愛着を持っているけれど、次々に現れる具体的な「社会問題」への対応から少しだけ離れたところで、テクストに沈潜するような勉強に、何年間かひたすら埋没してみたいという気持ちがどんどん強くなっている。たとえば哲学の勉強が、アクチュアルな問題から離れることを本質的に意味するわけではないということは、もちろんわかっている。その上での話なのだ。……まあ結局、もういちど学生といういい加減な身分に戻って、好きなことを勉強して暮らしたい、という若返り願望にすぎないのかもしれないのだけれども。(午後8時5分)